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残響ランナー ~能力を使うたびに記憶を失う運び屋は、崩壊した東京を駆け抜ける~  作者: 深夜のトースト
第一章 零時の扉

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第六話 鐘の鳴る街

 灯台島に寄ったのは、ついでだった。いや、ついでじゃない。補給だ。そういうことにしておく。


「じんにいちゃん!」


「声」


「あっ」


 湊が両手で口を押さえて、それから、俺の後ろに立つ凛を見上げて、目を真ん丸にした。


「……だれ?」


「仕事仲間」


「かのじょ?」


「違います」


 凛が、俺より先に即答した。


 湊は、凛の腰の刀を、じっと見つめていた。目が、きらきらしている。


「それ、ほんもの?」


「……本物です」


「さわっていい?」


「駄目です」


「ちょっとだけ」


「駄目です。危険です」


「じゃあ、みるだけ」


「…………」


 凛は困ったように俺を見た。俺は肩をすくめた。


 凛は、しばらく考えてから、湊の前にしゃがみこんだ。雪代を、鞘ごと、両手で横向きに持って、湊の目の高さに差し出した。


「見るだけです。触ってはいけません」


「うわあ……」


 湊は、息を呑んで、白い鞘を見つめた。触らないように、両手を後ろに組んで。凛はその様子を、黙って見ていた。


 ほんの少しだけ、口の端が、柔らかくなった気がした。


「あんたが、零課の嬢ちゃんかい」


 千代婆さんが、杖をついて現れた。手に、湯気の立つ湯呑みを持っている。


「迅坊から聞いてるよ。前輪の」


「……その件は、申し訳ありませんでした」


「謝るのはあたしにじゃないだろ。ほら、飲みな。寒そうな顔してる」


 差し出された湯呑みの中身は、甘酒だった。凛は少し迷ってから、両手で受け取って、ひと口すすった。


 それから、ぴたりと動きを止めた。


「…………おいしい」


 小さな声だった。


「だろう。砂糖をたんと入れてあるからね」


「……」


 凛は、黙って、もうひと口すすった。それから、もうひと口。湯呑みを持つ指先に、少しずつ、血の色が戻っていく。


 俺は、見なかったことにした。


 千代婆さんは、満足そうに笑って、それから俺に顔を寄せた。


「深いほうへ行くのかい」


「ああ。鐘の音を確かめに」


「……昨日の夜も鳴ったよ。前より、近くなってる気がする」


 婆さんの目が、旧有明のほうへ向けられる。


「迅坊。帰りもここへ寄りな。必ずだよ」


「時間指定は?」


「なしだよ。生きて帰ってくりゃ、いつでもいい」


     *


 旧有明に近づくにつれて、裂界は、その本性を剥き出しにした。


 まず、時間がおかしくなる。


 ある交差点を渡ると、急に、すべてがゆっくりになった。風に舞う紙屑が、空中でほとんど止まって見える。自分の腕を振ると、腕の動きに、残像が尾を引く。


『止まらないでください。〈淀み〉です。長くいると、外との時間がずれます』


『知ってる。息止めて突っ切るぞ』


 アクセルを開ける。重たい水の中を進むような抵抗。それを抜けた瞬間、世界が元の速さに戻る。耳が、きいん、と鳴った。


 次に、残影が増えた。


 道の両側に、半透明の人影が、びっしりと並んでいる。走る人。転ぶ人。誰かを抱きかかえる人。空を見上げる人。みんな、同じ数秒を、何度も、何度も、繰り返している。


 誰も、声を出していない。


 でも、口だけは、動いている。何かを叫んでいる。誰かの名前を呼んでいる。


 十五年前の、あの夜の、最後の数秒。


 凛の腕に、力がこもった。


 俺は、前だけを見て走った。


 灯台島の女子高生の残影を思い出す。毎朝、笑っていた彼女。こっちの残影は、誰も笑っていない。中心に近いほど、あの夜の恐怖が、濃く残っているのかもしれない。


 そして。


 ——ごぉん。


 音が、した。


 遠くで。いや、近くで。分からない。音の方向が、つかめない。まるで、裂界全体が、ひとつの巨大な鐘になって、震えているみたいだった。


 ——ごぉん。


 空気が、震える。腹の底に、響く。


 周りの虚獣たちが、一斉に動きを止めた。崩れたビルの窓から、路地の陰から、硝子の体が顔を出し、裂け目を、一つの方向へ向ける。


 旧有明。


 その中心に、細長い影が、空を突き刺すように立っていた。


 時計塔だ。


 旧国立界面物理研究所。零時の、震源地。


 ——ごぉん。


 三度目の音と共に、時計塔の頂上で、何かが青白く光った。


 心臓の鼓動みたいに。


     *


 旧国際展示場は、逆三角形の巨大な建物が、半分だけ地面に埋まったような姿をしていた。


 ビーコンの最終信号地点は、その正面の広場。


 カラスを瓦礫の陰に停める。ヘルメットを脱ぐ。空気が、冷たい。


「……血の匂いがします」


 凛が、低く言った。


 広場には、ばらばらに、黒い装備が散らばっていた。ヘルメット。無線機。弾の切れた小銃。


 それと、人が、四人。


 倒れていた。動かなかった。


 凛は、黙って彼らのそばに膝をつき、一人ずつ、首筋に指を当てていった。一人目。二人目。三人目。四人目。


 そのたびに、何も言わずに、小さく首を振った。


 俺は、少し離れた場所で、それを見ていた。


 四人とも、外傷が少なかった。虚獣にやられたなら、もっとひどいことになっているはずだ。なのに、彼らはまるで、眠っているみたいだった。目を開けたまま。


 何かを、見つめたまま。


「五人目は」


 俺の言葉に、凛が顔を上げた。


 広場の隅。展示場の入口の、割れたガラス扉の陰で、何かが、かすかに動いた。


「——っ、まだ生きてる!」


 駆け寄る。若い男だった。零課の装備。顔が真っ青で、唇が乾いて割れている。でも、胸が、浅く上下していた。


「おい、しっかりしろ!」


「く……が……」


「久我さん!」


 凛が男の名前を呼んだ。知り合いらしい。男の目が、ゆっくりと、凛の顔に焦点を結んだ。


「く……じょう……?」


「はい、九条です。救助に来ました。もう大丈夫です」


「だめ、だ……にげ、ろ……」


 久我の指が、凛の袖を掴んだ。震えていた。


「あいつら、が……白い……白い、鳥……」


「白い鳥?」


「しら、さぎ……が……鐘を……」


 その言葉に、凛の体が、硬直した。


「白鷺……?」


 俺には意味が分からなかった。でも、凛の顔を見れば分かった。それは、彼女にとって、何か、とても大事な言葉だった。


「九条?」


「……兄の、呼び名です」


 凛の声が、掠れていた。


「零課にいた頃、兄は、そう呼ばれていました。白い、刀を持っていたから。〈白鷺〉と」


 白い刀。


 雪代。


 ——くすくすくす。


 笑い声が、した。


 広場のどこからか。いや、どこからでもない。四方八方から、反響するように。子供の笑い声。無邪気で、楽しそうで、背筋が凍るくらい、軽い。


「あーあ。もう見つかっちゃった。せっかく、ちどりが静かに眠らせてあげたのにぃ」


 霧が、出ていた。


 いつの間にか。白い霧が、広場の端から、じわじわと這い寄ってくる。


「誰だ!」


「ちどりだよぉ。ねえ、お兄さんたち、遊ぼ?」


 霧の中に、小さな人影が浮かんだ。


 一つ。二つ。三つ。四つ。


 どれも同じ姿。白い着物みたいな服を着た、小柄な少女。髪の長さも、顔も、首の傾げ方も、全部同じ。


「幻影……」


 凛が、雪代の柄に手を掛ける。


「篠宮。久我さんを、カラスへ」


「お前は」


「時間を稼ぎます」


 霧が、さらに濃くなる。少女の影が、五つ、六つと、増えていく。


 俺は久我の腕を自分の肩に回して、立ち上がった。重い。でも、行ける。カラスまで、三十メートル。


 一歩。二歩。


 振り返る。


 凛が、霧の中で、刀を抜いていた。白い刀身が、淡く光る。


「〈断〉」


 一振り。霧の中の少女の影が、三つ、まとめて裂ける。でも、裂けた影は、血も流さず、煙みたいに消えて、また別の場所に現れる。


「はずれぇ」


「……っ」


 二振り目。三振り目。凛の吐く息が、白くなっていく。


 俺は、カラスに久我を乗せた。


 顔を上げる。


 霧の中に、凛がいた。


 ——二人。


 二人いた。


 同じ黒いコート。同じ白い刀。同じ、紫色の唇。


 一人の凛が、もう一人の凛に向かって、刀を振りかぶっていた。


「九条!!」


 叫んだ。


 二人の凛が、同時に、こっちを向いた。


 まったく同じ顔で。


 まったく同じ声で。


「「篠宮、どっちが本物か、分かりますか」」


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