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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第六編 第22話「海は、ただの道」


 西へ十日かけて、私たちは港町に着いた。


 街道を西へ、西へと詰めていった。


 土地がすこしずつ変わっていった。


 麦の畑が減り、塩を運ぶ荷馬車が増えた。


 ◆  ◇


 その途中、西へ向かう街道の脇に、人が倒れていた。


 めずらしくは、なかった。


 飢えた者、病んだ者、追い剝ぎに遭った者。


 街道は、倒れた者であふれている。


 私たちはそのすべてを拾えるわけではない。


 急ぐ旅だ。


 海を渡る船には、出る時季がある。


 だから、たいていは見て、通り過ぎる。


 けれど、その男は倒れ方が違った。


 うつ伏せて、地に頬をつけ、両手で土を掴んでいる。


 掴んで、体を起こそうとして、起きられない。


 立とうとして、立てない。


 傷はない。


 血も出ていない。


 痩せてはいるが、餓死するほどではなかった。


 それなのに、見えない手に背中を押さえつけられているように、地から剥がれなかった。


 私はしゃがんで、声をかけた。


「水を」


 男は、首だけをわずかに動かした。


 その目が、私を見る。


 そして、言葉をしゃべった。


 聞いたことのない言葉だった。


 音の並びが、この大陸の、どの国の言葉とも違う。


 けれど、その響きに、私は覚えがあった。


 ずっと昔、穴を出てからの二年、私のそばにいた、言葉のない男。


 カラス。


 あの男がごくまれに寝言で漏らした音に、似ていた。


 向こうの、言葉だ。


 この男は、向こうから来た。


 カラスと、同じだ。


 けれど、カラスは動けた。


 歩き、骨を握り、棒を振った。


 この男は、動けない。


 同じ向こうから来て、ひとりは動け、ひとりは地に縫いつけられている。


 何が違うのか、私には分からなかった。


 ただ、ひとつだけ、分かった。


 この男には、この土地が重すぎる。


 私たちが何でもなく立っている地面が、この男には重すぎるのだ。


 私たちが背負って平気な重さが、この男の骨を、軋ませている。


 息をするだけで、胸が潰れそうになっている。


 地がこの男だけを、よけいに強く引いていた。


 助けようが、なかった。


 傷なら、布で縛れる。


 飢えなら、麦をやれる。


 けれど、地の重さは、布でも、麦でも、どうにもならない。


 この男を救うには、地そのものを軽くするしかない。


 そんなことは、誰にもできなかった。


 ヒナが、私を、見ていた。


 どうするのか、と訊く目だ。


 私は、首を振った。


 背に負っても、負われたまま、死ぬ。


 それも、ひどい死に方で。


 揺れる背中は、この男には地よりもっと重い。


 動かさず、地に置いておくほうが、まだ楽に死ねる。


 救えぬ者は、いる。


 男に、水だけ、含ませた。


 たったひとつの手で、革袋の口を男の唇に当てる。


 男は、喉をわずかに鳴らした。


 飲めたのか、こぼれただけなのか、分からない。


 それから、また目を地に向けた。


 土を掴んだ指が、ゆるんでいく。


 私は、立ち上がった。


 立てる、ということが、その時ほど奇妙に思えたことはなかった。


 地が、私の背を押し返してくる。


 当たり前の重さだ。


 けれど、その当たり前を、たった今、ひとりの男が持てずに死んでいく。


 懐の読めない帳面が、ふいに重かった。


 カラスも、向こうから来た。


 あの男は動けたから、私に二年を遺せた。


 この男は動けないから、誰にも何も遺せない。


 同じ場所から来て、片方は師になり、片方は街道の土になる。


 その違いに、意味があるのか。


 私には、読めなかった。


 読めない帳面の、いちばん奥の頁のようだった。


 ◆  ◇


 男を置いて、私たちはまた西へ歩いた。


 海が近づくにつれ、空気が、湿ってくる。


 風に、嗅いだことのない匂いが混じりはじめた。


 生臭くて、塩辛い、重たい匂いだ。


 ナダがそれを嗅いで、目を細めた。


「海の、匂いだ」


 ナダが言った。


 私はその匂いを初めて嗅いだ。


 穴の底の、土と血の匂いでもない。


 丘の上の、火と鉄の匂いでもない。


 もっと広くて、重たい匂いだった。


 私の世界の、外の匂いだった。


 坂をひとつ越えると、海が見えた。


 灰色の、広い、平らなものが目の前に広がっていた。


 空と海が、遠くで一本の線になって出会っている。


 その線が、どこまでも横に伸びていた。


 私は足を止めて、それを見た。


 たったひとつの目で、その広さを追いきれなかった。


 陸には、果てがある。


 山があり、丘があり、街道の終わりがある。


 けれど、海には、果てが見えなかった。


 ただ、灰色が空と出会うところまで続いていた。


 あれを、渡るのか。


 私は、樫の棒を握り直した。


 あの向こう側に、麦の糸の根元がある。


 あの果てのない広さを越えなければ、辿り着けない。


 私はその広さを前に、すこしたじろいだ。


 盗賊の頃、どんな塒も、どんな護送の列も、地形が読めた。


 逃げ道が、読めた。


 けれど、海には、地形がない。


 逃げ道も、見えない。


 ただ、広いだけだった。


「渡れる」


 ナダが、私の隣で言った。


 私のたじろぎを見抜いたらしい。


「広く見えるが、向こう岸は、ちゃんと、ある。船が、運んでくれる。海は、こええもんじゃねえ。なめると、こええが、なめなけりゃ、ただの、道だ」


 海は、ただの、道だ。


 その言葉で、私の中のたじろぎがすこしほどけた。


 広いだけで、向こう岸はある。


 船が、運んでくれる。


 逃げ道は、帰りの船賃の中にしまってある。


 なめなければ、ただの道だ。


 私はもう一度、海を見た。


 さっきより、すこし小さく見えた。


 ◆  ◇


 港町は、人と荷でごった返していた。


 北街道のどんな宿場よりも、賑やかだった。


 荷を担ぐ者、荷を下ろす者、値を呼ばわる者。


 樽が積まれ、麻袋が山になり、塩の匂いと、魚の匂いと、人の汗の匂いが混ざっていた。


 籠を背負った女が、魚を売り歩いている。


 船から下りた船乗りが、酒の店へ雪崩れ込んでいく。


 陸の人は、街道をまっすぐ歩く。


 けれど、港の人は岸と船のあいだを、せわしなく動いていた。


 岸には、船が何艘も並んでいた。


 木の船だ。


 帆を畳んだ、大きな船。


 私の知っている荷馬車とは、まるで違う大きさだった。


 荷馬車なら、人が四、五人と、荷をすこし。


 けれど、この船はその何十倍もの荷を、腹に飲み込めそうだった。


 船べりが、私の背丈よりもずっと高い。


 あれが、海を渡る乗り物か。


 私はその大きさを、首を反らせて見上げた。


 ナダが、その船の群れを見渡した。


 古い船乗りの目だ。


 一艘ずつ、舐めるように見ていく。


 船の腹の、木の継ぎ目。


 帆の、布の張り。


 船乗りたちの、立ち方。


 ナダの目が、それを読んでいた。


「あれは、だめだ」


 ナダが一艘を顎で示した。


「腹の継ぎ目が、ゆるんでる。あれは、沖で、水を吸う。乗ったら、戻れねえ」


 次の一艘を、見る。


「あれも、だめだ。船乗りの目が、死んでる。船は、いいが、乗ってる連中が、海を、なめてる。なめる連中の船は、いつか、沈む」


 ナダは、何艘も撥ねた。


 撥ねて、撥ねて、最後に一艘の前で止まった。


 古い船だ。


 けれど、木の継ぎ目が、きれいに詰まっている。


 帆は、繕いだらけだが、しっかり張れる。


 船乗りたちは、黙々と荷を積んでいた。


 海をなめていない、手つきだった。


「あれだ」


 ナダが、言った。


「古いが、まともだ。あの船乗りは、海を、知ってる。知ってる連中の船は、めったに、沈まねえ」


 私はナダの目を信じた。


 その船に、私たちは賭けることにした。


 ◆  ◇


 船賃の交渉は、私がした。


 ここからは、商いだ。


 値を測るのは、私の仕事だった。


 船主は、日に焼けた頑丈な男だった。


 隻腕の女が船賃を訊いてきたのを、訝しげに見た。


 けれど、私が銀を見せると、目の色が変わった。


 乗せるか、乗せないかではなく、いくらで乗せるかを、考えはじめた目だった。


 船主が、値を言った。


 三人と、わずかな荷で、その値だ。


 私は、すぐには頷かなかった。


 高いか、安いか。


 それを、測る。


 私には、海の相場が分からない。


 けれど、ナダが横で、ぼそりと言った。


「すこし、高えな。荷が、軽いんだ。もうすこし、引ける」


 私はその言葉を頼りに、値を削った。


 荷が軽いこと。


 三人とも、自分の食い扶持は自分で持っていること。


 手間を、かけさせないこと。


 それを並べて、値を引いた。


 船主は渋ったが、最後には頷く。


 相場を知る者と知らない者の差を、ナダが埋めてくれた。


 値が、決まった。


 船賃は、行きの分の革袋から出した。


 帰りの分の銀には、手をつけなかった。


 翌る朝、私たちは船に乗った。


 ヒナが荷を担いで、先に板を渡った。


 次に、ナダが杖をつきながら、ゆっくりと。


 最後に、私が樫の棒を支えに、板を渡った。


 足の下で、板がゆらりと揺れた。


 陸ではない揺れだ。


 海の上の、揺れだった。


 私はその揺れの上に、たったひとつの足の重さで立った。


 船の腹は、暗かった。


 荷を積む、ひんやりした室だ。


 私たちの寝床は、その室の隅、麻袋の上に布を敷いただけの、粗末なものだった。


 けれど、それで十分だった。


 盗賊の頃から、私は屋根の下より、こういう簡素な場所の方が性に合っている。


 穴の底で覚えた体は、固い床の上でないと、眠れなかった。


 甲板の上から、船乗りたちの足音が聞こえた。


 綱を、引く音。


 帆を、張る支度。


 海へ出る支度が、頭の上で進んでいた。


 私は寝床の隅で樫の棒を抱えて、その音を聞いていた。


 逃げ道の銀も、読めない帳面も、樫の棒も、身につけている。


 あとは、海が向こう岸まで運んでくれるのを、待つだけだった。


 まもなく、船はピヴレ・ロッホ海へ出る。

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