第29話「開きに、行く」
倉を探し当てたのは、海から数えて三日目の朝だった。
ヒナと、ネネと、三人で。
市の麦が、上澄みなら、その下の水は、倉に、ある。
私はその倉を、自分の目で見たかった。
ヒナが商人たちの噂を辿り、ネネが人混みに紛れて道を確かめ、私が残った左の目で荷の流れを読んだ。
市に出る麦の袋が、どこから運ばれてくるか。
その荷馬車の来る方角を、辿った。
早朝、市が開く前に、麦を運び込む荷馬車がどこから来るかを、何日も見ていた。
荷は、いつも同じ方角から来た。
港からすこし離れた川沿いの一角に、それはあった。
川は、内陸へ続いていた。
麦は、この川を舟で運ばれてくる。
海の向こうから来た麦も、本土から来た麦も、いったん港で下ろされ、この川を上って、ここへ集められる。
そういう場所だった。
水路が、すぐ横を流れている。
物の流れを握る家が、いちばん流れの集まる場所に倉を構えていた。
高い石の塀に、囲まれていた。
私の背丈の二倍は、ある塀だ。
塀の中に、平たい大きな倉が、いくつも、いくつも並んでいる。
一つ一つが、村の家をいくつも合わせたほどの大きさだ。
塀の門は、固く閉ざされている。
門の前に、男が立って見張っていた。
腰に、棒を、提げている。
誰でも、入れる場所ではなかった。
盗賊の頃なら、塀の高さと見張りの数を見て、襲えるか、襲えないかを量った。
今も、同じように、量った。
けれど、量る目的が、違った。
襲うためではない。
中に、どれだけの麦があるかを知るためだった。
オルセラの倉だ、とヒナが低い声で言った。
物の流れを握る、あの物流の家の倉だった。
荷馬車が次々と門をくぐっていく。
麦の袋を、満載して。
けれど、出ていく荷馬車は、少なかった。
入る荷は、多く、出る荷は、少ない。
麦が、この塀の中に溜まっている。
入っては溜まり、出ていかない。
私たちは、川の対岸の繁みに身を隠した。
腰を、低くして。
三人で、息を、ひそめて。
川辺の葦が、風にさやさやと鳴っている。
泥の匂いと水の匂いが、低く漂っていた。
動けば、葉が揺れて、見つかる。
私たちは、石のように、動かなかった。
盗賊の頃、護送の列を待ち伏せた時と、同じ姿勢だ。
あの頃は、銀の箱を狙って隠れた。
今は、麦の倉を数えるために隠れている。
私は川向こうの塀と門を、残った左の目で見ていた。
門を入る荷馬車を、ヒナが数える。
出る荷馬車を、ネネが数える。
私は倉の数を数えた。
ちょうど、一つの倉の大きな扉が開いた。
荷馬車から、麦の袋を、運び入れるために。
倉番が、扉の太い閂を外す。
重い扉が軋みながら、ゆっくりと開いていく。
その開いた扉から、倉の中が見えた。
麦が、山と、積まれていた。
開いた扉から、乾いた穀物の匂いが川風に乗って、対岸の繁みまで、かすかに届いた。
埃っぽい、麦の匂いだ。
飢えた者には、喉が鳴るような匂いだろう。
倉の天井近くまで、麦の袋が積み上げられていた。
一つの倉に、村ひとつがひと冬越せるほどの麦がある。
その倉が、塀の中にいくつも並んでいる。
私はヒナの隣で、その山積みの麦を、残った左の目で見ていた。
息を、呑んだ。
これだけ、ある。
市には、上澄みしか、出ていなかった。
その下の水は、これだったのだ。
これだけの麦が、塀の中にしまい込まれていた。
塀の外では、路地で、人が、飢えて、死んでいる。
麦が、すぐそこにあるのに。
塀、ひとつ、隔てた、向こうに。
飢饉では、なかった。
私は、はっきりとそれを知った。
この都に、麦は、ある。
あふれるほど、ある。
倉に、山と積まれて、ある。
麦が足りないから、人が死ぬのではない。
麦は、足りている。
あり余っている。
なのに、人が、死ぬ。
なら、人を殺しているのは、麦のないことではない。
麦をここにしまい込んでいる、誰かの手だ。
ヒナが、その倉の数を数えていた。
数えの木札に、指が動いている。
一つ、二つ、三つ。
塀の中の倉を、一つずつ。
それから、その一つに村がいくつひと冬越せるかを、頭の中で掛けていく。
木札の刻みが、増えていく。
倉の数だけ、村の数だけ、刻みが増える。
その刻みの数を、私は横で見ていた。
これだけの村がひと冬を越せる麦が、この塀の中に眠っている。
そして、塀の外の路地で、人がそれを越せずに死んでいく。
ネネは、その横で息をひそめていた。
治る体を持つネネの目にも、その山積みの麦は異様に映ったらしかった。
ネネは、滅びた国から来た、と聞いている。
詳しいことは、ネネ自身も知らない。
けれど、滅びを、見てきた目だ。
その目が、この山積みの麦を見て、すこし曇った。
麦が、これだけ、ある。
なのに、人が、死ぬ。
その理不尽が、繁みの中の三人を黙らせていた。
誰も、口をきかなかった。
川の水音だけが、聞こえていた。
私は繁みの中で、しばらくその倉を見ていた。
怒りは、湧かなかった。
いや、湧いた怒りは、すぐに奥へ沈んだ。
怒っても、この麦は動かない。
倉の扉を剣で破ったところで、この飢えは終わらない。
本土の男爵を断ち落としても、死ぬ者が減らなかったように。
断つべきは、倉の錠前ではなかった。
麦を閉じ込め、飢えを値に変えている、その仕組みだった。
その仕組みを握っているのが、この倉の主だ。
オルセラの倉。
物流の家。
この麦の山を動かせるのは、商館同盟のいちばん上の手だった。
私が断つ刃を向けても届かない、高い場所にある手。
その手に、会いに、行かなければ。
剣ではなく、商いで。
値と、信用と、利の駆け引きで。
私がこの何日か市で量ってきた麦の数を、武器にして。
倉の中の山積みの麦を見た、この目を証にして。
商館同盟のいちばん上の手と向き合わなければならなかった。
それが、剣を持たない私がこの理不尽を開ける、唯一の道だった。
会うには、口実がいる。
無名の女商人がただ会いたい、と言っても、商館同盟の上の者は会わない。
会うだけの値打ちのある話を、持っていかなければ。
海を渡ってきた本土の商いの話なら、私にはある。
それを、手土産にすればいい。
今はまだ、糸口を、見つけただけだ。
私は繁みから立ち上がった。
ヒナとネネが、私を見た。
私は川向こうの山積みの麦の倉を、最後にもう一度、残った左の目で見た。
塀の中に、麦が、ある。
塀の外に、飢えが、ある。
その塀を、剣では、越えられない。
盗賊なら、倉を、襲う。
商人は、襲わない。
会いに行く。
この麦を握っている、いちばん上の手に。
閉ざされた、この都の商いを、開きに、行く。





