第21話「逃げ道の、銀」
渡海の支度に、ひと月かかった。
海を渡るのは、丘を下りるのとは違う。
荷を担いで、街道を行くだけでは済まない。
船を探し、船賃を測り、誰を連れていくかを決める。
誰を村に残すかを決める。
所帯を二つに割る支度だ。
それをひとつずつ組んでいった。
まず、誰が行くかを決めた。
ナダが、行く。
海路を知る者は、ナダしかいない。
どの港から船が出るか、どの船乗りが信用できるか、どの海が荒れるか。
それを知っているのは、村でナダだけだった。
老いて、足はもう速くない。
背も曲がっている。
それでも、海のことになると、目に若い頃の鋭さが戻る。
私はナダの目を、海の上でもう一度見たかった。
ヒナも、行く。
数えの後継だ。
私の片腕だ。
向こうの帳面を持たせれば、アズリアの値をその場で書き取れる。
それに、ヒナは若く、力がある。
私の一本の腕で足りないところを、ヒナの二本の腕が補う。
隻腕の女が、一人で海を渡るのは無理だった。
ガロは、村に残す。
あの老いた鍛冶は、廃砦の火を守る。
私たちが海を渡っているあいだも、村は回り続けなければならない。
荷馬車が水を貰いに寄り、馬の蹄鉄を打ち替えに寄る。
その商館を、誰かが守らなければ。
ガロなら、それができた。
「火は、消さねえ」
ガロは、それだけ言った。
火を見たまま、私を見もしない。
二十年、同じ言葉で朝が始まった男だ。
私が海を渡っても、ガロは火を消さない。
帰ってくる場所を守っていてくれる。
それが、ガロの留守の守り方だった。
ミラのことは、村に残すことにした。
谷筋で拾った、まだ小さい子だ。
海は、子供には危ない。
長い船旅は、大人でもこたえる。
村に残して、ガロに預ける。
火を守る男のそばなら、ミラも寂しくはないだろう。
私の目の届かないところに置く心細さは、あった。
けれど、海の上の危険に晒すよりは、ましだった。
行くのは、ナダと、ヒナと、ネネと、私。
四人だ。
ネネは治りの早い体を持つ。
布でいつも体を隠している。
見知らぬ土地では、その癖がかえって人目を引かぬ用心になる。
四人なら、船賃も、宿代も、まだ抑えられる。
人数が増えれば、銀は人数ぶん嵩む。
船は、頭の数で賃を取る。
宿も、頭の数で銀を取る。
海を渡る商人は、まず身を軽くする。
最小の人数で、最小の荷で、渡る。
それが、海の上での生き延び方だった。
荷も、選んだ。
商いの荷は、向こうで要らない。
アズリアは、物が溢れる国だ。
本土の塩や鉄を持っていっても、買い叩かれるだけだろう。
だから、荷は最小にした。
道中の食い物。
水。
着替え。
それから、ヒナの帳面と、墨と、筆。
今度の渡海は、商いに行くのではない。
見に行くのだ。
だから、売る荷より書く道具の方が大事だった。
水と、干した食い物は多めに積んだ。
海の上では、水がいちばん大事になる。
陸なら、川がある。
井戸がある。
けれど、海の上には、水がない。
まわりは水だらけなのに、その水は塩辛くて、飲めない。
水を切らせば、渇いて、死ぬ。
だから、水は、多めに。
穴の底で、私が最初に覚えた数も水だった。
水ひとつ。
海の上でも、それは変わらなかった。
◆ ◇
ナダが海路を教えてくれた。
火の輪のそばで、ナダは地に杖の先で線を引いた。
北街道の、形だ。
一本の長い線を引き、その先に海を描く。
海は、線で囲んだ大きな空白だった。
「ここが、街道の、いちばん西の端だ」
ナダの杖が、線の先を突いた。
「街道を西へ詰めていくと、海に、ぶつかる。そこに、港町がある。本土から、海の向こうへ渡る船は、みんな、そこから出る」
その港町の名を、ナダは言った。
私は、聞いたことのない名だった。
私の世界の、外の名だ。
「そこから、ピヴレ・ロッホ海を、渡る」
ピヴレ・ロッホ海。
ナダが地に描いた空白の海に、名がついた。
海に名があることさえ、私には新しかった。
どの海が、どんな潮で、どんな風が吹くか。
船乗りは、名で、覚える。
ナダの頭の中には、その海の名がいくつも地図になって座っていた。
「ピヴレ・ロッホは、広い」
ナダは、しわがれた声で続けた。
「順風なら、何日かで、渡れる。凪げば、もっとかかる。嵐に当たれば——当たらねえように、行くんだ。出る時季を、間違えなけりゃ、嵐には、めったに、当たらねえ」
時季を、間違えない。
それも、勘定だった。
海には、渡っていい時季と、渡ってはいけない時季がある。
嵐の多い時季を、避ける。
風の向きが、海の向こうへ吹く時季を選ぶ。
ナダは、その時季を知っていた。
船乗りの暦が、ナダの頭の中にあった。
陸のことは、私が決める。
海のことは、ナダが決める。
それで、いい。
「船は、どう、選ぶ」
私が訊くと、ナダはにやりと笑った。
歯の、欠けた口だ。
「そいつは、港で、おれが、見てやる。古い船乗りの目で。腐った船と、まともな船の見分けは、まだ、できる」
陸では、ナダはただの曲がった年寄りだ。
けれど、海では、ナダがいちばんの目になる。
私はそれを頼もしく思った。
◆ ◇
出る前の夜、私は銀を二つに分けた。
行きの分と、帰りの分だ。
帰りの分を革袋に入れ、口を固く縛って、懐のいちばん深いところにしまった。
これには、何があっても手をつけない。
向こうで儲け話があっても、誘いがあっても、この銀には触らない。
これは、帰るための銀だ。
逃げ道だ。
逃げ道を、最初に確保する。
それが、生き延びる者の掟だった。
盗賊の頃、塒に飛び込む前に必ず逃げ道を確かめたのと、同じだ。
逃げ道のない場所に、入るな。
カラスの声が、いつもそう言った。
樫の棒を、私は握り直した。
握りの内側に、灰の字が刻んである。
しまわれた名だ。
海を渡っても、私はこれを手放さない。
船が揺れれば、支えになる。
それに、握りの灰の字は、私が誰であったかを、てのひらに思い出させる。
名を立てずに、土地から土地へ、銀を回す女。
海を渡っても、それは変わらない。
懐には、もうひとつ、読めない帳面があった。
カラスの遺品だ。
薄い、読めない帳面。
海を渡っても、これだけは置いていかなかった。
なぜ持っていくのか、自分でもうまく言えない。
読めもしないのに、捨てられない。
胸の内側で、それはずっと温い。
骨は、丘に納めた。
けれど、これだけは納めずに、いつも連れていく。
海の向こうにも、連れていく。
明日、私たちは西へ向かう。
街道の、いちばん西の端へ。
そこから、ピヴレ・ロッホ海を渡る。
麦の糸の、根元へ。





