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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第28話「青血の、姫」

ある夕方、私は都の古い一角を歩いていた。


市の喧騒から離れた、海を見下ろす丘の上だ。


古い館や廃れた神殿が、夕日に染まって立っている。


アズリアのいちばん古い場所だと、ナダが言った。


この都が、まだ小さな漁村だった頃から、ある一角だと。


石畳がすり減って、丸くなっている。


長い年月、人の足が、撫で続けた石だった。


その夕方、私はひとりだった。


ヒナは、倉の調べに。


ネネは市の片隅で、麦を買う者を数えている。


私はその日の調べを終えて、宿へ帰る前に、すこしこの古い一角を歩いてみたくなった。


理由は、ない。


ただ、麦と、値と、口の重い商人たちの、その日々に、すこし疲れていたのかもしれない。


海を渡ってから、私はずっと量り続けていた。


たまには、量らずに、ただ歩きたかった。


その一角の石の壁に、古い、色のついた絵が残っていた。


石に顔料で描かれた絵だ。


長い年月で色は褪せて、ところどころ剥げ落ちている。


けれど、まだ、見て取れた。


青い髪の女の絵だった。


青い、髪。


私は足を止めて、その絵を見上げた。


残った左の目で。


褪せた青の髪を長く垂らした女が、石の壁に描かれていた。


冠のようなものを、被っている。


手に、何か巻物のようなものを持っている。


古い、高貴な女の絵だ。


その青い髪が夕日を受けて、すこし本当の青のように見えた。


海の深いところの青だ。


通りかかった土地の老人に、私は訊いた。


あの絵は、誰か、と。


杖をついた、痩せた老人だった。


この一角に、長く住んでいるのだろう。


古い石畳と、同じくらい、古い顔をしていた。


老人は私を、しばらく見た。


海を渡ってきた、隻腕の女商人を。


それから、訊かれた絵を見上げた。


老人は、その絵を見上げて、しわがれた声で言った。


青血の、姫だ、と。


ずっと昔、二百年も前の、この都の姫の絵だという。


青い血を引く、高貴な家の娘だった。


アズリアのいちばん古い血。


流通を読み、値を読み、潮を読む、冷たい理の血だと、老人は言った。


その血を引く者は、生まれつき数と流れが読めるのだという。


どの港に、何が高く、どの土地に、何が足りないか。


教えられなくても、分かる。


だから、アズリアの古い家は青血を尊んだ。


青血が商いを栄えさせる、と。


その血が、青い髪に現れる。


アズリアの古い家には、時おり、青い髪の子が生まれた。


それが、青血の証だった。


ナダの数えを、私は思い出した。


値を読み、流れを読み、足りない土地へ物を運ぶ。


それが、回す手の仕事だ。


私はそれをナダから教わった。


教わって、何年もかけて、覚えた。


けれど、この青血の者たちは、それを教わらずに、生まれつき知っているのだという。


奇妙な話だった。


けれど、その時の私は、ただの土地の言い伝えとして、聞いていた。


二百年前、その青血の姫が海を渡って、本土へ嫁いだのだという。


本土の、ある王家へ。


その王家は、その頃、跡継ぎに困っていた。


血が、絶えかけていた。


そこへ、アズリアが姫を送る。


穀物を融通し、銀を貸し、姫を、嫁がせた。


その姫の青い血が、本土の王家に入った。


それから、その王家には、青い髪の子が生まれるようになった、と。


本土の、王家。


私はその言葉を聞きながら、奇妙な感じがした。


胸のどこか奥で、何かがかすかに揺れた。


理由は、分からない。


本土の王家のことなど、私には縁のない話だった。


私は、穴に捨てられた、番号で呼ばれた者だ。


王家とも、青い血とも、何の関わりもない。


はずだった。


なのに、その褪せた青い髪の絵を見たとき、私の中で何かが、かすかに応えた。


その「応えた」が何なのか、私には説明ができなかった。


懐かしい、とも、違う。


覚えている、とも、違う。


ただ、青い髪、という言葉と、絵の中のその色を見たとき、胸のいちばん深いところで、ことり、と何かが動いた。


穴に落ちる前の、闇の中で、何かが、寝返りを打ったような。


けれど、それきりだった。


深いところで、ことり、と動いて、また沈んだ。


追おうとしても、そこには三歳の春の、冷たい銀の杯の感触があるだけだ。


その前は、ただの暗がりだった。


私の出自は、穴の底だ。


番号と、烙印と、奪われた腕。


それより前のことを、私は何も知らない。


けれど、その夕方、その絵の前で、私はしばらく動けなかった。


青い髪の、姫。


穴に落ちる前の私が、どんな髪をしていたか。


私は、覚えていない。


穴の底で、髪は泥と油に汚れ、色など分からなくなった。


今は、白いものも混じる、ただの年取った女の髪だ。


けれど、ずっと、ずっと昔、穴に落ちる前の、三歳の、あの春。


私の髪は、何色、だったか。


分からないことに、私はすこし奇妙な寂しさを覚えた。


老人は、私が絵を見ているのを、不思議そうに見ていた。


海を渡ってきた女商人が、なぜ古い姫の絵を、こんなに長く見ているのか。


私は、何でもない、というふうに、絵から目を逸らした。


逸らして、丘を下りはじめた。


けれど、何歩か下りて、もう一度、振り返った。


夕日が、青い髪の姫の絵を赤く染めていた。


赤に染まると、青い髪がすこし深く沈んで見えた。


海の底の青のように。


誰が、描いたのだろう。


二百年も前に。


この姫は、海を渡って、本土へ嫁いで、どうなったのだろう。


見知らぬ土地で、見知らぬ王のもとへ。


穀物と、銀と、引き換えに、嫁がされた娘。


その娘の血が、本土の王家に青い髪を残した。


娘自身は、もう誰も覚えていない。


残ったのは、髪の色と、この褪せた絵だけだ。


なぜか、その娘のことが、ひどく近く感じられた。


青血の姫の絵は、夕日の中に、残された。


その絵が私と何か関わりがあるのかどうか。


その時の私には、分からなかった。


たぶん、ない。


ただの偶然だろう。


青い髪など、世の中には、いくらでもある。


私はそう自分に言い聞かせて、丘を下りた。


麦の糸を、辿りに来たのだ。


古い絵に心を奪われている場合ではなかった。


けれど、胸の奥のかすかな揺れは、消えなかった。


宿へ戻る道で、私は自分の手を見た。


たったひとつの、右手を。


三本の指と、親指。


この手で、私は、骨を握り、棒を振り、銀を回してきた。


穴の底から、ここまで。


この手は、私の来歴のすべてを知っている。


けれど、この手より前のことを、私は知らない。


穴に落ちる前、この手が、まだ、五本の指を持っていた頃。


その頃の私が、誰の子で、どんな名で呼ばれ、どんな髪をしていたか。


手は、覚えていない。


覚えていたとしても、語らない。


青血の、姫。


その言葉がなぜこんなにも胸の奥に引っかかるのか。


海を渡って、疲れて、古い絵を見て、感傷になっただけだ。


そう決めて、私は指を固く握り直した。


麦の調べへ、戻らなければならない。


けれど、その夕方の私は、ただ、青い髪の姫の絵を、残った左の目に焼きつけていた。


理由も、分からないまま。


胸のいちばん深いところに、その褪せた青を沈めたまま。

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