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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第30話「脇腹の、傷」


 倉の主に会うには、口実がいる。


 無名の女商人が、ただ会いたいと言っても、商館同盟の上の者は会わない。


 会うだけの値打ちのある話を、持っていかなければ。


 剣でなら、塀を越えて、押し入ればいい。


 商いでは、そうはいかない。


 それが、商人の戦い方だった。


 その話を、私は半月かけて組み立てた。


 手土産は、麦だった。


 いや、麦そのものではない。


 本土の麦が、これから動くという話だ。


 私は海を渡る前に、本土の北街道筋で麦の流れをひととおり見てきた。


 散った七つが、各地の結節点から、便りを寄越していた。


 トビが屋根から飛ばす噂、リンが市の町で読む相場、サイが街道で数える荷馬車。


 その便りが海を渡って、私の手元に集まっていた。


 宿の一室に、私はその便りを並べてみた。


 ヒナが墨で書き写した、本土の麦の値の写し。


 日付ごとに、几帳面な、細い字で。


 北街道筋の宿場ごとの、麦の出来。


 畑の痩せ具合。


 倉の満ち具合。


 それを卓の上に、横に並べていく。


 一枚、また一枚。


 たったひとつの手で、紙の端を揃えていく。


 腕がひとつしかないから、紙がめくれて困った。


 けれど、めくれた紙を銀の杯の重みで押さえれば、足りた。


 並べてしまえば、本土の麦がこの秋どう動くかが、数の列の上に見えてきた。


 その「見えてきたもの」が、私の手土産だった。


 物ではない。


 読みだ。


 海を渡った商人にしか、持てない読みだった。


 本土の麦が、これからどう動くか。


 それを、アズリアの倉の主は知りたいはずだった。


 海の向こうの麦の動きは、この都の麦の値を、左右する。


 倉に山と麦を抱えた家ほど、その先の値が気になる。


 私はその話を餌にした。


 ◆  ◇


 仲立ちを、たててもらった。


 市の商人たちの輪に、半月、すこしずつ足を入れてきた。


 本土の薬草をすこし売り、本土の鉄をすこし売り、そのたびに口をきいてきた。


 腕がひとつしかないことが、かえって相手を油断させた。


 その油断の隙に、私はつてを、すこしずつ伸ばしていった。


 一人の商人と話し、その商人から別の商人を紹介してもらう。


 そうやって、輪を、たどっていく。


 たどり着いたのが、ステリオスという、両替商だった。


 港の銀の流れに、通じた男だ。


 海を渡る商いの、銀と札を、両替で回している。


 その商いの糸が、オルセラの倉にもつながっていた。


 だから、倉の主の側にも、つてがあった。


 市の片隅の酒場の卓で、私はステリオスに、本土の麦の話を、すこしだけ見せた。


 全部は、見せない。


 さわりだけ。


 安い酒を奢って、その椀の縁ごしに、本土の麦がこれから動く、と。


 その話を、倉の主に取り次いでもらえないか、と。


 ステリオスは、最初、訝しんだ。


「海を渡ってきた、女商人が」


 日に焼けた抜け目のない顔で、私を見た。


 隻腕の年を取った女を。


 卓の上に置いた私の右手を、ちらりと見た。


 三本の指と、親指。


 人差し指のない手を。


 それから、また私の顔に目を戻した。


 何を企んでいる、という目だった。


「オルセラの旦那に、なんの用だ」


「本土の麦の話を、買ってもらいたい」


 私は答えた。


「ただ会いたいんじゃない。話を、売りに来た」


 その言い方が、ステリオスの目つきをすこし変えた。


 会いたいと乞う者は、いくらでもいる。


 けれど、売りに来た、と言う者は、すくない。


 商人は、持っている者の話を聞く。


 私は、乞わなかった。


 売りに来た、と言った。


 それが、商人の輪の扉をすこし押した。


 ◆  ◇


 話は、思ったより早く通った。


 ステリオスが、倉の主に取り次ぎ、倉の主が、興味を示した。


 本土の麦が動くという話を、海を渡ってきた商人から、直に聞きたい、と。


 商談の場を、設けるという。


 場所は、オルセラの倉に近い、商館同盟の一室だった。


 それを聞いて、私はすこし身構えた。


 話が、早すぎた。


 無名の女商人の麦の話ひとつに、商館同盟がこんなに早く場を設ける。


 それは、向こうも何かを知りたがっている、ということだった。


 海の向こうの麦の動きを、本気で、欲しがっている。


 早すぎる返事は、向こうの倉の山が私の思っているよりずっと大きいことを語っていた。


 あるいは、と私は思った。


 あるいは、向こうも私を量りたいのかもしれない。


 麦の倉のことを嗅ぎ回っている、隻腕の女商人。


 その女が、何者で、何を狙っているか。


 向こうも、それを知りたい。


 だとすれば、この商談は、私が向こうを量る場であると同時に、向こうが私を量る場でも、ある。


 互いに、互いを、量り合う場だ。


 私はヒナとナダを呼んだ。


 宿の一室で、三人、額を寄せた。


 ナダは、海路の図のかたわらに、アズリアの値の地図を引き直していた。


 ヒナは、半月市で数えてきた麦の値の帳面を開いた。


 日ごとの値。


 倉に入る荷と、出る荷の差。


 市にあふれる上澄みと、塀の中に溜まる、巨大な水。


 数は、揃っていた。


 あとは、それをどう出すかだった。


 全部を、出すのではない。


 どの数を見せ、どの数を伏せるか。


 相手の欲しがるものと、こちらの見せる手を、私は頭の中で何度も並べ替えていた。


「会いに、行く」


 私は樫の棒の握りを、てのひらで一度確かめた。


 握りの内側の灰の字が、てのひらの下に、ある。


 剣を抜く場ではない。


 けれど、棒は、握っていく。


 剣の届かない、商いの場へ。


 値と、信用と、利の駆け引きの場へ。


 私は、無名の女商人として、その扉をくぐることになった。


 ◆  ◇


 商談の日は、よく晴れていた。


 アズリアの強い日が、白と青の石をくっきりと縁取っていた。


 商館同盟の一室は、海に面した大きな建物の二階にあった。


 窓が広く取られて、そこから港の水路と行き交う舟が見えた。


 床は磨かれた石で、その上に毛織りの敷物が敷いてある。


 中央に、長い卓があった。


 黒っぽい、重い木の卓だ。


 その上に、契約を交わすための紙と、墨と、それから銀の重さを量る小さな天秤が置いてあった。


 私はヒナを連れて、その部屋に入った。


 磨かれた石の床が、足音を低く吸った。


 潮の匂いが、開いた窓から、流れ込んでいる。


 部屋は、静かで、涼しかった。


 強い日の光が窓の広い枠で四角く切り取られて、床の敷物の上に落ちている。


 剣の匂いのしない部屋だ。


 けれど、剣の場より油断のならない場だと、私は知っていた。


 ナダは、宿に残した。


 海路の数えは、表に出さない。


 ネネも宿に残して、荷を見させた。


 表に立つのは、私と、ヒナだけだ。


 私が無名の女商人として話し、ヒナがその傍らで数えを控える。


 それで、足りるはずだった。


 卓の向こうに、倉の主が座っていた。


 マッテオ・オルセラ。


 物流の家の当主だ。


 肩幅の広い、日に焼けた男だった。


 商家の当主というより、荷役の頭のような、太い首と、節くれだった手をしている。


 窓から入る光が、その手の甲の古い傷を照らしていた。


 長く港で働いた手だ。


 粗野で、計算高い。


 その目が私を、上から下までひとなめにした。


 隻腕の年を取った女を。


 何ができる、という目だった。


 けれど、その目の奥には、抜け目のなさがあった。


 侮りながら、しっかりと量っている。


 私はその男に、軽く頭を下げた。


 名は、名乗らなかった。


 海を渡ってきた、麦の商人。


 それだけだ。


 名を訊かれれば、土地の名をひとつ返す。


 アズリアでも、私は固有の名を立てない。


 名は、しまっておくものだ。


 卓に着こうとして、私はふと部屋の隅に目を止めた。


 窓を背に、ひとりの男が立っていた。


 商人の身なりではなかった。


 革の胴衣の上に、よく手入れされた上等な外套を羽織っている。


 腰に、剣を、提げていた。


 商館の一室に、剣を提げて立つ男。


 荷役でも、商人でもない。


 用心棒だ。


 それも、ただの用心棒ではない。


 立ち方が、違った。


 背をまっすぐに伸ばし、両足をすこし開いて、重心を低く置いている。


 いつでも動ける構えだ。


 長く、剣で生きてきた者の立ち方だった。


 その立ち方を、私は知っていた。


 体が、先に、知った。


 頭が、男の顔を、認める前に、脇腹の古い傷が、疼いた。


 ずきり、と。


 皮の下の奥の方で。


 古い傷のいちばん深いところが、内側から、ねじれるように。


 普段は、何も感じない傷だ。


 海を渡る船の上でも、市を歩く日々でも、ずっと黙っていた。


 傷があることさえ、忘れている日が、ある。


 なのに、その男を、目の隅に捉えた瞬間、傷が、目を覚ました。


 古い刃の記憶。


 皮膚を裂き、奥まで届いて、熱を持って、長く、私を苦しめた刃。


 傷が癒えてからも、雨の日には、奥が鈍く痛んだ。


 その刃を突き立てた手を、体が覚えていた。


 頭より先に、傷が、覚えていた。


 私は、息を、止めた。


 てのひらが勝手に樫の棒の握りを探した。


 握りの内側の灰の字が、てのひらの下に、ある。


 あると知っている重さがすこしだけ私を落ち着かせた。


 けれど、棒を握り直しはしなかった。


 握り直せば、見られる。


 私はただ、その重さを、てのひらで確かめただけだった。


 顔を上げて、その男を見た。


 残った左の目で。


 年は、取っていた。


 四十年余りだ。


 あの頃から、それだけの年月が経っている。


 髪に白いものが混じり、顔に深い皺が刻まれている。


 けれど、その目の傲岸な光は、変わっていなかった。


 負けを面白がる、あの目だ。


 一度負かした相手を、二度と忘れない、と言った、あの男の目。


 ファルディン。


 その名が、頭の奥で立ち上がった。


 私を、初めて剣で負かそうとして、負けた男。


 私を庇ったカラスを刺し、第二の穴へ落とした男。


 あの言葉のない男を、死なせた手。


 あの穴の日から、私の脇腹に毒矢の傷の記憶を残し続けた男。


 それが、いま、この部屋に、いた。


 商館の用心棒として。


 倉の主の後ろ盾として。


 窓を背に、剣を提げて、立っていた。


 ◆  ◇


 私は顔を動かさなかった。


 怒りも、驚きも、出さなかった。


 穴の底で、覚えた顔だ。


 何も映さない、能面の顔。


 脇腹の傷が、まだ奥で疼いていた。


 けれど、その疼きを顔には出さなかった。


 出せば、見られる。


 届く手は、見られる。


 見られた手は、潰される。


 だから、私は、ただの女商人の顔のまま、その男を見た。


 ファルディンは、私を、見た。


 卓に着こうとする、隻腕の年を取った女商人を。


 そして、何も思い出さなかった。


 その目に、何の波も立たなかった。


 ただ、つまらないものを見る、という目だった。


 商談に来た、しがない女商人。


 腕がひとつしかない、海の向こうの、無名の者。


 それ以上の何かを、その目は私の中に見なかった。


 あの頃、自分が剣を向け、負けた相手。


 自分が穴へ落とした、奴隷の少女。


 その面影を、目の前の女の中に、ファルディンはまったく見つけなかった。


 見つけられるはずも、なかった。


 あの頃の私は、子供だった。


 痩せた、奴隷の少女だった。


 今の私は、年を取った、隻腕の女だ。


 顔も、体も、それだけの年月で変わった。


 それに、ファルディンにとって、私はたくさん打ち負かしてきた相手のひとりにすぎない。


 負けを面白がる男は、勝った相手は覚えても、自分が踏みつけた奴隷の顔まで、いちいち覚えていない。


 覚える値打ちが、ないからだ。


 それが、二人のあいだに積もった年月の非対称だった。


 私はこの男を、体で覚えていた。


 脇腹の傷が頭より先に思い出すほど、深く。


 ファルディンという名を、私はあの穴の日から忘れたことがなかった。


 あの日、カラスを刺した刃の、突き入れられる速さも。


 第二の穴の縁から見上げた、この男の傲岸な顔も。


 「お前は私がもらう」と言った、その声も。


 全部、覚えていた。


 穴の底で番号を覚えるように、体に刻みつけて覚えていた。


 けれど、この男は私を、まったく覚えていなかった。


 私には、忘れられない男。


 この男には、覚えてもいない女。


 同じ時間が、こうも違う形で二人の中に残っていた。


 私の年月は、この男の刃でできていた。


 この男の年月に、私はいなかった。


 一度も。


 私はその非対称を、能面の奥で噛みしめた。


 そして、それでいい、と思った。


 気づかれないことが、私のいちばんの守りだった。


 気づかれれば、ただの女商人ではなくなる。


 穴を脱した奴隷だと知れれば、商談どころではなくなる。


 気づかれないまま、商人として、この場に立つ。


 それが、剣を持たない私の戦い方だった。


 脇腹の傷はまだ疼いていたが、私はその疼きを奥へ沈めた。


 今日は、剣を抜く場ではない。


 この男と、斬り合いに来たのではない。


 私は麦の話を売りに来た、ただの女商人だった。


 卓に、着いた。


 ファルディンは、窓を背に、立ったままだった。


 商談には、加わらない。


 ただ、後ろ盾として、そこにいる。


 倉の主の背後で、剣を提げて、立っている。


 何かあれば、剣が動く。


 そういう、構えだった。


 けれど、その何かは、起きないはずだった。


 ここは、商いの場だ。


 剣の出る場ではない。


 マッテオ・オルセラが先に口を開いた。


「本土の麦が、動くと聞いた」


 太い声だった。


 前置きはなかった。


 商人のせっかちな話し方だ。


 時は、銀だ。


 無駄な世間話に、時を使わない。


「どう、動く」


 私は、すぐには答えなかった。


 水を、ひと口、飲んだ。


 卓の上に用意されていた、銀の杯の水を。


 残った左の目で、卓の向こうのマッテオの顔を見た。


 それから、その背後のファルディンの立ち姿を、目の隅に捉えた。


 脇腹の傷は、まだ奥で疼いていた。


 けれど、私はゆっくりと間を取った。


 急がない。


 急げば、安く、見られる。


 商人の話には、間が、いる。


 間を取れる者は、余裕のある者だ。


 余裕のある者の話は、高く、聞いてもらえる。


「その前に」


 私は言った。


「こちらの話を、いくらで、買うかを、決めたい」


 マッテオの太い眉が、すこし動いた。


 話を聞く前に、値を決めろ、と言う。


 ふつう、商談は品を見せてから、値をつける。


 私は、それを、逆に、した。


 品を見せる前に、値を決めさせる。


 海を渡ってきた麦の話に、それだけの値打ちがある、と先に言い切った。


「話も聞かずに、値を、つけろと」


 マッテオが、低く、言った。


 面白がる声と訝しむ声が、半分ずつ混じっていた。


「聞いてから、つける値は、安い」


 私は答えた。


「聞いてしまえば、もう、その話は、あんたのものだ。手の内を見せた者は、安く、買い叩かれる。だから、見せる前に、決める」


 それは、商いの駆け引きだった。


 けれど、その理は、商いだけのものではなかった。


 穴の底で、私はそれを体で覚えた。


 届く手は、見られる。


 見られた手は、潰される。


 手の内を先に見せた者は、いつも潰される側だった。


 盗賊の頃も、同じだ。


 狙いを先に明かした者は、奪われる。


 明かさぬ者が、奪う。


 商いも、同じ理で回っていた。


 剣も、盗みも、商いも、根っこはひとつだった。


 手の内を、いつ、どこまで見せるか。


 その駆け引きで、勝ち負けが決まる。


 ◆  ◇


 マッテオはしばらく私を見ていた。


 日に焼けた顔の抜け目のない目で。


 この女は、ただの女商人ではない、とその目は言っていた。


 話を聞く前に値を決めさせる女。


 手の内を、簡単には見せない女。


 粗野な物流の家の当主は、こういう手合いを何人も見てきたのだろう。


 海千山千の商人を。


 そして、すぐに見抜くのだろう。


 本物か、はったりか。


「面白い」


 マッテオは、片頬で笑った。


「だが、値を決めるには、こっちも、あんたが何者かを、知りたい」


 来た、と私は思った。


 向こうも、私を量りに来ている。


 海を渡ってきた、無名の女商人。


 麦の倉のことを嗅ぎ回っていた女。


 その女が何者で、何を狙っているか。


 マッテオは、それを知りたがっていた。


 互いに、互いを、量り合う場。


 私が読んだ通りだった。


 窓を背にしたファルディンが、すこしこちらを見た。


 倉の主が、相手の素性を訊いた。


 その途端、後ろ盾の目が動いた。


 商談の中身には、興味のない目だ。


 けれど、相手が何者かには、用心棒として、関心がある。


 怪しい者なら、剣が動く。


 ファルディンの目が私を、改めてひとなめにした。


 隻腕の年を取った女を。


 脇腹の傷が、また、疼いた。


 その目に見られると、傷が疼く。


 けれど、ファルディンの目には、やはり何の波も立たなかった。


 怪しいか、怪しくないか。


 それを、用心棒の目で量っているだけだ。


 私の正体には、まったく近づいていなかった。


 かつての奴隷の少女と、いま目の前にいる私を結ぶ線を、その目は引かなかった。


 引けるはずも、なかった。


 ファルディンがふと口を開いた。


「片腕で、海を渡ってきたのか」


 壁にもたれるように、窓枠に肩を預けながら。


 からかうような、余裕のある声だった。


「たいした女だ。だが、麦の話で、この男を、釣ろうというなら、よほど旨い餌を、持ってきたんだろうな」


 その声に、私は顔を上げなかった。


 あの日以来、初めて聞く、この男の声だ。


 穴の縁で、私を見下ろした、あの声。


 けれど、いまその声は、私を海を渡ってきた珍しい女商人として面白がっているだけだった。


 腕がひとつしかないことを、軽くなぶる声。


 その腕がどこで奪われたかを、この男は知らない。


 知ろうとも、しない。


 私はその声に、ただすこし頭を下げて応えただけだった。


 声を、出さなかった。


 声を出せば、何かが伝わるかもしれない。


 穴の底で底の名を声に出さなかったように、私はこの男の前で声をしまった。


 私はマッテオに向き直った。


「本土の、北街道筋を、回ってきた商人だ」


 嘘では、なかった。


 本当のことを、すこしだけ言う。


 すべては、言わない。


 盗賊だったとも、穴を脱した奴隷だとも、言わない。


 本土の麦の流れを、見てきた商人。


 それだけは、本当だった。


 本当のことの上澄みだけをすくって見せる。


 嘘は、いつか、ばれる。


 けれど、本当のことの見せ方を選べば、嘘をつかずに手の内を隠せる。


「北街道筋なら、麦の動きは、見える」


 マッテオが、頷いた。


 北街道筋の名は、この都の商人にも、通っていた。


 本土の麦の、大きな道だ。


 そこを回ってきた、と言えば、麦の話の出どころとして筋が通る。


「腕は、どこで」


 マッテオが、私の右の何もない肩の方を、顎でしゃくった。


 粗野な男の遠慮のない訊き方だった。


 商人は、相手の傷さえ、値踏みの材料にする。


 隻腕の女が、何者か。


 その腕の失われた経緯から、探ろうとしている。


「若い頃に」


 私は、短く、答えた。


 それ以上は、言わなかった。


 失った経緯を語れば、糸がつながる。


 穴。


 奴隷。


 烙印。


 ファルディン。


 語った糸の先に、すぐそこに立つあの男がいる。


 だから、私は言わなかった。


 若い頃に、とだけ。


 商人は、語らない者を深追いしない。


 深追いすれば、こちらの手の内も、見せることになるからだ。


 マッテオはそれきり、腕のことを訊かなかった。


 窓を背にしたファルディンは、私の肩の方をちらりと見た。


 けれど、それだけだった。


 隻腕の女の失われた腕に、何の感慨も持たなかった。


 あの日、私をあの穴へ落としたのは、この男だった。


 なのに、目の前の女の肩を見ても、何も思い出さない。


 私はその目を、能面の奥で見ていた。


 脇腹の傷が、またすこし疼いた。


 商談は、そこから始まった。


 武力は、ない。


 剣も、骨も、使わない。


 あるのは、言葉と、数と、間だけだ。


 誰が何を欲しがり、誰が何を隠しているか。


 それを、読み合う。


 剣の戦いなら、私はこの場の誰にも負けない。


 けれど、ここは、剣の場ではなかった。


 契約と、信用と、利害の場だ。


 私は、剣を持たない者として、その場に立っていた。


 脇腹に、古い傷を、疼かせながら。


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