第四話 入課テスト
「ただし」
話がまとまりかけたところで、不破課長が指を一本立てた。
「契約の前に、ひとつだけテストをさせてもらうよ。君の力が、実際にどのくらい使えるのか。うちの現場の子たちを納得させないとねえ」
そういうわけで、俺は今、零課の地下訓練場にいる。
体育館くらいの広さ。床には傷だらけのマット。壁際には、木刀や警棒や、よく分からない訓練用の器具が並んでいる。
そして、向かいに立っているのは。
「よろしくお願いします」
九条凛。
昨日の、前輪の仇。
黒いトレーニングウェアに着替えた彼女は、昨日よりも少しだけ幼く見えた。手には木刀。腰の刀——白い鞘のやつは、壁際の刀掛けに立てかけてある。
その足元に、銀色の保温ボトルが置いてあった。
「……それ、何?」
「関係ありません」
「いや、気になって」
「水分補給です」
蓋の隙間から、甘ったるい匂いが漂ってきた。チョコレートの匂い。
「ココア?」
「関係ありません」
凛は保温ボトルを、足でそっと自分の後ろに押しやった。
見えてるけど。
「ルールは簡単だよ」
訓練場の二階の観覧席から、不破課長の声が降ってくる。隣には鉄さんとミナ。ミナはなぜかポップコーンを抱えている。
「九条は〈断〉を使わない。木刀だけ。篠宮くんは、この部屋にあるものなら何を使ってもいい。九条から一本取ったら、合格」
「一本って、剣道の?」
「なんでもいいよ。触れたら一本。九条に触れられたら」
「一本も取れない、が正しい予想だと思います」
凛が、淡々と言った。
かちんときた。
「……やってみなきゃ分かんねえだろ」
「分かります。あなたの昨日の動きは見ました。体の使い方は素人です。誰かの動きを借りているときだけ、別人になる。でも、借りられる時間は短い」
図星だった。
「始め」
不破課長の声と同時に、凛が消えた。
——いや、消えたんじゃない。速すぎて、目が追いつかなかった。
気づいたら、木刀の先が、俺の喉の前で止まっていた。
「一本」
「……今の、ノーカン」
「了解です。もう一度」
二回目。今度は見えた。見えただけだった。避けようとした方向に、もう木刀が待っていた。脇腹に、軽く当てられる。
「一本」
三回目。壁際まで走って、警棒を掴んだ。追想を——と思った瞬間には、手首を打たれて警棒が落ちていた。
「一本。道具に触れてから力を使うまで、一秒以上かかっています。実戦なら死んでいます」
「……ちくしょう」
四回目。五回目。六回目。
全部、一瞬で終わった。
観覧席で、ミナのポップコーンを食べる音だけが、虚しく響いていた。
「坊主、遊ばれてんぞ」
「分かってるよ!」
息が上がる。肩で呼吸する。凛は、汗ひとつかいていない。木刀を構えたまま、静かにこっちを見ている。
その目は、昨日と同じだった。融通の利かない、真っ直ぐな目。
でも、ちょっとだけ、違う気がした。
何かを、確かめようとしている目だ。
「……あなたは、なぜ力を使わないんですか」
「使ってるだろ」
「使っていません。昨日は二回使いました。今日は一度も。この部屋には、使えるものがたくさんあるのに」
凛の視線が、壁際の訓練器具をなぞる。木刀。警棒。サンドバッグ。どれも、何年も、零課の隊員たちが使い込んできた道具だ。強い動きの残響が、山ほど染みこんでいるだろう。
「一日三回まで」
俺は言った。
「って決めてんだよ。昨日、二回使った。日付が変わったから、今日はまた三回。でも、無駄撃ちはしない」
「なぜ」
「なんでもいいだろ」
「……代償ですか」
図星だった。二回目の。
凛は、少しだけ黙った。
それから、木刀を下ろした。
「では、一度だけ使ってください。この部屋で、一番いいものを選んで。それで一本取れなければ、私はあなたを認めません」
「いいのかよ、そんなこと言って」
「構いません。どうせ取れませんから」
腹は立った。でも、彼女の言うとおりだった。素の俺じゃ、何万回やっても一本も取れない。
俺は、訓練場を見回した。
木刀。警棒。どれも残響はある。でも、凛より強いやつの動きが残っているとは限らない。
この部屋で、一番強い動きが残っているもの。
俺の目は、壁際の刀掛けで止まった。
白い鞘の、刀。
凛の刀だ。昨日、百メートル先の怪物を斬った刀。
あれには、凛の動きが残っているはずだ。凛の動きで、凛に勝つ。悪くない。
俺は走った。
「——っ、それは」
凛の声が、初めて揺れた。
俺の手が、白い鞘を掴む。
——流れこんできたのは、凛じゃなかった。
違う。
もっと深い。もっと重い。もっと、静かな。
まるで、凪いだ海の底に、そっと手を差しこんだみたいだった。冷たくて、透明で、底が見えない。その底に、ひとつの動きが、沈んでいる。
何年も前のものだ。三年か、もう少し前か。凛の動きが何百回と上から重なっているのに、それでも消えずに、いちばん底で、強く、強く、光っている。
こんなにきれいな動きを、俺は見たことがなかった。
「〈追想〉」
刀を、抜いた。
その瞬間から、俺はもう、俺じゃなかった。
凛が木刀で打ちこんでくる。見える。全部見える。いや、見えているんじゃない。この体が、知っている。来る場所を。来る速さを。
一歩だけ、引く。
凛の木刀が、俺の鼻先を掠める。空を切る。
その木刀の峰に、刀身を、そっと添える。
力は入れない。ただ、添えるだけ。凛の勢いに、刀を沿わせる。流す。
凛の体が、自分の力で、前に泳ぐ。
がら空きになった背中に、刀の柄頭を、こつん、と当てた。
五秒。
俺の体が、俺に戻ってきた。
膝から力が抜けて、マットに座りこむ。腕が、指が、がくがくと震える。今の動きは、俺の体にはまったく合っていなかった。筋肉の一本一本が、悲鳴を上げている。
頭の奥で、ぷつり、と。
また、何かが消える。
「…………いっぽん」
声が掠れた。
返事はなかった。
顔を上げる。
凛が、立っていた。俺に背を向けたまま。木刀を握った手が、白くなるほど力を込めている。
「……今の型」
小さな声だった。
「どこで覚えたんですか」
「どこでって……その刀に残ってたやつを、そのまま」
「嘘です」
凛が振り返った。
昨日から一度も揺れなかった顔が、真っ白になっていた。体温を使ったときの、あの紫色の唇とは違う。血の気そのものが、引いていた。
「それは、兄の型です」
訓練場が、静まり返った。
観覧席で、ミナがポップコーンを取り落とした。鉄さんが、ゆっくりと腕を組んだ。不破課長の飴の音が、止まっていた。
「兄って」
「その刀、〈雪代〉は、兄の形見です。三年前に、裂界の深部調査で死んだ兄の」
凛は、一言一言、確かめるように言った。
「兄が死んでから、その刀は、ずっと私が使ってきました。三年間、毎日。私の動きが、何百回も、何千回も重なっているはずです。兄の動きなんて、もう、残っているはずがない」
「でも、残ってた。一番底に」
俺は、震える手で、刀を見下ろした。
「すげえ、強く。他のどの動きよりも」
凛は、何も言わなかった。
俺の手から、雪代をそっと取り上げた。鞘に納める。ぱちん、と鍔が鳴る。それから、刀を胸に抱えるようにして、訓練場の出口に歩いていった。
「……合格です」
振り返らずに、それだけ言った。
ドアが閉まる。
足元に、銀色の保温ボトルが、ぽつんと残されていた。
*
その日の夜。手帳を開いた。
今日の一回目で消えたもの。
昨日の二回分も合わせて、まだ二つしか見つかっていない。施設の屋上の記憶と、それから、ついさっき見つけた、もうひとつ。
〈鉄さんの好きな酒は、菊正宗。〉
——そうだっけ。
思い出せない。鉄さんが酒を飲んでいる姿は浮かぶのに、ラベルが、空白になっている。
俺はそのページに、印をつけた。
それから、新しいページに、書き足した。
〈九条凛。零課。刀は〈雪代〉。兄の形見。兄は三年前に死んだ、らしい。〉
〈ココアが好き。たぶん。〉
少し考えて、もう一行。
〈あの刀の一番底にあった動きは、三年前より、新しかった気がする。〉
書いてから、自分で首をひねった。どうしてそう思ったのか、うまく説明できない。ただ、あの凪いだ海の底で光っていた動きは、古びていなかった。埃をかぶっていなかった。
まるで、つい最近、誰かがあの刀を握ったみたいに。
俺は、そのページの端を、小さく折った。
*
同じ頃。零課庁舎、最上階。
課長室の明かりは、まだ点いていた。
不破宗一郎は、窓際の机に、一冊の古いファイルを広げていた。紙は黄ばみ、角は擦り切れている。表紙には、手書きの文字。
〈国立界面物理研究所 第三実験棟 人員名簿〉
ページをめくる指が、ある名前の上で止まる。
〈主任研究員 篠宮恭一〉
添付された古い写真には、眼鏡をかけた痩せた男が、四歳くらいの男の子を肩車して笑っていた。
「……似てきたねえ」
不破は、ひとりごちた。
口の中の飴を、からころと転がす。
窓の外、東の空。夜の闇の中に、巨大な壁の輪郭が黒く浮かんでいる。その向こうで、薄紫色の光が、ゆっくりと脈打っていた。
ここ数日、その脈が、少しずつ速くなっていることに、不破は気づいていた。
「時間がないかもしれないなあ、恭一さん」
返事をする者は、いなかった。




