第六話 鐘の鳴る街
灯台島に寄ったのは、ついでだった。いや、ついでじゃない。補給だ。そういうことにしておく。
「じんにいちゃん!」
「声」
「あっ」
湊が両手で口を押さえて、それから、俺の後ろに立つ凛を見上げて、目を真ん丸にした。
「……だれ?」
「仕事仲間」
「かのじょ?」
「違います」
凛が、俺より先に即答した。
湊は、凛の腰の刀を、じっと見つめていた。目が、きらきらしている。
「それ、ほんもの?」
「……本物です」
「さわっていい?」
「駄目です」
「ちょっとだけ」
「駄目です。危険です」
「じゃあ、みるだけ」
「…………」
凛は困ったように俺を見た。俺は肩をすくめた。
凛は、しばらく考えてから、湊の前にしゃがみこんだ。雪代を、鞘ごと、両手で横向きに持って、湊の目の高さに差し出した。
「見るだけです。触ってはいけません」
「うわあ……」
湊は、息を呑んで、白い鞘を見つめた。触らないように、両手を後ろに組んで。凛はその様子を、黙って見ていた。
ほんの少しだけ、口の端が、柔らかくなった気がした。
「あんたが、零課の嬢ちゃんかい」
千代婆さんが、杖をついて現れた。手に、湯気の立つ湯呑みを持っている。
「迅坊から聞いてるよ。前輪の」
「……その件は、申し訳ありませんでした」
「謝るのはあたしにじゃないだろ。ほら、飲みな。寒そうな顔してる」
差し出された湯呑みの中身は、甘酒だった。凛は少し迷ってから、両手で受け取って、ひと口すすった。
それから、ぴたりと動きを止めた。
「…………おいしい」
小さな声だった。
「だろう。砂糖をたんと入れてあるからね」
「……」
凛は、黙って、もうひと口すすった。それから、もうひと口。湯呑みを持つ指先に、少しずつ、血の色が戻っていく。
俺は、見なかったことにした。
千代婆さんは、満足そうに笑って、それから俺に顔を寄せた。
「深いほうへ行くのかい」
「ああ。鐘の音を確かめに」
「……昨日の夜も鳴ったよ。前より、近くなってる気がする」
婆さんの目が、旧有明のほうへ向けられる。
「迅坊。帰りもここへ寄りな。必ずだよ」
「時間指定は?」
「なしだよ。生きて帰ってくりゃ、いつでもいい」
*
旧有明に近づくにつれて、裂界は、その本性を剥き出しにした。
まず、時間がおかしくなる。
ある交差点を渡ると、急に、すべてがゆっくりになった。風に舞う紙屑が、空中でほとんど止まって見える。自分の腕を振ると、腕の動きに、残像が尾を引く。
『止まらないでください。〈淀み〉です。長くいると、外との時間がずれます』
『知ってる。息止めて突っ切るぞ』
アクセルを開ける。重たい水の中を進むような抵抗。それを抜けた瞬間、世界が元の速さに戻る。耳が、きいん、と鳴った。
次に、残影が増えた。
道の両側に、半透明の人影が、びっしりと並んでいる。走る人。転ぶ人。誰かを抱きかかえる人。空を見上げる人。みんな、同じ数秒を、何度も、何度も、繰り返している。
誰も、声を出していない。
でも、口だけは、動いている。何かを叫んでいる。誰かの名前を呼んでいる。
十五年前の、あの夜の、最後の数秒。
凛の腕に、力がこもった。
俺は、前だけを見て走った。
灯台島の女子高生の残影を思い出す。毎朝、笑っていた彼女。こっちの残影は、誰も笑っていない。中心に近いほど、あの夜の恐怖が、濃く残っているのかもしれない。
そして。
——ごぉん。
音が、した。
遠くで。いや、近くで。分からない。音の方向が、つかめない。まるで、裂界全体が、ひとつの巨大な鐘になって、震えているみたいだった。
——ごぉん。
空気が、震える。腹の底に、響く。
周りの虚獣たちが、一斉に動きを止めた。崩れたビルの窓から、路地の陰から、硝子の体が顔を出し、裂け目を、一つの方向へ向ける。
旧有明。
その中心に、細長い影が、空を突き刺すように立っていた。
時計塔だ。
旧国立界面物理研究所。零時の、震源地。
——ごぉん。
三度目の音と共に、時計塔の頂上で、何かが青白く光った。
心臓の鼓動みたいに。
*
旧国際展示場は、逆三角形の巨大な建物が、半分だけ地面に埋まったような姿をしていた。
ビーコンの最終信号地点は、その正面の広場。
カラスを瓦礫の陰に停める。ヘルメットを脱ぐ。空気が、冷たい。
「……血の匂いがします」
凛が、低く言った。
広場には、ばらばらに、黒い装備が散らばっていた。ヘルメット。無線機。弾の切れた小銃。
それと、人が、四人。
倒れていた。動かなかった。
凛は、黙って彼らのそばに膝をつき、一人ずつ、首筋に指を当てていった。一人目。二人目。三人目。四人目。
そのたびに、何も言わずに、小さく首を振った。
俺は、少し離れた場所で、それを見ていた。
四人とも、外傷が少なかった。虚獣にやられたなら、もっとひどいことになっているはずだ。なのに、彼らはまるで、眠っているみたいだった。目を開けたまま。
何かを、見つめたまま。
「五人目は」
俺の言葉に、凛が顔を上げた。
広場の隅。展示場の入口の、割れたガラス扉の陰で、何かが、かすかに動いた。
「——っ、まだ生きてる!」
駆け寄る。若い男だった。零課の装備。顔が真っ青で、唇が乾いて割れている。でも、胸が、浅く上下していた。
「おい、しっかりしろ!」
「く……が……」
「久我さん!」
凛が男の名前を呼んだ。知り合いらしい。男の目が、ゆっくりと、凛の顔に焦点を結んだ。
「く……じょう……?」
「はい、九条です。救助に来ました。もう大丈夫です」
「だめ、だ……にげ、ろ……」
久我の指が、凛の袖を掴んだ。震えていた。
「あいつら、が……白い……白い、鳥……」
「白い鳥?」
「しら、さぎ……が……鐘を……」
その言葉に、凛の体が、硬直した。
「白鷺……?」
俺には意味が分からなかった。でも、凛の顔を見れば分かった。それは、彼女にとって、何か、とても大事な言葉だった。
「九条?」
「……兄の、呼び名です」
凛の声が、掠れていた。
「零課にいた頃、兄は、そう呼ばれていました。白い、刀を持っていたから。〈白鷺〉と」
白い刀。
雪代。
——くすくすくす。
笑い声が、した。
広場のどこからか。いや、どこからでもない。四方八方から、反響するように。子供の笑い声。無邪気で、楽しそうで、背筋が凍るくらい、軽い。
「あーあ。もう見つかっちゃった。せっかく、ちどりが静かに眠らせてあげたのにぃ」
霧が、出ていた。
いつの間にか。白い霧が、広場の端から、じわじわと這い寄ってくる。
「誰だ!」
「ちどりだよぉ。ねえ、お兄さんたち、遊ぼ?」
霧の中に、小さな人影が浮かんだ。
一つ。二つ。三つ。四つ。
どれも同じ姿。白い着物みたいな服を着た、小柄な少女。髪の長さも、顔も、首の傾げ方も、全部同じ。
「幻影……」
凛が、雪代の柄に手を掛ける。
「篠宮。久我さんを、カラスへ」
「お前は」
「時間を稼ぎます」
霧が、さらに濃くなる。少女の影が、五つ、六つと、増えていく。
俺は久我の腕を自分の肩に回して、立ち上がった。重い。でも、行ける。カラスまで、三十メートル。
一歩。二歩。
振り返る。
凛が、霧の中で、刀を抜いていた。白い刀身が、淡く光る。
「〈断〉」
一振り。霧の中の少女の影が、三つ、まとめて裂ける。でも、裂けた影は、血も流さず、煙みたいに消えて、また別の場所に現れる。
「はずれぇ」
「……っ」
二振り目。三振り目。凛の吐く息が、白くなっていく。
俺は、カラスに久我を乗せた。
顔を上げる。
霧の中に、凛がいた。
——二人。
二人いた。
同じ黒いコート。同じ白い刀。同じ、紫色の唇。
一人の凛が、もう一人の凛に向かって、刀を振りかぶっていた。
「九条!!」
叫んだ。
二人の凛が、同時に、こっちを向いた。
まったく同じ顔で。
まったく同じ声で。
「「篠宮、どっちが本物か、分かりますか」」




