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残響ランナー ~能力を使うたびに記憶を失う運び屋は、崩壊した東京を駆け抜ける~  作者: 深夜のトースト
第一章 零時の扉

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第七話 霧の中の幻影

 分からなかった。


 霧の中に立つ二人の凛は、本当に、寸分違わず同じだった。髪の乱れ方も、刀の角度も、肩で息をするリズムも。片方が瞬きをすると、もう片方も同じタイミングで瞬きをする。


「「篠宮」」


 二つの声が、重なる。


 片方は本物だ。もう片方は、千鳥とかいうやつの幻影。そして、本物の凛は、自分では、どっちが本物か分からなくなっている——いや、違う。本物は分かっているはずだ。分からないのは、俺だ。


 なぜ、俺に聞く?


 答えはすぐに分かった。


「くすくす。凛ちゃんはね、今、ちどりの幻影と鏡みたいに繋がってるんだよぉ。凛ちゃんが動くと、幻影も同じように動く。だから、凛ちゃんが幻影を斬ろうとすると、幻影も凛ちゃんを斬ろうとする。相打ちだよぉ」


 霧のどこかから、千鳥の声が、楽しそうに響く。


「でもね、ちょっとだけ、ずれがあるの。ほんのちょっと。それを外から見つけて、本物に教えてあげれば、本物は先に動ける。ね? 簡単でしょ?」


「……性格悪いな、お前」


「えへへ。よく言われるぅ」


 見る。目を凝らす。二人の凛。ずれ。ほんのちょっとの、ずれ。


 見えない。俺の目じゃ、無理だ。


 ——ごぉん。


 また、鐘が鳴った。


 その音に、霧の向こうで、硝子の擦れる音が重なる。さっきの俺の叫び声に、虚獣が寄ってきている。時間がない。


 目じゃ無理なら。


 俺は、しゃがみこんだ。


 手袋を外す。地面に、手のひらを押し当てる。


 ——流れこんでくる。


 この広場に残された、動き。調査班の隊員たちが倒れた動き。久我が這いずった動き。凛が走り、踏みこみ、刀を振った動き。


 足音。


 凛の足が地面を蹴った、その強い残響が、点々と、霧の中へ続いている。右の凛の足元へ。


 左の凛の足元には。


 何もない。


 地面が、何も覚えていない。


「右だ!」


 俺は叫んだ。


「右が本物! 左は、地面を踏んでない!」


 右の凛が、動いた。


 ほんの、ほんのわずかに、左の凛よりも先に。


 白い刀身が、横一文字に閃く。


 左の凛が、遅れて刀を振ろうとして——その前に、胴体の真ん中で、すぱりと二つに裂けた。


 血は出なかった。煙みたいに、霧に溶けて消えた。


「……あれぇ?」


 千鳥の声が、初めて、少しだけ、戸惑った。


「〈追想〉、使ってねえぞ。今のは」


 俺は立ち上がりながら言った。


「触って、読んだだけだ。誰が、どこを、踏んだか。お前の幻影は、足音がしない。地面に、何も残さない」


 読むだけなら、代償はない。再現するときだけ、記憶が消える。それは、俺が何年もかけて確かめたことだ。


 凛が、刀を構え直して、俺を見た。


 紫色の唇が、小さく動いた。


「……助かりました」


「礼は後でいい。まだ来るぞ」


     *


「ふうん。面白いね、お兄さん」


 霧が、渦を巻いた。


 広場の四方から、小さな少女の影が、次々と湧き出してくる。十。二十。三十。全部、同じ白い着物。同じ笑い顔。


「じゃあ、この中から、本物のちどりを見つけられる?」


 三十人の千鳥が、一斉に、首を傾げた。


「見つけられなかったら、二人とも、あの人たちと同じように、眠らせてあげるねぇ」


 倒れた四人の隊員。目を開けたまま、何かを見つめていた。


 幻影に、何を見せられたんだろう。


「篠宮」


 凛が、小声で言った。


「彼女の本体を、探せますか」


「探すだけなら、たぶん」


「では、お願いします。見つけたら、私が斬ります」


「……お前、もう唇真っ紫だぞ。あと何回いける」


「問題ありません」


「それ、問題あるときの言い方だろ」


「…………あと、二回です」


 凛は、正直に答えた。


 二回。外したら、終わり。


 俺は、もう一度、地面に手を当てた。


 千鳥の幻影は、地面に何も残さない。じゃあ、本物は?


 本物は、どこかを、踏んでいるはずだ。


 探す。広場全体の、動きの残響を、手のひらで、なぞるように。


 ——あった。


 小さな足。軽い足取り。跳ねるような、楽しそうな歩き方。広場の東側から入ってきて、倒れた隊員たちの間を、ひとりひとり覗きこむように歩いて、それから、霧の濃いほうへ。


 どこへ?


 足跡は、ぐるぐると、何かを避けるように回り込んで、それから、ふっと、地面から消えていた。


 消えた? いや、違う。


 上だ。


 足跡が途切れた場所の真上。展示場の、逆三角形の建物の、ひしゃげた鉄骨の梁。


 霧の外。


 ——あそこに、いる。


 でも、ここから指差しても、凛には見えない。霧が濃すぎる。凛の〈断〉は、視界の中のものしか斬れない。


 なら。


 俺が、あいつのところまで、行くしかない。


「九条。俺が合図したら、俺の前、一メートルのところを斬れ」


「何を」


「いいから」


 俺は、手のひらを地面に押しつけたまま、息を吸った。


 千鳥の足跡。あの、楽しそうな、跳ねるような足取り。地面から梁へ、どうやって登ったのか。その動きの残響も、全部、ここに残っている。


 今日、一回目。


「〈追想〉」


 体が、軽くなった。


 自分の体重が、半分になったみたいだった。千鳥の歩き方。跳ねる。くるりと回る。倒れた瓦礫を蹴る。壊れた街灯の柱に飛びつく。くるくると、まるで踊るように。展示場の外壁の凹凸を、つま先だけで、とん、とん、と。


 他人の、それも子供みたいに小さな体の動きを、俺の体で無理やり再現する。関節が軋む。足首が、悲鳴を上げる。


 でも、止まらない。


 四秒。


 俺は、鉄骨の梁の上にいた。


 五秒。


 目の前に、白い着物の少女が、しゃがみこんでいた。


 本物だ。


 幻影と同じ顔。でも、髪の毛先が、少しだけ汗で湿っている。地面に影が落ちている。そして、何より、目が。


 ぎょっとしたように、見開かれている。


「え、なんで——」


「今だ、九条! 俺の前、一メートル!」


 霧の下から、凛の声が、聞こえた。


「——〈断〉」


 見えていなくても、俺の声の位置は分かる。


 俺の前、一メートル。


 千鳥が、いる場所。


 空気が、一本の線に、裂けた。


「ぎっ……!」


 千鳥が、とっさに身を捩った。白い着物の左の袖が、肩口から、すっぱりと落ちる。その下の細い腕に、赤い線が走る。


 浅い。


 致命傷じゃない。でも、千鳥の顔から、初めて笑みが消えた。


 霧が、ぐらりと揺らぐ。三十人の幻影が、ノイズのように、ちらつく。


「……いったぁい」


 千鳥は、斬られた腕を押さえて、俺を見上げた。


 その目が、また、笑った。


 さっきまでと違う笑い方だった。子供の笑いじゃない。何か、もっと古くて、ねっとりした。


「お兄さん、ずるいなあ。ちどりの歩き方、真似っこしたでしょ」


「真似っこじゃねえ。借りただけだ」


「ふうん。〈追想〉、っていうんだ。いい力だね。白鷺さまが欲しがるわけだ」


「……白鷺さま?」


 千鳥は、答えずに、くすくすと笑った。


 それから、梁の下へ、霧の下へ、大きな声で呼びかけた。


「ねえ、凛ちゃーん!」


 霧の下で、凛が、息を呑む音がした気がした。


「お兄さん、元気だよぉ!」


 ——時間が、止まったような気がした。


「白鷺さまね、凛ちゃんに会いたがってたよ。雪代、大事にしてくれてありがとう、って。そう伝えてって」


「……嘘です」


 霧の下から、凛の声。


 掠れていた。


「兄は、三年前に」


「死んでないよぉ。だって、ちどりたち、毎日一緒にご飯食べてるもん」


 千鳥は、ひらりと立ち上がった。斬られた腕から、ぽたぽたと血が落ちる。それでも、楽しそうに。


「また遊ぼうね、お兄さん。今度はもっと、楽しい夢、見せてあげる」


 霧が、一気に濃くなった。


 俺の視界が、真っ白に塗り潰される。


 手を伸ばした。千鳥の白い着物の端を、掴んだ——と思った。


 指が、空を掴んだ。


 霧が晴れたとき、梁の上には、誰もいなかった。


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