第28話「青血の、姫」
ある夕方、私は都の古い一角を歩いていた。
市の喧騒から離れた、海を見下ろす丘の上だ。
古い館や廃れた神殿が、夕日に染まって立っている。
アズリアのいちばん古い場所だと、ナダが言った。
この都が、まだ小さな漁村だった頃から、ある一角だと。
石畳がすり減って、丸くなっている。
長い年月、人の足が、撫で続けた石だった。
その夕方、私はひとりだった。
ヒナは、倉の調べに。
ネネは市の片隅で、麦を買う者を数えている。
私はその日の調べを終えて、宿へ帰る前に、すこしこの古い一角を歩いてみたくなった。
理由は、ない。
ただ、麦と、値と、口の重い商人たちの、その日々に、すこし疲れていたのかもしれない。
海を渡ってから、私はずっと量り続けていた。
たまには、量らずに、ただ歩きたかった。
その一角の石の壁に、古い、色のついた絵が残っていた。
石に顔料で描かれた絵だ。
長い年月で色は褪せて、ところどころ剥げ落ちている。
けれど、まだ、見て取れた。
青い髪の女の絵だった。
青い、髪。
私は足を止めて、その絵を見上げた。
残った左の目で。
褪せた青の髪を長く垂らした女が、石の壁に描かれていた。
冠のようなものを、被っている。
手に、何か巻物のようなものを持っている。
古い、高貴な女の絵だ。
その青い髪が夕日を受けて、すこし本当の青のように見えた。
海の深いところの青だ。
通りかかった土地の老人に、私は訊いた。
あの絵は、誰か、と。
杖をついた、痩せた老人だった。
この一角に、長く住んでいるのだろう。
古い石畳と、同じくらい、古い顔をしていた。
老人は私を、しばらく見た。
海を渡ってきた、隻腕の女商人を。
それから、訊かれた絵を見上げた。
老人は、その絵を見上げて、しわがれた声で言った。
青血の、姫だ、と。
ずっと昔、二百年も前の、この都の姫の絵だという。
青い血を引く、高貴な家の娘だった。
アズリアのいちばん古い血。
流通を読み、値を読み、潮を読む、冷たい理の血だと、老人は言った。
その血を引く者は、生まれつき数と流れが読めるのだという。
どの港に、何が高く、どの土地に、何が足りないか。
教えられなくても、分かる。
だから、アズリアの古い家は青血を尊んだ。
青血が商いを栄えさせる、と。
その血が、青い髪に現れる。
アズリアの古い家には、時おり、青い髪の子が生まれた。
それが、青血の証だった。
ナダの数えを、私は思い出した。
値を読み、流れを読み、足りない土地へ物を運ぶ。
それが、回す手の仕事だ。
私はそれをナダから教わった。
教わって、何年もかけて、覚えた。
けれど、この青血の者たちは、それを教わらずに、生まれつき知っているのだという。
奇妙な話だった。
けれど、その時の私は、ただの土地の言い伝えとして、聞いていた。
二百年前、その青血の姫が海を渡って、本土へ嫁いだのだという。
本土の、ある王家へ。
その王家は、その頃、跡継ぎに困っていた。
血が、絶えかけていた。
そこへ、アズリアが姫を送る。
穀物を融通し、銀を貸し、姫を、嫁がせた。
その姫の青い血が、本土の王家に入った。
それから、その王家には、青い髪の子が生まれるようになった、と。
本土の、王家。
私はその言葉を聞きながら、奇妙な感じがした。
胸のどこか奥で、何かがかすかに揺れた。
理由は、分からない。
本土の王家のことなど、私には縁のない話だった。
私は、穴に捨てられた、番号で呼ばれた者だ。
王家とも、青い血とも、何の関わりもない。
はずだった。
なのに、その褪せた青い髪の絵を見たとき、私の中で何かが、かすかに応えた。
その「応えた」が何なのか、私には説明ができなかった。
懐かしい、とも、違う。
覚えている、とも、違う。
ただ、青い髪、という言葉と、絵の中のその色を見たとき、胸のいちばん深いところで、ことり、と何かが動いた。
穴に落ちる前の、闇の中で、何かが、寝返りを打ったような。
けれど、それきりだった。
深いところで、ことり、と動いて、また沈んだ。
追おうとしても、そこには三歳の春の、冷たい銀の杯の感触があるだけだ。
その前は、ただの暗がりだった。
私の出自は、穴の底だ。
番号と、烙印と、奪われた腕。
それより前のことを、私は何も知らない。
けれど、その夕方、その絵の前で、私はしばらく動けなかった。
青い髪の、姫。
穴に落ちる前の私が、どんな髪をしていたか。
私は、覚えていない。
穴の底で、髪は泥と油に汚れ、色など分からなくなった。
今は、白いものも混じる、ただの年取った女の髪だ。
けれど、ずっと、ずっと昔、穴に落ちる前の、三歳の、あの春。
私の髪は、何色、だったか。
分からないことに、私はすこし奇妙な寂しさを覚えた。
老人は、私が絵を見ているのを、不思議そうに見ていた。
海を渡ってきた女商人が、なぜ古い姫の絵を、こんなに長く見ているのか。
私は、何でもない、というふうに、絵から目を逸らした。
逸らして、丘を下りはじめた。
けれど、何歩か下りて、もう一度、振り返った。
夕日が、青い髪の姫の絵を赤く染めていた。
赤に染まると、青い髪がすこし深く沈んで見えた。
海の底の青のように。
誰が、描いたのだろう。
二百年も前に。
この姫は、海を渡って、本土へ嫁いで、どうなったのだろう。
見知らぬ土地で、見知らぬ王のもとへ。
穀物と、銀と、引き換えに、嫁がされた娘。
その娘の血が、本土の王家に青い髪を残した。
娘自身は、もう誰も覚えていない。
残ったのは、髪の色と、この褪せた絵だけだ。
なぜか、その娘のことが、ひどく近く感じられた。
青血の姫の絵は、夕日の中に、残された。
その絵が私と何か関わりがあるのかどうか。
その時の私には、分からなかった。
たぶん、ない。
ただの偶然だろう。
青い髪など、世の中には、いくらでもある。
私はそう自分に言い聞かせて、丘を下りた。
麦の糸を、辿りに来たのだ。
古い絵に心を奪われている場合ではなかった。
けれど、胸の奥のかすかな揺れは、消えなかった。
宿へ戻る道で、私は自分の手を見た。
たったひとつの、右手を。
三本の指と、親指。
この手で、私は、骨を握り、棒を振り、銀を回してきた。
穴の底から、ここまで。
この手は、私の来歴のすべてを知っている。
けれど、この手より前のことを、私は知らない。
穴に落ちる前、この手が、まだ、五本の指を持っていた頃。
その頃の私が、誰の子で、どんな名で呼ばれ、どんな髪をしていたか。
手は、覚えていない。
覚えていたとしても、語らない。
青血の、姫。
その言葉がなぜこんなにも胸の奥に引っかかるのか。
海を渡って、疲れて、古い絵を見て、感傷になっただけだ。
そう決めて、私は指を固く握り直した。
麦の調べへ、戻らなければならない。
けれど、その夕方の私は、ただ、青い髪の姫の絵を、残った左の目に焼きつけていた。
理由も、分からないまま。
胸のいちばん深いところに、その褪せた青を沈めたまま。





