第七話 霧の中の幻影
分からなかった。
霧の中に立つ二人の凛は、本当に、寸分違わず同じだった。髪の乱れ方も、刀の角度も、肩で息をするリズムも。片方が瞬きをすると、もう片方も同じタイミングで瞬きをする。
「「篠宮」」
二つの声が、重なる。
片方は本物だ。もう片方は、千鳥とかいうやつの幻影。そして、本物の凛は、自分では、どっちが本物か分からなくなっている——いや、違う。本物は分かっているはずだ。分からないのは、俺だ。
なぜ、俺に聞く?
答えはすぐに分かった。
「くすくす。凛ちゃんはね、今、ちどりの幻影と鏡みたいに繋がってるんだよぉ。凛ちゃんが動くと、幻影も同じように動く。だから、凛ちゃんが幻影を斬ろうとすると、幻影も凛ちゃんを斬ろうとする。相打ちだよぉ」
霧のどこかから、千鳥の声が、楽しそうに響く。
「でもね、ちょっとだけ、ずれがあるの。ほんのちょっと。それを外から見つけて、本物に教えてあげれば、本物は先に動ける。ね? 簡単でしょ?」
「……性格悪いな、お前」
「えへへ。よく言われるぅ」
見る。目を凝らす。二人の凛。ずれ。ほんのちょっとの、ずれ。
見えない。俺の目じゃ、無理だ。
——ごぉん。
また、鐘が鳴った。
その音に、霧の向こうで、硝子の擦れる音が重なる。さっきの俺の叫び声に、虚獣が寄ってきている。時間がない。
目じゃ無理なら。
俺は、しゃがみこんだ。
手袋を外す。地面に、手のひらを押し当てる。
——流れこんでくる。
この広場に残された、動き。調査班の隊員たちが倒れた動き。久我が這いずった動き。凛が走り、踏みこみ、刀を振った動き。
足音。
凛の足が地面を蹴った、その強い残響が、点々と、霧の中へ続いている。右の凛の足元へ。
左の凛の足元には。
何もない。
地面が、何も覚えていない。
「右だ!」
俺は叫んだ。
「右が本物! 左は、地面を踏んでない!」
右の凛が、動いた。
ほんの、ほんのわずかに、左の凛よりも先に。
白い刀身が、横一文字に閃く。
左の凛が、遅れて刀を振ろうとして——その前に、胴体の真ん中で、すぱりと二つに裂けた。
血は出なかった。煙みたいに、霧に溶けて消えた。
「……あれぇ?」
千鳥の声が、初めて、少しだけ、戸惑った。
「〈追想〉、使ってねえぞ。今のは」
俺は立ち上がりながら言った。
「触って、読んだだけだ。誰が、どこを、踏んだか。お前の幻影は、足音がしない。地面に、何も残さない」
読むだけなら、代償はない。再現するときだけ、記憶が消える。それは、俺が何年もかけて確かめたことだ。
凛が、刀を構え直して、俺を見た。
紫色の唇が、小さく動いた。
「……助かりました」
「礼は後でいい。まだ来るぞ」
*
「ふうん。面白いね、お兄さん」
霧が、渦を巻いた。
広場の四方から、小さな少女の影が、次々と湧き出してくる。十。二十。三十。全部、同じ白い着物。同じ笑い顔。
「じゃあ、この中から、本物のちどりを見つけられる?」
三十人の千鳥が、一斉に、首を傾げた。
「見つけられなかったら、二人とも、あの人たちと同じように、眠らせてあげるねぇ」
倒れた四人の隊員。目を開けたまま、何かを見つめていた。
幻影に、何を見せられたんだろう。
「篠宮」
凛が、小声で言った。
「彼女の本体を、探せますか」
「探すだけなら、たぶん」
「では、お願いします。見つけたら、私が斬ります」
「……お前、もう唇真っ紫だぞ。あと何回いける」
「問題ありません」
「それ、問題あるときの言い方だろ」
「…………あと、二回です」
凛は、正直に答えた。
二回。外したら、終わり。
俺は、もう一度、地面に手を当てた。
千鳥の幻影は、地面に何も残さない。じゃあ、本物は?
本物は、どこかを、踏んでいるはずだ。
探す。広場全体の、動きの残響を、手のひらで、なぞるように。
——あった。
小さな足。軽い足取り。跳ねるような、楽しそうな歩き方。広場の東側から入ってきて、倒れた隊員たちの間を、ひとりひとり覗きこむように歩いて、それから、霧の濃いほうへ。
どこへ?
足跡は、ぐるぐると、何かを避けるように回り込んで、それから、ふっと、地面から消えていた。
消えた? いや、違う。
上だ。
足跡が途切れた場所の真上。展示場の、逆三角形の建物の、ひしゃげた鉄骨の梁。
霧の外。
——あそこに、いる。
でも、ここから指差しても、凛には見えない。霧が濃すぎる。凛の〈断〉は、視界の中のものしか斬れない。
なら。
俺が、あいつのところまで、行くしかない。
「九条。俺が合図したら、俺の前、一メートルのところを斬れ」
「何を」
「いいから」
俺は、手のひらを地面に押しつけたまま、息を吸った。
千鳥の足跡。あの、楽しそうな、跳ねるような足取り。地面から梁へ、どうやって登ったのか。その動きの残響も、全部、ここに残っている。
今日、一回目。
「〈追想〉」
体が、軽くなった。
自分の体重が、半分になったみたいだった。千鳥の歩き方。跳ねる。くるりと回る。倒れた瓦礫を蹴る。壊れた街灯の柱に飛びつく。くるくると、まるで踊るように。展示場の外壁の凹凸を、つま先だけで、とん、とん、と。
他人の、それも子供みたいに小さな体の動きを、俺の体で無理やり再現する。関節が軋む。足首が、悲鳴を上げる。
でも、止まらない。
四秒。
俺は、鉄骨の梁の上にいた。
五秒。
目の前に、白い着物の少女が、しゃがみこんでいた。
本物だ。
幻影と同じ顔。でも、髪の毛先が、少しだけ汗で湿っている。地面に影が落ちている。そして、何より、目が。
ぎょっとしたように、見開かれている。
「え、なんで——」
「今だ、九条! 俺の前、一メートル!」
霧の下から、凛の声が、聞こえた。
「——〈断〉」
見えていなくても、俺の声の位置は分かる。
俺の前、一メートル。
千鳥が、いる場所。
空気が、一本の線に、裂けた。
「ぎっ……!」
千鳥が、とっさに身を捩った。白い着物の左の袖が、肩口から、すっぱりと落ちる。その下の細い腕に、赤い線が走る。
浅い。
致命傷じゃない。でも、千鳥の顔から、初めて笑みが消えた。
霧が、ぐらりと揺らぐ。三十人の幻影が、ノイズのように、ちらつく。
「……いったぁい」
千鳥は、斬られた腕を押さえて、俺を見上げた。
その目が、また、笑った。
さっきまでと違う笑い方だった。子供の笑いじゃない。何か、もっと古くて、ねっとりした。
「お兄さん、ずるいなあ。ちどりの歩き方、真似っこしたでしょ」
「真似っこじゃねえ。借りただけだ」
「ふうん。〈追想〉、っていうんだ。いい力だね。白鷺さまが欲しがるわけだ」
「……白鷺さま?」
千鳥は、答えずに、くすくすと笑った。
それから、梁の下へ、霧の下へ、大きな声で呼びかけた。
「ねえ、凛ちゃーん!」
霧の下で、凛が、息を呑む音がした気がした。
「お兄さん、元気だよぉ!」
——時間が、止まったような気がした。
「白鷺さまね、凛ちゃんに会いたがってたよ。雪代、大事にしてくれてありがとう、って。そう伝えてって」
「……嘘です」
霧の下から、凛の声。
掠れていた。
「兄は、三年前に」
「死んでないよぉ。だって、ちどりたち、毎日一緒にご飯食べてるもん」
千鳥は、ひらりと立ち上がった。斬られた腕から、ぽたぽたと血が落ちる。それでも、楽しそうに。
「また遊ぼうね、お兄さん。今度はもっと、楽しい夢、見せてあげる」
霧が、一気に濃くなった。
俺の視界が、真っ白に塗り潰される。
手を伸ばした。千鳥の白い着物の端を、掴んだ——と思った。
指が、空を掴んだ。
霧が晴れたとき、梁の上には、誰もいなかった。




