第五話 深部へ
三日後。
カラスの前輪は、新品になって戻ってきた。
「今度のはチタン混ぜたっす。断面見せられたら意地でも次は斬らせないっすよ。ウチの技術力ナメんなって感じっす」
ミナは、目の下に真っ黒な隈を作りながら、胸を張った。また寝ていないらしい。
「いや、あれは何で作っても斬れると思うぞ」
「斬れないっす! 物理的に斬れないように設計したっす! ホイールの『ほつれ』? とかいうのがあるなら、ウチがそれを全部埋めてやるっす!」
「どうやって」
「愛っす!」
科学なのか精神論なのか分からなかった。
ミナは新しい前輪を愛おしそうに撫でてから、ふと真顔になって、俺を見上げた。
「迅さん。深いとこ、行くんすよね」
「……ああ」
「カラスちゃん、ちゃんと連れて帰ってきてくださいね。あと、迅さんも。ついででいいんで」
「ついでかよ」
「ついでっす」
ミナは笑った。目の下の隈が、余計に濃く見えた。
*
「第七調査班。隊員五名」
零課の作戦室で、不破課長はホワイトボードに地図を貼った。裂界の全体図。中心に近いほど、赤い色が濃くなっている。
「二日前、旧有明の手前、ここ。旧国際展示場の近くで、ビーコンの信号が途絶えた。救難信号はなし。無線にも応答なし」
「二日前……」
俺が呟くと、不破課長はうなずいた。
「生きてる可能性は、まあ、正直、高くない。でも、ゼロじゃない。それに、彼らが何を見たのかは、どうしても知りたい」
「何を見に行ったんですか」
「音だよ」
からころ、と飴が鳴る。
「最近、旧有明の方角から、鐘の音みたいなのが聞こえるっていう報告が上がってる。中の島の人たちからも、壁の監視班からも」
千代婆さんの言葉を思い出した。ごぉん、ごぉん。十五年で初めて。
「調査班は、その音源を確かめに行った。そして、帰ってこなかった」
作戦室に、短い沈黙が落ちた。
「篠宮くんには、道案内を頼みたい。目的地は旧国際展示場。九条と二人で」
「二人?」
「大人数で行くと、音が出るからねえ。君の言う、運び屋の基本ってやつ?」
不破課長は、にこりと笑った。
俺は、作戦室の隅を見た。
凛が、壁に背を預けて立っていた。黒いコート。腰に雪代。腕を組んで、こっちを見ていない。
あの日から三日、凛とは一言も口を利いていない。廊下ですれ違っても、目を合わせてくれない。
「……九条は、それでいいのか」
「任務ですから」
凛は、こっちを見ないまま答えた。
「問題ありません」
問題ある声だった。
*
午前五時。壁の第四ゲート。
零課の職員証をかざすと、重い鉄扉が、わずかに隙間を開けた。人ひとりとバイク一台が、ぎりぎり通れる幅。いつも俺が使っている、壊れたフェンスの裏道とは大違いだ。
「……正規のルートって、楽だな」
「普段はどこから入っているんですか」
「企業秘密」
「違法ですね」
「今は合法だろ。職員証あるし」
凛は答えなかった。
カラスに跨る。後ろを振り返る。
「乗れよ」
「……」
凛は、カラスの後部シートを、じっと見下ろしていた。
「歩いて行けば、半日かかる。こいつなら一時間」
「分かっています」
「じゃあ乗れよ」
「…………」
凛は、ものすごく不本意そうな顔で、後部シートに跨った。雪代を背中に回して、両手の置き場に困ったように、宙に浮かせている。
「掴まれよ。落ちるぞ」
「どこに」
「俺の腰とか」
「…………」
しばらくの沈黙のあと、凛の指先が、俺のジャケットの裾を、ほんの少しだけつまんだ。
つまんだだけだった。
「それ、絶対落ちるやつ」
「落ちません。体幹には自信があります」
「あ、そう」
俺はアクセルを、少しだけ乱暴に開けた。
「っ——!」
次の瞬間、凛の両腕が、がっしりと俺の腰に巻きついた。
「……体幹は?」
「訂正します。先ほどの発言は撤回します」
ヘルメットの中で、俺は少しだけ笑った。
*
裂界の中では、声を出さない。
代わりに、ヘルメットの骨伝導インカムで、囁くように話す。ミナの自作品だ。声帯の振動を直接拾うから、ほとんど息の音だけで会話できる。
『……一つ、聞いてもいいですか』
旧晴海の廃墟を抜けたあたりで、凛の声が、耳の奥に響いた。
『なんだよ』
『なぜ、運び屋をしているんですか』
『金になるから』
『嘘ですね。結晶の買取価格は調べました。あなたの命の危険に見合う額ではありません』
『……調べたのかよ』
『調べました』
カラスが、崩れた歩道橋の下をくぐる。
しばらく、答えを探した。
『最初は、本当に金だった。施設を逃げ出して、鉄さんに拾われて、何かしなきゃって思って。俺、勉強もできねえし、これしかなかった』
『……』
『でもさ、何回か運んでるうちに、待ってるやつができた。千代婆さんとか、湊とか。俺が行かないと、あいつら、薬も米もない。そしたら、もう、やめられなくなった』
『それだけですか』
『それだけだよ。悪いか』
『悪くは、ありません』
少しの間があった。
『……少し、意外でした』
『何が』
『もっと、軽薄な人だと思っていました』
『今も思ってんだろ』
『はい』
即答だった。
『おい』
『でも、少しだけ訂正します』
腰に回された腕の力が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
*
しばらく走ったあと、今度は俺が聞いた。
『兄貴のこと、聞いてもいいか』
腕に、また力が入った。
しばらく、返事はなかった。カラスのタイヤが、砂利を噛む音だけが響く。
『……九条斎。私の兄です。九つ年上でした』
凛の声は、いつもより、さらに平坦だった。感情を、丁寧に削ぎ落としたみたいに。
『零課の、最初の世代の隊員でした。最強の響者と呼ばれていました。誰よりも強くて、誰よりも穏やかで。私に剣を教えてくれたのも、兄です』
『……』
『三年前。兄は、裂界の深部調査隊を率いました。中心部の、旧有明へ。隊員は六名。その中には、兄の婚約者の、桐谷紗月さんもいました』
カラスが、ひしゃげた信号機の横を通り過ぎる。
『帰ってきたのは、雪代だけでした。旧有明の手前で、鞘に入ったまま、道の真ん中に、置いてあったそうです』
『置いて、あった?』
『はい。まるで、誰かが、そっと置いていったみたいに』
凛は、それ以上、言わなかった。
俺も、それ以上は、聞かなかった。
ただ、頭の中に、手帳のページが浮かんでいた。端を、小さく折ったページ。
〈あの刀の一番底にあった動きは、三年前より、新しかった気がする。〉
言うべきか、迷った。
でも、言えなかった。根拠がない。ただの、気がする、だけだ。それに、もし間違っていたら。もし、ただの勘違いだったら。
俺は、何も言わずに、アクセルを握り直した。
『……九条は、兄貴が死んだと思ってるのか』
インカムの向こうで、凛が、小さく息を吸う音がした。
『死んだんです』
きっぱりとした声だった。
『そう決めました。三年前に』
決めた、と凛は言った。
思った、じゃなくて。




