零時
その夜のことを、俺はほとんど覚えていない。
覚えているのは、三つだけだ。
ひとつ。空が、白かったこと。
夏の夜中なのに、窓の外が昼間みたいに白かった。花火じゃない。月でもない。光は音を立てずに、ゆっくりと、海の向こうから膨らんできた。まるで誰かが、夜という布の端をつまんで、裏返そうとしているみたいに。
ふたつ。父さんの手が、熱かったこと。
俺を抱え上げた腕は震えていて、白衣の袖からは、焦げた電線の匂いがした。父さんは走っていた。研究所の長い廊下を、非常灯の赤い光の中を。どこかで硝子の割れる音がした。誰かが叫んでいた。たくさんの足音が、同じ方向へ流れていた。
父さんだけが、反対へ走っていた。
「迅」
父さんは俺を下ろして、しゃがみこんだ。目線の高さが同じになる。眼鏡の片方のレンズにひびが入っていて、その向こうの目が、笑っているのか泣いているのか、四歳の俺には分からなかった。
「これを持ってろ」
手のひらに押しつけられたのは、鍵だった。
家の鍵じゃない。真鍮色で、持ち手に小さな穴がいくつも開いた、変な形の鍵。プラスチックの札がついていて、何か文字が書いてあったけれど、俺はまだ漢字が読めなかった。
「いいか、なくすなよ。これは、お前のだ」
「とうさんは?」
「父さんは、ちょっと用事がある」
嘘だ、と思った。理由は分からない。ただ、父さんの指が、俺の指を鍵ごと握りこんで、なかなか離そうとしなかったから。
みっつ。
「迅、走れ」
背中を押された。
俺は走った。言われたとおりに。赤い廊下を、たくさんの足音と同じ方向へ。振り返ったら、父さんは廊下の奥の、大きな扉の前に立っていた。白い光が、扉の隙間から漏れていた。
父さんは一度だけこっちを見て、何か言った。
声は届かなかった。口の形だけが見えた。
それが何という言葉だったのか、十五年経った今も、俺は思い出せない。
——そして、午前零時。
世界に、穴が開いた。
*
東京湾岸、旧臨海副都心。直径およそ六キロ。
その夜を境に、地図からひとつの街が消えた。正確には、消えたのではない。そこにまだ在る。ただ、もう誰も、普通には入れない。
時間が狂い、物理が軋み、死者の影が夜ごと同じ道を歩く場所。
人々はそこを〈裂界〉と呼び、その夜を〈零時〉と呼んだ。
あれから、十五年。
俺は今、その裂界の中を、バイクで走っている。
仕事だから。




