第八話_品川分室
品川の、運河沿いの倉庫街に、その建物はあった。
四階建ての、白いコンクリートの箱。窓は少なく、どれも、内側から黒いフィルムで塞がれている。正面玄関の看板は、外されていた。外された跡だけが、壁に、うっすらと、四角く残っている。
〈国立界面物理研究所 品川分室〉。
十五年前まで、そう書いてあったはずの、場所。
「警備は、正面に二人。裏口に二人。屋上に一人。中は、分かりません」
運河を挟んだ、向かいの倉庫の屋上で、凛が、双眼鏡を下ろした。
午前一時。
裂界の抜け道を出て、カラスで一時間。斎は、カラスの後ろには乗らなかった。「三人は無理だろう?」と困ったように笑って、ビルの屋上から屋上へ、一人で、跳んできた。息一つ、切らしていない。
「中は、僕が、なんとかしよう」
「兄さん、一人で、全部止められますか」
「止めるのは、できる。でも、止めている間、僕は動けない。凛が、眠らせて」
「了解です」
「篠宮くんは」
斎が、俺を見た。
「恭一さんの研究室を、探してほしい。場所は、僕にも、分からない。古い図面には、載っていなかった」
「……探すって、どうやって」
「君なら、できるだろう?」
斎は、自分の足元を、指差した。
「歩いた跡を、読めばいい」
*
斎の凪は、静かだった。
裏口の警備員二人が、何かに気づいて、振り返ろうとした。その動きが、途中で、ゆっくりと、ゆっくりと、止まっていく。驚きの表情のまま、まるで、水の中で、時間をかけて、首を回しているみたいに。
その背後に、凛が、音もなく回りこむ。
刀の柄頭で、首筋を、とん、と、ひとつずつ。
警備員が、崩れる。斎が、凪を解く。倒れる体を、凛が、そっと、支えて、床に寝かせる。
十秒もかからなかった。
「……慣れてんな、お前ら」
「稽古で、何百回も」
凛は、淡々と言った。
裏口の、電子ロック。凛が、刀を、ちょん、と当てる。
ほつれを斬られたロックが、音もなく、外れた。
*
建物の中は、薄暗かった。
非常灯の、緑色の光。リノリウムの床。両側に、閉じられたドアが、並んでいる。〈第一解析室〉。〈第二解析室〉。〈標本保管庫〉。
標本、という文字に、斎の目が、一瞬だけ、鋭くなった。
「千鳥は、たぶん、地下だ」
「兄さんと私で、行きます。篠宮は」
「分かってる」
俺は、手袋を外して、床に、しゃがみこんだ。
手のひらを、リノリウムに、押し当てる。
——流れこんでくる。
〈追想〉は、使わない。読むだけだ。読むだけなら、何も、消えない。
この廊下を歩いた、無数の足。白衣の研究者の、せかせかした足取り。警備員の、規則正しい巡回。第一課の隊員の、重いブーツ。
全部、新しい。この数か月の、動き。
その下へ。
もっと、古い層へ。
——あった。
十五年以上前の、足跡。
ほとんど、消えかけている。でも、何千回と、同じ場所を、同じ歩幅で、歩いた足だから、薄くても、まだ、残っている。
細くて、少し、せっかちな足取り。
つま先が、少しだけ、内側を向いている。
——知らない、足だった。
知らない、はずだった。
なのに、その足取りを読んだ瞬間、胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられた。
手帳の、最初のほうに、書いてある。〈父さんは、歩くのが速かった。俺は、いつも、走ってついていった。〉
読んでも、何も、思い出さなかった。
でも。
この足は、その文章と、同じ速さで、歩いていた。
「……こっちだ」
足跡を、たどる。
廊下の、突き当たり。〈機械室〉と書かれた、ドア。中は、ボイラーと、配管と、埃だらけの、古い空調設備。
足跡は、その奥の、壁の前で、途切れていた。
ただの、コンクリートの壁。
でも、足跡は、ここで、くるりと向きを変えて、壁の中へ、消えている。
壁に、手を当てる。
読む。
——指の、動き。
壁の、右下。床から、三十センチの高さ。そこを、指で、三回、押す。
押した。
三回。
かちり、と、小さな音がした。
壁の一部が、内側に、わずかに、沈みこんだ。
隠し扉だった。
*
狭い、階段が、下へと、続いていた。
その先に、小さな部屋が、あった。
六畳くらいの、窓のない部屋。壁際に、本棚。机が、一つ。椅子が、一つ。机の上には、古いノートパソコンと、何冊もの、大学ノート。すべてが、十五年分の埃を、灰色に、かぶっている。
誰も、ここに入っていない。十五年間、一度も。
第一課も、この部屋のことは、知らないんだ。
——父さんの、部屋。
懐中電灯で、照らす。
机の上に、写真立てが、一つ、あった。
埃を、指で、拭う。
三人が、写っていた。
眼鏡をかけた、痩せた男。笑っている。目尻に、皺を寄せて。
その隣に、女の人。
短い髪。少し、いたずらっぽい目。大きな口を開けて、何かを言いかけているみたいに、笑っている。
その腕の中に、赤ん坊。
しわくちゃの顔で、眠っている。
写真の裏に、走り書きがあった。
〈迅、生後三か月。澪が、また子守唄を間違えた。でも、最後まで歌った。迅は、最後まで聞いて、寝た。〉
——澪。
母さんの、名前。
手帳にも、書いていなかった。たぶん、俺は、最初から、知らなかったんだ。
写真の中の女の人を、見つめた。
何も、思い出さなかった。
声も、顔も、何も。
ただ、大きな口を開けて笑っているその顔が、なんだか、とても、うるさそうで。
きっと、子守唄も、大声で、間違えながら、歌ったんだろうな、と思った。




