第九話_父のノート
机の上の、大学ノートを、開いた。
父さんの字だった。細くて、少し右上がりの、せっかちな字。
最初のほうは、数式と、図面ばかりで、何が書いてあるのか、まったく分からなかった。
ページを、めくる。
ある日付から、字が、変わった。
乱れていた。
〈十六年前、八月二十日。〉
〈第一次界面接触実験。被験者:篠宮澪(本人の強い希望による)。〉
〈界面接触、成功。被験者、残響層を直接観測。「すごい、恭一くん。全部、見える。全部、覚えてる。この世界の、全部」〉
〈接触時間、四十二秒で、異常発生。〉
〈被験者、消失。〉
ノートを持つ手が、止まった。
次のページ。
〈八月二十一日。澪がいない。〉
〈八月二十二日。澪がいない。迅が、泣き止まない。〉
〈八月二十五日。界面装置の残留データを解析。澪の動きの残響が、残響層の中で、検出され続けている。澪は、死んでいない。残響層の中に、溶けている。〉
〈九月一日。澪の声が、聞こえる。装置の、ノイズの中に。歌っている。〉
〈子守唄だ。〉
〈間違えている。〉
〈いつもと、同じところで。〉
ページを、めくる。
字が、どんどん、乱れていく。
〈十一月。界面装置を、拡張する。〈扉〉を作る。澪を、こちら側に、引き戻すための。〉
〈一月。扉の設計完了。ただし、界面への接続体が必要。研究所の全職員を検査。適合者、なし。〉
〈三月。〉
〈迅を、検査した。〉
——え。
〈適合率、測定上限超過。〉
〈迅は、澪と、同じだ。いや、澪以上だ。迅は、生まれたときから、ずっと、残響層の近くにいた。澪が、ずっと、迅のそばで、歌っていたから。〉
〈迅なら、届く。〉
〈迅なら、澪を、呼べる。〉
手が、震えていた。
ページを、めくる指が、うまく、動かなかった。
〈七月。不破くんに、計画を話した。強く反対された。「息子を使う気か」と。〉
〈分かっている。〉
〈分かっている。〉
〈分かっている。〉
〈でも、迅は、毎晩、泣くんだ。母さんの歌がないと、眠れないって。〉
〈迅に、母さんを、返してやりたい。〉
〈それが、言い訳だということも、分かっている。〉
〈本当は、僕が、澪に、会いたいだけだ。〉
最後の、ページ。
日付は、十五年前の、八月十四日。
零時の、前日。
〈明日、決行する。〉
〈迅を、扉の前に、連れていく。迅が、母さんを呼べば、澪は、きっと、応える。〉
〈もし、失敗したら。〉
〈そのときは、僕が、責任を取る。〉
〈迅には、何も、背負わせない。〉
〈迅。〉
〈ごめん。〉
〈許さなくていい。〉
〈忘れていい。〉
——忘れて、いいからな。
手帳に、書いてある。満潮の夜、扉の前で、父さんの動きを借りて、俺自身の口が、こぼした言葉。
〈迅、ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。……忘れて、いいからな〉
あれは。
あれは、優しい言葉だと、思っていた。
俺が、これからも、記憶を失い続けることを、父さんが、許してくれたんだと。
違った。
あれは。
——俺を使ったことを、忘れていい、って。
ノートを、閉じた。
閉じた手が、ノートの表紙の上で、ずっと、震えていた。
懐中電灯の光が、震えて、揺れていた。
写真立ての中で、父さんが、笑っていた。
目尻に、皺を寄せて。
母さんの隣で。
——なんで、笑ってんだよ。
声に、ならなかった。
*
机の、引き出しを、開けた。
中に、古い、小さなカセットテープが、一本、入っていた。
ラベルに、手書きで。
〈澪 子守唄 (迅、生後六か月)〉
手に取った。
軽かった。
ジャケットの、内ポケットに、しまった。黒い手帳の、隣に。
大学ノートも、全部、リュックに詰めた。写真立ても。
部屋を、出ようとしたとき。
——ごぉん。
建物の、どこかで、音がした。
鐘じゃない。
警報だった。
*
階段を駆け上がって、機械室を出る。
廊下が、赤く点滅していた。サイレンが、鳴り響いている。
「篠宮!」
廊下の向こうから、凛が、走ってきた。
その後ろに、斎。斎は、腕の中に、何かを、抱えていた。
小さな、女の子だった。
白い着物は、着ていなかった。白い、病院の検査着のようなものを着せられている。腕に、点滴の痕が、いくつも。
そして、体が、透けていた。
半透明。残影と、同じように。輪郭が、ちらちらと、揺れている。
「千鳥……!」
「見つけた。地下の、解析室で」
斎の声は、穏やかだった。
でも、千鳥を抱く腕が、震えていた。
「残響層から切り離された状態で、ずっと、測定装置に繋がれていた。形が、保てなくなってきている。早く、裂界に戻さないと」
「急ぎましょう。警報が」
——ぱち、ぱち、ぱち。
拍手の、音がした。
廊下の、反対側から。
「大正解。隠し部屋、見つけたんだ。自分たちも知らなかった」
黒い戦闘服の、少年が、立っていた。
その後ろに、第一課の隊員が、十人。
柊鏡也。
やっぱり、顔が、分からない。
でも、声は、分かる。冷めた、よく通る声。
「千鳥ちゃんを返しに来るのは、予想してた。九条斎。あんたが、必ず来ると思って、餌として、ここに置いといたんだよ」
「……そうか」
斎は、千鳥を、凛に、そっと手渡した。
「凛。千鳥を、頼む」
「兄さん」
「篠宮くんと、先に行って」
斎は、一歩、前に出た。
鏡也と、向かい合う。
「君が、柊くんか。噂は、聞いているよ。何でも、写せるんだってね」
「見たものならね」
「なら、僕の力は、見せないほうがいいかな」
「もう、遅いよ」
鏡也が、言った。
「さっき、地下で、あんたが警備員を止めるところ、監視カメラで、見てたから」
斎の顔が、ほんのわずかに、強張った。
鏡也の瞳の奥で、何かが、ぎらりと光った。
「〈写し〉」
鏡也が、片手を、差し伸べた。
斎と、同じ仕草で。
「——〈凪〉」
*
体が、止まった。
いや、止まったんじゃない。
あの、感覚だ。
満潮の夜、手帳に書いてある。〈斎の凪:周り十メートル、すべての動きの勢いが死ぬ〉。読んだだけで、覚えてはいない。
でも、体が、覚えていた。
水飴の中を、進むような。足を前に出そうとしても、腕を振ろうとしても、すべての勢いが、どこかに、吸いこまれていく。
凛も、止まっていた。千鳥を抱いたまま。目だけが、必死に、動いている。
そして、斎も。
止まっていた。
「……っ」
斎の顔に、初めて、焦りが、浮かんでいた。
「凪は、使い手の動きだけは、止めない。でしょ?」
鏡也が、ゆっくりと、歩いてくる。
凪の中を、普通に。
「今の使い手は、自分。だから、止まらないのは、自分だけ。あんたも、止まる」
鏡也が、斎の前に、立った。
腰の、ナイフを、抜いた。
「九条斎。満潮の首謀者。生死は問わない、って言われてる」
「——兄さん!」
凛の声が、ゆっくりと、引き伸ばされて、聞こえた。
鏡也のナイフが、斎の脇腹に、吸いこまれていった。
ゆっくりと。
斎の顔が、歪む。
血が、白い詰襟を、赤く、染めていく。
それすら、ゆっくりと。
「次は、運び屋。あんたを、連れていく」
鏡也が、俺のほうを、向いた。
「残り、四十秒。それまでに、手足、縛らせてもらう」
——くそ。
動け。
動け、動け、動け。
体が、動かない。
凪の中で、動けるのは、使い手の、動きのリズムだけ。
満潮の夜、俺は、斎の動きを借りて、斎の凪を、すり抜けた。手帳に、書いてある。〈斎の動きのリズムで、凪を通り抜けた〉。
今の使い手は、鏡也だ。
だったら。
——鏡也の、動きを。
俺の手は、床に、ついていた。
凪に止められる前に、たまたま、床に、手をついていた。
その床を、鏡也は、今、歩いてきた。
凪の中を、ただ一人、普通に、歩いてきた。
その足跡が、ここに、ある。
今日、一回目。
「〈追想〉」
体が、鏡也になった。
細くて、しなやかで、でも、どこか、力の抜けた、鏡也の体の使い方。
そして。
凪が、俺を、止めなかった。
俺の体だけが、凪の中を、動き出した。
鏡也が、気づいた。
振り返る。
その目が、見開かれる。
「——あんた、自分の、動きを」
俺の体が、踏みこむ。
鏡也と、同じ歩幅で。鏡也と、同じリズムで。
鏡也の、懐へ。
鏡也は、とっさに、ナイフを構えた。
でも、俺の体は、鏡也の体だった。鏡也が、どう動くか、知っていた。ナイフを構えるときの、右肩の、わずかな、癖。
その右肩を、左手で、押さえる。
右の拳を、鏡也の、腹に。
——どすっ。
鏡也の体が、くの字に、折れた。
五秒。
体が、俺に、戻ってきた。
凪が、まだ、効いている。俺の体の勢いが、また、吸いこまれていく。
でも、鏡也は、膝をついていた。
腹を押さえて、咳きこんで。
集中が、途切れた。
——凪が、解けた。
世界の速さが、戻ってくる。
「兄さん!」
凛が、千鳥を抱いたまま、斎に、駆け寄った。
斎は、脇腹を押さえて、壁に、もたれていた。白い詰襟が、真っ赤に、染まっている。
「大丈夫……浅い、よ」
「嘘です!」
「……半分、嘘、かな」
斎は、困ったように、笑った。
顔が、真っ青だった。
第一課の隊員たちが、銃を、構え直す。
「〈断〉」
凛の刀が、閃いた。
十の銃口が、まとめて、落ちる。
凛の唇が、紫色になる。でも、凛は、止まらなかった。
「篠宮! 兄さんを!」
「分かってる!」
斎の腕を、肩に回す。重い。でも、行ける。
廊下を、走る。裏口へ。
振り返る。
鏡也が、床に膝をついたまま、こっちを見ていた。
腹を押さえて。肩で、息をしながら。
——追ってこない。
凪の六十秒は、まだ、残っているはずだ。もう一度、使えば、俺たちを、止められる。
なのに、鏡也は、動かなかった。
「……運び屋」
鏡也の声が、廊下に、響いた。
「今の、俺の、動きだろ」
——俺。
初めて聞く、一人称だった。
「……俺の動き、どうだった」
何を、聞かれているのか、分からなかった。
でも、なぜか、答えなきゃいけない気がした。
「寒かった」
俺は、言った。
「体中、力が抜けてて、全部どうでもいいって感じの体だった。……でも、ナイフ構えるときだけ、右肩、すげえ力入ってた」
「……」
「怖えんだろ、お前。人、刺すの」
鏡也の目が、見開かれた。
顔は、やっぱり、分からない。
でも、その目だけは、はっきりと、見えた。
俺は、背を向けた。
裏口の、ドアを、蹴り開けた。
背後で、鏡也が、何か、言った気がした。
聞き取れなかった。




