第二話 刀の少女は融通が利かない
屋上から見下ろすと、路地の虚獣たちは、獲物を見失ってうろうろしていた。カラスの周りを嗅ぎまわっている。
「……おい、触んなよ。それ高いんだぞ」
小声で呟いたとき。
屋上の反対側、隣のビルとの境目で、白いものが動いた。
人だ。
黒いコート。腰に、細長い何か。背中までの、黒い髪。
少女だった。俺と同じくらいか、少し下。彼女は屋上の縁に立って、通りの向こうを、じっと見ていた。
その視線の先に、それはいた。
でかい。
通りを塞ぐほどの、巨大な虚獣。形は、強いて言うなら蜘蛛に近い。脚が八本、いや、十本以上。胴体の中心に、青白く光る塊が透けて見える。核だ。虚獣の心臓。
少女の足元に、空の薬莢が散らばっていた。
さっきの銃声の正体は、こいつか。
いや、違う。少女は銃を持っていない。持っているのは——
刀だった。
白い鞘から、すらりと抜かれる。刀身が、裂界の薄紫の光を吸って、雪みたいに淡く光った。
距離は、ざっと百メートル。
少女は、その場から一歩も動かなかった。
刀を、振った。
ただ、それだけ。
空気を切る音すら、しなかった。
なのに。
百メートル先の巨大蜘蛛の脚が、三本、まとめて落ちた。
「…………は?」
声が出た。出てしまった。
落ちた脚が、アスファルトに当たって砕ける。巨大蜘蛛が軋むような悲鳴を上げて、体を傾ける。少女はもう一度、刀を振る。今度は四本。蜘蛛の巨体が地面に崩れる。
最後に、彼女は刀を、まっすぐ上から下へ。
胴体の中心。青白い核に、一本の線が走った。
ぱきん、と。
氷が割れるような音を立てて、巨大蜘蛛は砕け散った。青白い結晶の雨が、通りに降り注ぐ。
——斬った。百メートル先を。触れもせずに。
少女が刀を鞘に戻し、ゆっくりと、こちらを向いた。
目が合った。
しまった。
「……民間人?」
感情の読めない声だった。
「あー、いや、えっと。通りすがりの者です」
「裂界内への民間人の立ち入りは、特措法第十二条により禁止されています」
「知ってます」
「では、なぜここに」
「……散歩?」
少女の目が、すっと細くなった。
まずい。この目は知ってる。融通の利かない人間の目だ。
そのとき、下の路地から、硝子が擦れる音が膨れ上がった。
さっきの俺の「は?」で、虚獣どもが気づいたのだ。
路地の虚獣が、次々と雑居ビルの外壁に取りつき、登ってくる。窓から、配管から、看板から。俺がさっき登ったルートを、そっくりそのまま。
「あっ、やべ」
「……あなたが連れてきたんですか」
「いや、あれはそっちの銃声に寄ってきたんで、むしろそっちが」
「訂正します。銃声は私ではありません。同行していた調査班のものです。彼らは先ほど撤退しました」
「置いてかれてんじゃねーか!」
「置いていかれたのではありません。私が殿を務めました」
会話しながら、少女はもう刀の柄に手を掛けていた。
屋上の縁から、虚獣の頭がいくつも覗く。
少女が刀を抜く。振る。縁に掛かっていた虚獣の腕が、まとめて落ちる。でも、数が多い。斬っても斬っても、次が登ってくる。
そして、気づいた。
少女の唇が、紫色になっている。
刀を振るたびに、彼女の吐く息が、白くなっていく。八月なのに。いや、裂界に季節はないけど。それでも、ここは寒くない。
「おい、あんた」
「話しかけないでください。集中を」
「顔色やべえぞ」
「問題ありません」
問題ある顔だった。指先が震えている。
背後で、硝子の擦れる音。
振り向く。屋上の反対側、俺のすぐ後ろの縁から、猿型の虚獣が一匹、這い上がってきていた。少女からは死角。
虚獣の裂け目が、大きく開く。
俺は手を伸ばした。
屋上に転がっていた、錆びた鉄パイプ。
握る。
——流れこんでくる。
古い。とても古い残響。十五年前。この屋上で、誰かがこのパイプを握った。振り回した。何かから、誰かを守ろうとして。必死に。めちゃくちゃに。でも、最後の一振りだけは、きれいだった。
「〈追想〉」
二回目。
体が勝手に動く。踏み込む。腰を回す。鉄パイプが、横薙ぎに空気を裂く。猿型の虚獣の頭部を、真横から打ち抜く。
硝子の体が、ぐしゃりと歪んだ。核には届かない。でも、虚獣は弾き飛ばされ、屋上の縁から真っ逆さまに落ちていった。
頭の奥で、また、ぷつりと何かが切れる。
「……今の」
少女がこちらを見ていた。
「あなた、響者ですか」
「さあな」
手帳に書く暇もない。下から、まだ来る。
俺はポケットから、小さな円筒を取り出した。ミナ特製の音響弾。運び屋の必需品。ピンを抜いて、屋上の反対側、隣のビルのさらに向こうへ、思いきり放り投げる。
三秒後。
——ピイイイイイイイイイッ!
甲高い電子音が、裂界の空に響き渡った。
虚獣たちの裂け目が、一斉にそっちを向く。屋上の縁にしがみついていたやつらが、壁を蹴って、音のほうへ雪崩を打って走り出す。
残ったのは、静寂。
俺と、少女と、砕けた結晶の散らばる屋上。
「……音で誘導を」
「運び屋の基本だよ。あいつら、頭いいようでバカだから」
「運び屋」
少女が、その単語を繰り返した。
しまった。
「あー……今のは、その、比喩表現で」
「違法運送業者ですね」
「言い方」
「特措法第十二条違反、および第十八条、物資の無許可搬入。現行犯です」
少女が、まだ紫色の唇で、淡々と告げる。その手が、腰の刀に掛かる。
俺は屋上の縁へ後ずさった。下を覗く。路地のカラスまで、四階分。
「あのさ、さっき助けたよな、俺。恩人だよな」
「感謝しています。それとこれとは別です」
「融通って言葉知ってる?」
「知っています。好きではありません」
俺は手帳をポケットにねじこみ、雑居ビルの外壁の配管に飛びついた。
追想はもう使わない。今日はもう二回使った。あと一回分は、取っておく。これは自前の腕力だ。配管を伝い、ベランダの手すりを蹴り、半分落ちるように路地へ降りる。着地。膝が痺れる。カラスに跨る。
スイッチ。モーター起動。
よし、行ける——
「〈断〉」
頭上から、小さな声が降ってきた。
次の瞬間。
カラスの前輪が、すぱん、と、真っ二つになった。
「…………」
ゴムとホイールが、きれいな断面を見せて、左右に分かれて倒れていく。
四階上の屋上で、少女が刀を鞘に戻していた。
ぱちん、という、鍔鳴りの音。
俺は、二つになった前輪を見下ろした。
ミナが三日徹夜して組んだ、特注のホイールだった。
「……ミナに殺される」
それが、俺と九条凛の、最初の出会いだった。
*
その夜、零課の留置室で、俺は手帳を開いた。
今朝の「一回目」と「二回目」で何が消えたのか、確かめるためだ。
ページをめくる。書いてあることを、一つずつ、頭の中と照らし合わせていく。
鉄さんの誕生日。覚えてる。ミナの好きなアイス。覚えてる。千代婆さんの島への最短ルート。覚えてる。
あるページで、指が止まった。
〈小学五年の夏、施設の屋上で、初めて追想を使った。〉
——覚えていない。
施設。屋上。初めての追想。書いてある。俺の字で。でも、そこに何の映像も、匂いも、感触もない。
ただの、知らない誰かの日記みたいだった。
「……そっか。お前だったか」
小さく呟いて、そのページの端に、鉛筆で印をつける。消えた、の印。
もうひとつは、まだ見つからない。
見つからないまま、消えたことにも気づかずに生きていく記憶が、たぶん、もう、たくさんある。
俺は手帳を閉じて、硬いベッドに寝転んだ。
天井の蛍光灯が、ちかちかと瞬いている。
あの少女の刀を思い出す。百メートル先を斬った、あの一振り。それから、紫色の唇と、白い息。
——あいつも、何か払ってるんだな。
そう思ったら、なんだか少しだけ、腹が立たなくなった。
ほんの少しだけ。
前輪の恨みは、別だ。




