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残響ランナー ~能力を使うたびに記憶を失う運び屋は、崩壊した東京を駆け抜ける~  作者: 深夜のトースト
第一章 零時の扉

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第一話 運び屋

 午前四時五十二分。裂界、旧豊洲エリア。


 朝はまだ来ていない。正確に言えば、この中では朝がいつ来るのか誰にも分からない。空は一日中、夕焼けの終わりみたいな薄紫色で、太陽は輪郭のぼやけた白い染みとして、東でも西でもない場所に貼りついている。


 俺はその下を、音もなく走る。


 愛車の名前は〈カラス〉。黒塗りの電動オフロードバイクで、モーター音を限界まで殺してある。タイヤが砕けたアスファルトを噛む、かすかな擦過音。それと、俺自身の呼吸。聞こえるのはそれだけだ。


 ここでは、音を立てたやつから死ぬ。


 ヘルメットの中で、小さく息を吐く。荷台には段ボールが四つ。米十キロ、缶詰、乾電池、それから千代婆さんに頼まれた老眼鏡と、湊のための漫画雑誌。


 時間指定、午前五時半。灯台島まで。


     *


 崩れた高架の下をくぐる。


 ひび割れたコンクリートの柱の陰に、女の子がいた。


 紺色のセーラー服。肩にかけた鞄。片手にスマートフォン。半透明で、輪郭がちらちらと揺れている。彼女はいつもと同じように、柱の手前から三歩歩いて、立ち止まり、スマートフォンを見て、くすっと笑って、また三歩歩いて——そこで、ふっと消える。


 そしてまた、柱の手前に現れる。


〈残影〉。


 この中で死んだ人間の、最後の数秒の動きの影だ。誰かが説明してくれたわけじゃない。俺が勝手にそう呼んでいる。十五年前のあの夜、彼女はたぶん塾の帰りで、たぶん友達からのメッセージを見て笑って、そして、その次の一歩を踏み出せなかった。


 毎朝、俺は彼女の横を通る。


 毎朝、彼女は笑っている。


 何がそんなに面白かったのか、俺は知らない。知りようもない。ただ、通り過ぎるときに、ほんの少しだけアクセルを緩める。それが俺の、彼女へのささやかな挨拶だ。


 おはよう。今日も楽しそうだな。


     *


 灯台島は、旧豊洲市場の跡地にある。


 島、といっても海に浮かんでいるわけじゃない。裂界の中に取り残された人間たちが、崩れた建物を寄せ集めて作った集落のことを、俺たち運び屋はそう呼ぶ。壁の外の政府にとって、ここに人間はいないことになっている。存在しない人間には、存在しない物資しか届かない。


 だから、俺たちがいる。


 市場の屋根の上に、古い航空障害灯が立っている。ソーラーパネルに繋がれたその赤い光が、島の名前の由来だ。赤い光が三回点滅して、一回消える。異常なし、の合図。


 俺はカラスを市場の搬入口に滑りこませた。


「じんにいちゃん!」


 シャッターの隙間から、小さな影が飛び出してくる。湊だ。七歳。裂界の中で生まれた子供。壁の外の空を、一度も見たことがない。


「声がでかい」


「あっ」


 湊は両手で自分の口を押さえ、それから、押さえたまま、目だけで笑った。


「……ジャンプ、ある?」


「ある。先週号な」


「やった……!」


 声を殺して飛び跳ねる湊の頭を、ヘルメットを脱ぎながら軽く押さえる。


「ほら、運ぶの手伝え。米は重いから缶詰の箱な」


「はーい」


 奥から、杖をつく音がした。


「時間ぴったりだねえ、迅坊」


「毎度。相良運送です」


 千代婆さんは、八十を越えているとは思えない背筋で、俺の前に立った。零時の前はこの市場でマグロの仲卸をしていたという。目つきが鋭いのは、そのせいかもしれない。


「老眼鏡は」


「プラス二・五。言われたやつ」


「上等。代金はいつもの」


 婆さんが差し出した布袋の中で、硬い物が鳴った。中身は金じゃない。この島では金に意味がない。中に入っているのは、裂界の中でしか採れない〈結晶〉——虚獣が砕けたあとに残る、青白い欠片だ。壁の外では、研究機関や企業が高値で買い取る。


 危ない橋だ。全部。


 でも、ここには医者もいないし、薬もないし、米も育たない。誰かが運ばなきゃいけない。


「迅坊」


 荷を下ろし終えたところで、婆さんが俺を呼び止めた。


「最近、深いほうで変な音がする」


「変な音?」


「鐘みたいな音さ。夜中に、旧有明のほうから。ごぉん、ごぉん、ってね。十五年ここにいるが、あんなのは初めてだ」


 旧有明。裂界の中心。誰も近づかない場所。


「……気をつけるよ」


「あんたじゃない。あたしらが気をつけるんだよ。あんたは帰り道、気をつけな」


 婆さんはそれだけ言って、老眼鏡をかけ、湊の持ってきた漫画雑誌をぱらぱらとめくり始めた。


「この子が読む前に、あたしが読むんだよ」


「ずるい!」


「静かに」


 湊が慌てて口を塞ぐ。俺は笑って、ヘルメットをかぶり直した。


 カラスのハンドルの根元で、キーホルダーが揺れている。


 真鍮色の、古い鍵。


 何の鍵なのかは知らない。札の文字は擦り切れて、もう読めない。それでも俺は、十五年間ずっと、これを持っている。


 なくすなよ、と言われたから。


     *


 帰り道に、それは起きた。


 旧晴海通りを北へ。壁のゲートまで、あと三キロ。


 ヘルメットの中に、かすかな振動が伝わってきた。


 ——ぱらぱらぱらぱら。


 音だ。乾いた、連続した破裂音。遠い。でも、この静寂の中では、遠さなんて意味がない。


 銃声。


「……おいおい、マジかよ」


 誰だ。こんなところで、ぶっ放してるバカは。


 答えはすぐに来た。


 道路の両側の、崩れたビルの窓という窓から、それらが顔を出した。


 虚獣。


 溶けた硝子を、無理やり獣の形に押し固めたような体。輪郭がにじんで、向こう側の景色が歪んで透けている。目はない。鼻もない。顔にあたる部分に、黒い裂け目がひとつあるだけだ。その裂け目が、一斉に、銃声のしたほうへ向いた。


 そして、その途中にいる俺のほうへ。


 虚獣は音に寄ってくる。それと、記憶に。


 生きてる人間の頭の中に詰まった記憶は、あいつらにとってご馳走らしい。


「冗談じゃねえぞ……!」


 アクセルを開ける。カラスが無音で加速する。


 背後で、硝子が擦れ合うような甲高い音が重なった。一匹、二匹じゃない。十、二十。窓から飛び降り、アスファルトを蹴り、追ってくる。犬に近い形のやつ。猿に近い形のやつ。どれも、輪郭がぐにゃりと伸び縮みする。


 ミラーに映る数が、増えていく。


 右。交差点。曲がる。車体を倒す。膝がアスファルトを掠める。


 前方。横倒しのバス。


「っ、と!」


 フロントを持ち上げ、バスの屋根に乗り上げ、そのまま反対側へ飛び降りる。着地の衝撃が尾てい骨まで響く。


 後ろで、虚獣どもがバスに次々と激突する。硝子の砕ける音。でも、砕けたのは窓のほうで、あいつらじゃない。


 速い。いつもより、ずっと。


 銃声のせいで、興奮している。


 左の路地へ。細い。カラスの幅ぎりぎり。両側の壁にハンドルを擦りながら突っ込む。抜けた先は——


「……は?」


 行き止まりだった。


 いや、違う。道はある。ただ、あるべき場所にない。


 十メートル先で、アスファルトがすっぱりと途切れていた。その向こうは、ただの空中だ。下には、ひしゃげた鉄骨と瓦礫の谷。


〈ずれ〉だ。裂界の中では、たまに地形が勝手に動く。昨日まであった道が、今日は崖になっている。


 ブレーキ。後輪が流れる。止まる。


 振り返る。


 路地の入口を、虚獣が埋めていた。


 重なり合い、押し合い、硝子の擦れる音を響かせながら、ゆっくりと、こっちへ。


 背中を汗が伝う。


 選択肢。


 ひとつ、戦う。——無理だ。俺は運び屋で、武器なんか持ってない。


 ふたつ、飛ぶ。——十メートル。カラスでも助走が足りない。


 みっつ。


 左手の壁を見る。崩れかけた雑居ビルの外壁。三階あたりに、窓枠の残骸。


 登れる高さじゃない。普通なら。


 俺は手袋を外した。


 壁に、素手で触れる。


 ——ざらり、と。


 コンクリートの冷たさの奥から、何かが流れこんでくる感覚。水面に手を浸したときの、あの感じに似ている。ただ、流れこんでくるのは水じゃない。


 動きだ。


 この壁に、ついさっき、誰かが触れた。


 はっきりと分かる。強い動き。蹴って、掴んで、蹴って、跳んだ。迷いのない、研ぎ澄まされた——


 誰だ? こんなところで。


 考えている暇はなかった。


「〈追想〉」


 小さく呟く。


 次の瞬間、俺の体は、俺のものじゃなくなった。


 右足が壁を蹴る。左手が、二メートル上の配管を掴む。体が浮く。右手が窓枠の残骸に掛かる。体を振る。左足が隣の看板の鉄骨を踏む。跳ぶ。三階の窓。四階のベランダ。屋上の手すり。


 五秒。


 五秒で、俺は雑居ビルの屋上に立っていた。


 膝ががくがくと笑い、両腕の筋肉が悲鳴を上げる。他人の動きは、他人の体に合わせて作られている。それを無理やり、俺の体で再現する。反動は全部、俺が払う。


 そして、もうひとつ。


 頭の奥で、何かが、ぷつりと切れる音がした。


 ——ああ。


 いつもの感覚だ。何かが消えた。何が消えたのかは、分からない。分からないから、消えたことだけが分かる。


 俺はジャケットの内ポケットから黒い手帳を取り出し、震える指で書きつけた。


〈○月×日 午前五時五十分頃 一回目。何か消えた。〉


 あとで確かめる。何が消えたのか。手帳に書いてあることと、俺の頭の中にあることを照らし合わせて。


 これが、俺の力の代償だ。


 触れた物に残る、誰かの動きの残響を読み取って、自分の体で再現する。期間はだいたい五秒。そのたびに、俺の記憶がひとつ、消える。


 だから俺は、自分にルールを課している。


 一日三回まで。それ以上は、使わない。


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