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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第23話「紙が、銀になる」


 日が昇るころ、船は岸を離れた。


 帆が風を孕んで、ぱんと音を立てて張った。


 船乗りたちが、綱を引き、櫂を操る。


 船がゆっくりと岸から遠ざかっていく。


 私は船尾に立って、岸が遠くなるのを見ていた。


 港町の賑わいが、小さくなる。


 人の声が、聞こえなくなる。


 やがて、岸そのものが灰色の線になって、海と空のあいだに沈んでいった。


 陸が、消えた。


 まわりは、海だけになった。


 前も、後ろも、ただ灰色の海だった。


 空と海が一本の線になって、ぐるりと船を囲んでいる。


 船は、その真ん中に小さく浮かんでいた。


 陸では地に足をつけて立っていた私が、海では薄い木の板一枚の上に浮いていた。


 その下は、底の知れない水だった。


 海の色は、ひとつではなかった。


 近くを見れば、緑がかった暗い色だ。


 遠くを見れば、灰色になる。


 日が差すと、その下だけ青く光る。


 陸の色はめったに動かないのに、海はいつも動いていた。


 私はそれを、たったひとつの目で見ていた。


 怖くて、けれど、美しかった。


 ◆  ◇


 半日もすると、私は気持ちが悪くなった。


 船の揺れだ。


 陸の揺れとは、違う。


 ゆっくりと、大きく、船が傾く。


 傾いて、戻る。


 また、傾く。


 その繰り返しが、腹の底をゆっくりとかき回した。


 頭が、重くなる。


 脂汗が、額に滲む。


 私は、船べりに寄りかかった。


 たったひとつの手で、船べりを握りしめた。


 ヒナも、青い顔をしていた。


 若い体でも、海の揺れには勝てない。


 荷の陰にしゃがみ込んで、やがてこらえきれずに、船べりから吐いた。


 私も、続く。


 船乗りたちがそれを見て、笑った。


 悪い笑いではない。


 海を初めて渡る者は、みなこうなる。


 ナダだけが、平気な顔をしていた。


 杖をついて、船べりにもたれている。


 曲がった背を、揺れに合わせている。


 船が傾けば、その傾きに体を預ける。


 逆らわない。


 海の揺れに逆らえば、酔う。


 揺れに身を任せれば、すこし楽になる。


 それを、ナダは知っていた。


「逆らうな」


 ナダが、私に言った。


「揺れに、逆らうな。体を、固くするな。船と、一緒に、揺れろ。海は、押さえつけるもんじゃねえ。乗るもんだ」


 私はその言葉の通りにしてみた。


 船べりを握る手の力を、抜く。


 体を、揺れに合わせる。


 船が傾けば、私も傾く。


 すると、不思議と気持ちの悪さがすこし引いた。


 海を押さえつけようとしていた、陸の癖だ。


 海では、踏みしめるのではなく、乗るのだった。


 ◆  ◇


 夜が、来た。


 海の夜は、深かった。


 陸の夜には、遠くに火の灯りがひとつくらい見える。


 村の火か、宿場の灯りか。


 けれど、海の夜には、何もなかった。


 ただ、黒い水と黒い空があるだけだった。


 星だけが、頭の上に降るように出ていた。


 陸で見るより、ずっと多くて、ずっと近い。


 手を伸ばせば、届きそうだった。


 ナダが、星を見上げていた。


 古い船乗りの目で、星の位置を読んでいる。


「あの星が、北だ」


 ナダが、指さした。


「あの星を、右の肩に、置いて進めば、向こう岸に、着く。船乗りは、星で、道を、知る。海には、街道の標がねえ。だから、空に、標を、置くんだ」


 空に、標を、置く。


 私は、その言葉に打たれた。


 海には、地形がない。


 逃げ道も、見えない。


 けれど、船乗りは、迷わなかった。


 陸の標がないところで、空に標を見つける。


 私がたじろいだ広さの中で、船乗りたちは見えない道を見ていた。


 恐れは、まだ、あった。


 底の知れない水の上に、薄い板一枚で浮いている。


 けれど、恐れとは別のものも湧いてきた。


 畏れ、とでも言えばいいのか。


 穴の底から丘の上までしか知らなかった私が、いま、その外に出ていた。


 海の上に。


 星の下に。


 ◆  ◇


 幾夜か、海の上で過ごした。


 揺れには、すこしずつ慣れた。


 吐かなくなった。


 船が傾く前に、傾く方へ重心を移す。


 揺れに、乗る。


 樫の棒は、海の上でも役に立った。


 一本の腕しかない私には、揺れる船は危ない。


 けれど、棒があれば、転ばずに立てた。


 ある日、風が止んだ。


 帆が力なく垂れ、船は進まなくなった。


 ただ、海の上でゆらゆらと揺れているだけだった。


 凪、というのだ、とナダが言った。


 海の上では、急いでも進めない。


 陸では足を動かせば進めたが、海では風が動かなければ進めなかった。


 風がまた吹きはじめると、船は進んだ。


 帆がぱんと張り、船首が波を切る。


 白い水しぶきが立つ。


 私はそれを船首で浴びた。


 海の水を、初めて舐めた。


 しょっぱかった。


 これほど広いものが、全部しょっぱい。


 世界には、こんなに塩があるのか。


 ある日の夕暮れ、空の一方が黒くなった。


 遠くの空に、暗い雲が湧いていた。


 ナダがそれを見て、船乗りに何か言った。


 船乗りたちが、急に慌ただしくなる。


 帆を、すこし、畳む。


 船の向きを、変える。


 黒い雲を避けるように、船首を横へ振った。


「あれが、嵐だ」


 ナダが、私に、言った。


「あれに、突っ込めば、終わりだ。だから、避ける。海の上で、嵐と、喧嘩する馬鹿は、いねえ。逃げるが、勝ちだ。船は、遠回りしても、沈まなけりゃ、向こう岸に、着く」


 逃げるが、勝ち。


 その言葉は、私の知っている言葉だった。


 盗賊の頃、勝てない相手とは、戦わなかった。


 追っ手が多ければ、逃げた。


 逃げて、生き延びるのが、勝ちだ。


 海でも、同じだった。


 船乗りの知恵は、盗賊の知恵と根が同じ。


 長く生き延びる者は、海でも、陸でも、無理をしない。


 船は黒い雲を大きく避けて、進んだ。


 遠くで、稲妻が光る。


 海の上に、雨が降っているのが見える。


 けれど、私たちの船の上には、降らない。


 ナダの目が、嵐を早くに見つけたから。


 あれに突っ込んでいたら、海の藻屑だ。


 海の上でも、用心は裏切らない。


 幾日かののち、ナダが前方を指さした。


「陸だ」


 灰色の線が、海の果てに見えている。


 空と海のあいだに、新しい別の線が現れていた。


 あれが、向こう岸。


 麦の糸の根元の、大陸だ。


 私は樫の棒を握り直して、その線を見た。


 たったひとつの目で。


 海を、越えた。


 私の世界の外へ、出たのだ。


 ◆  ◇


 向こう岸が近づくと、船は賑やかになった。


 他の船と、すれ違うようになった。


 一艘、また一艘。


 本土の港でも、船は多かったが、ここは、それ以上だった。


 大きな船、小さな船。


 みな、向こう岸のひとつの方角を目指していた。


 海が一本の街道のように、船で混んでいた。


 船の上で、私は海商と初めて話した。


 私たちの船にも、海商が何人か乗り合わせていた。


 本土の塩や鉄を、向こう岸へ運び、向こう岸の物を、本土へ持ち帰る。


 海を渡って、商いをする者たちだった。


 私は、その一人に声をかけた。


 商人は、商人の話をする。


 値の話、品の話、港の話。


「向こう岸の、麦の値は」


 私が訊くと、海商は私を上から下まで見た。


 隻腕の、片目の、樫の棒を突いた女だ。


 けれど、私が商いの言葉を使うと、目の色が変わった。


 同じ商人だ、と分かったらしい。


 海商は、麦の値を教えてくれた。


 けれど、その値の言い方が、私の知らない言葉だった。


「グロスで、言ってくれるか」


 海商が言った。


「グロス」


 私が聞き返すと、海商は笑った。


「本土の人か。向こうじゃ、銀のことを、グロスと言う。レム、グロス、クラウン。銅が、レム。銀が、グロス。金が、クラウン。十二レムで、一グロス。二十グロスで、一クラウンだ。覚えとかねえと、向こうじゃ、何も、買えねえぞ」


 レム、グロス、クラウン。


 私はその三つの言葉を胸に刻んだ。


 銅、銀、金。


 本土の銭とは、呼び名が違うだけで仕組みは同じだった。


 銀は、銀のままでは、増えない。


 足りない土地へ運んで、物に換え、また銀に戻す。


 その理は、海の向こうでも変わらない、はずだった。


 海商はそれから、向こう岸の話をいくつもしてくれた。


 海の上では、商人も暇だ。


 本土の人間が向こう岸の作法を何も知らないのが、面白かったらしい。


 アズリアの港では、こうしろ、ああするな。


 荷を下ろすときは、こういう順だ。


 その話のひとつひとつが、私には新しかった。


 私はそれをヒナに書き取らせた。


 向こうの帳面に。


 ◆  ◇


 海商はもうひとつ、私の知らないものを見せてくれた。


 懐から、銀貨を一枚取り出した。


 私の知っている銀貨とは、違った。


 表に、青い印が刻んである。


 役所の刻みとは、違う。


 もっと整った、きれいな印だ。


 青く、染まっている。


「これが、青印グロスだ」


 海商が言った。


「アズリアの、鋳た銀だ。重さも、品も、いつも、同じ。だから、どこの港でも、信用される。この青印があれば、誰も、目方を、疑わねえ。本土の銀は、土地ごとに、目方が違うが、青印グロスは、どこでも、同じだ」


 どこでも、同じ。


 私はその青い印を、残った左の目で見た。


 丘の上で、私は役所の刻みのある銀を火に入れて、溶かした。


 刻みは、銀を縛る印だった。


 盗まれた銀だと、読まれる印。


 けれど、この青い印は、違った。


 縛る印ではなく、信じさせる印だった。


 この印があれば、誰も疑わない。


 同じ刻みでも、ひとつは銀を縛り、ひとつは銀を信じさせる。


 印の、向きが違った。


 奪われた者の目で、私はそれを測った。


 青い印は美しかったが、浮かれはしなかった。


 この印を信じさせるためには、誰かが銀の重さと品を、いつも同じに保っていなければならない。


 鋳る手が誤魔化せば、青印は、ただの青い染みになる。


 この美しい印の裏には、誤魔化さない、という地味な手があるはずだった。


 私の商いの掟と、同じ手が。


 ◆  ◇


 海商は最後に、一枚の紙を見せた。


 銀貨でも、銅貨でもない。


 ただの、紙だった。


 けれど、その紙に文字と印が書いてある。


 私の読めない、文字だった。


 本土の文字とも、違う。


 流れるような、別の文字だった。


「これは、港札だ」


 海商が言った。


「アズリアの、倉庫町が、出す、預り証だ。倉に、銀を、預けると、この札が、もらえる。札を、持っていけば、別の港でも、銀に、換えられる。重たい銀を、持ち歩かなくて、済む。大きな商いは、銀じゃなく、この札で、する」


 紙が、銀になる。


 私は、その紙を見つめた。


 ただの紙だ。


 火に入れれば、燃える。


 水に濡れれば、ふやける。


 けれど、その紙が、銀になる。


 なぜか。


 倉庫町がその紙を信じさせているからだ。


 この札を持ってくれば、銀を渡す、という約束を、倉庫町が守るからだ。


 約束が守られるかぎり、紙は銀になる。


 約束が破られれば、紙は、ただの紙に戻る。


 信用が、紙を銀にしていた。


 私はそれを、奪われた者の乾いた目で測った。


 海を渡るのに銀を箱で運べば、重くて、嵩んで、盗まれる。


 けれど、紙一枚なら、懐にしまえる。


 盗まれても、別の紙で止められる。


 そういう仕組みを、誰かが考え出していた。


 けれど、同時に危うい仕組みでもあった。


 信用が崩れれば、紙は一夜で、ただの紙になる。


 倉庫町が約束を破れば、あるいは潰れれば、その紙を持っていた者は銀をすべて失う。


 信用は、積むのに何年もかかり、崩れるのは、一夜だ。


 マルゴットの計りで覚えたあの理が、ここでは国ぜんたいの大きさで回っていた。


 一人の女の宿で覚えた理が、海の向こうでは国を立たせる柱になっていた。


 信用で、立つ国。


 ナダが、言っていた。


 物を作らない国だ、と。


 けれど、世界中の物が、いったんあの国を通る。


 値をつけるのは、いつも、あの国だ、と。


 その仕組みの片鱗を、私は船の上で初めて見た。


 青い印と、一枚の紙。


 それが、海の向こうの国を立たせていた。


 剣ではなく、信用で。


 私はまだ、その国に足を踏み入れてもいなかった。


 けれど、船の上で、もうその国の匂いを嗅ぎはじめていた。


 値をつける国。


 信用で立つ国。


 麦の糸の、根元の国。


 乾いた目で、私は近づく岸を見ていた。

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