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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第21話「逃げ道の、銀」


 渡海の支度に、ひと月かかった。


 海を渡るのは、丘を下りるのとは違う。


 荷を担いで、街道を行くだけでは済まない。


 船を探し、船賃を測り、誰を連れていくかを決める。


 誰を村に残すかを決める。


 所帯を二つに割る支度だ。


 それをひとつずつ組んでいった。


 まず、誰が行くかを決めた。


 ナダが、行く。


 海路を知る者は、ナダしかいない。


 どの港から船が出るか、どの船乗りが信用できるか、どの海が荒れるか。


 それを知っているのは、村でナダだけだった。


 老いて、足はもう速くない。


 背も曲がっている。


 それでも、海のことになると、目に若い頃の鋭さが戻る。


 私はナダの目を、海の上でもう一度見たかった。


 ヒナも、行く。


 数えの後継だ。


 私の片腕だ。


 向こうの帳面を持たせれば、アズリアの値をその場で書き取れる。


 それに、ヒナは若く、力がある。


 私の一本の腕で足りないところを、ヒナの二本の腕が補う。


 隻腕の女が、一人で海を渡るのは無理だった。


 ガロは、村に残す。


 あの老いた鍛冶は、廃砦の火を守る。


 私たちが海を渡っているあいだも、村は回り続けなければならない。


 荷馬車が水を貰いに寄り、馬の蹄鉄を打ち替えに寄る。


 その商館を、誰かが守らなければ。


 ガロなら、それができた。


「火は、消さねえ」


 ガロは、それだけ言った。


 火を見たまま、私を見もしない。


 二十年、同じ言葉で朝が始まった男だ。


 私が海を渡っても、ガロは火を消さない。


 帰ってくる場所を守っていてくれる。


 それが、ガロの留守の守り方だった。


 ミラのことは、村に残すことにした。


 谷筋で拾った、まだ小さい子だ。


 海は、子供には危ない。


 長い船旅は、大人でもこたえる。


 村に残して、ガロに預ける。


 火を守る男のそばなら、ミラも寂しくはないだろう。


 私の目の届かないところに置く心細さは、あった。


 けれど、海の上の危険に晒すよりは、ましだった。


 行くのは、ナダと、ヒナと、ネネと、私。


 四人だ。


 ネネは治りの早い体を持つ。


 布でいつも体を隠している。


 見知らぬ土地では、その癖がかえって人目を引かぬ用心になる。


 四人なら、船賃も、宿代も、まだ抑えられる。


 人数が増えれば、銀は人数ぶん嵩む。


 船は、頭の数で賃を取る。


 宿も、頭の数で銀を取る。


 海を渡る商人は、まず身を軽くする。


 最小の人数で、最小の荷で、渡る。


 それが、海の上での生き延び方だった。


 荷も、選んだ。


 商いの荷は、向こうで要らない。


 アズリアは、物が溢れる国だ。


 本土の塩や鉄を持っていっても、買い叩かれるだけだろう。


 だから、荷は最小にした。


 道中の食い物。


 水。


 着替え。


 それから、ヒナの帳面と、墨と、筆。


 今度の渡海は、商いに行くのではない。


 見に行くのだ。


 だから、売る荷より書く道具の方が大事だった。


 水と、干した食い物は多めに積んだ。


 海の上では、水がいちばん大事になる。


 陸なら、川がある。


 井戸がある。


 けれど、海の上には、水がない。


 まわりは水だらけなのに、その水は塩辛くて、飲めない。


 水を切らせば、渇いて、死ぬ。


 だから、水は、多めに。


 穴の底で、私が最初に覚えた数も水だった。


 水ひとつ。


 海の上でも、それは変わらなかった。


 ◆  ◇


 ナダが海路を教えてくれた。


 火の輪のそばで、ナダは地に杖の先で線を引いた。


 北街道の、形だ。


 一本の長い線を引き、その先に海を描く。


 海は、線で囲んだ大きな空白だった。


「ここが、街道の、いちばん西の端だ」


 ナダの杖が、線の先を突いた。


「街道を西へ詰めていくと、海に、ぶつかる。そこに、港町がある。本土から、海の向こうへ渡る船は、みんな、そこから出る」


 その港町の名を、ナダは言った。


 私は、聞いたことのない名だった。


 私の世界の、外の名だ。


「そこから、ピヴレ・ロッホ海を、渡る」


 ピヴレ・ロッホ海。


 ナダが地に描いた空白の海に、名がついた。


 海に名があることさえ、私には新しかった。


 どの海が、どんな潮で、どんな風が吹くか。


 船乗りは、名で、覚える。


 ナダの頭の中には、その海の名がいくつも地図になって座っていた。


「ピヴレ・ロッホは、広い」


 ナダは、しわがれた声で続けた。


「順風なら、何日かで、渡れる。凪げば、もっとかかる。嵐に当たれば——当たらねえように、行くんだ。出る時季を、間違えなけりゃ、嵐には、めったに、当たらねえ」


 時季を、間違えない。


 それも、勘定だった。


 海には、渡っていい時季と、渡ってはいけない時季がある。


 嵐の多い時季を、避ける。


 風の向きが、海の向こうへ吹く時季を選ぶ。


 ナダは、その時季を知っていた。


 船乗りの暦が、ナダの頭の中にあった。


 陸のことは、私が決める。


 海のことは、ナダが決める。


 それで、いい。


「船は、どう、選ぶ」


 私が訊くと、ナダはにやりと笑った。


 歯の、欠けた口だ。


「そいつは、港で、おれが、見てやる。古い船乗りの目で。腐った船と、まともな船の見分けは、まだ、できる」


 陸では、ナダはただの曲がった年寄りだ。


 けれど、海では、ナダがいちばんの目になる。


 私はそれを頼もしく思った。


 ◆  ◇


 出る前の夜、私は銀を二つに分けた。


 行きの分と、帰りの分だ。


 帰りの分を革袋に入れ、口を固く縛って、懐のいちばん深いところにしまった。


 これには、何があっても手をつけない。


 向こうで儲け話があっても、誘いがあっても、この銀には触らない。


 これは、帰るための銀だ。


 逃げ道だ。


 逃げ道を、最初に確保する。


 それが、生き延びる者の掟だった。


 盗賊の頃、塒に飛び込む前に必ず逃げ道を確かめたのと、同じだ。


 逃げ道のない場所に、入るな。


 カラスの声が、いつもそう言った。


 樫の棒を、私は握り直した。


 握りの内側に、灰の字が刻んである。


 しまわれた名だ。


 海を渡っても、私はこれを手放さない。


 船が揺れれば、支えになる。


 それに、握りの灰の字は、私が誰であったかを、てのひらに思い出させる。


 名を立てずに、土地から土地へ、銀を回す女。


 海を渡っても、それは変わらない。


 懐には、もうひとつ、読めない帳面があった。


 カラスの遺品だ。


 薄い、読めない帳面。


 海を渡っても、これだけは置いていかなかった。


 なぜ持っていくのか、自分でもうまく言えない。


 読めもしないのに、捨てられない。


 胸の内側で、それはずっと温い。


 骨は、丘に納めた。


 けれど、これだけは納めずに、いつも連れていく。


 海の向こうにも、連れていく。


 明日、私たちは西へ向かう。


 街道の、いちばん西の端へ。


 そこから、ピヴレ・ロッホ海を渡る。


 麦の糸の、根元へ。


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