第20話「値をつける、あの国」
麦の流れを、私は遡ることにした。
オトカル男爵を断っても、谷筋の死人は減らなかった。男爵の倉を開け、囲っていた麦を市に流した。値はいっとき下がった。飢えた者が、その麦を買えるだけの値に。私はそれで終わったと思った。流れをせき止めていた手を断った。あとは、麦が人の口へ流れ込むだけだ、と。
けれど、ひと月もすると、値はまた、じりじりと上がりはじめた。
別の仲買が、別の倉から麦を握りはじめたのだ。男爵の倉が空になった場所に、すぐ次の手が伸びてくる。私が谷筋の歪みをひとつ正したそばから、誰かがそれをもとに戻していった。一人を断っても、流れそのものは変わらなかった。
駒を、ひとつ、弾いただけだった。
私が断ったのは、麦を握る手のひとつであって、麦を握らせている仕組みではなかった。仕組みは、男爵が死んでも回り続けていた。それを、私は丘の上で思い知った。
灰の村へ帰って、私はヒナの帳面を、もう一度繰った。
夜だった。火の輪のそばで、獣脂の灯りを引き寄せ、頁を、指でめくる。数の列が、灯りの中で、細かく震えて見えた。指を止めて、数を、ひとつずつ、目で追う。
向こうの帳面だ。誰でも読めるように、ヒナが書いた、世界の値の台帳。麦の値が、月を追って並んでいる。私は、その数を、谷筋だけでなく、もっと広く見渡してみた。谷筋の隣の領。そのまた隣。街道の、ずっと先。数を横に並べていくと、ひとつのことが見えてきた。
麦の値は、谷筋だけがおかしいのではなかった。
大陸のあちこちで、麦の値がおかしくなっていた。谷筋ほど、はっきりとではない。けれど、よく見れば、いくつもの土地で、麦の値が、季節を無視して、すこしずつ上を向いていた。まるで、大陸ぜんたいの麦が、見えない一本の糸で、上へ引っぱられているようだった。
私は、その糸を辿ろうとした。
糸を辿るには、麦が、どこから来て、どこへ行くかを知らなければならない。谷筋の麦は、市に流れる前に、二段の倉を通っていた。男爵の倉と、メルガーの倉。二段通るあいだに、値が上がった。
なら、その上に、三段目の倉が、あるのではないか。
男爵の麦は、どこから来たのか。領内の年貢だ、と思っていた。けれど、ヒナの帳面の数を突き合わせると、合わなかった。男爵が握っていた麦は、領内で穫れた量より多かった。足りない分は、どこかから買い足していた。男爵もまた、誰かから麦を仕入れていたのだ。
男爵の上に、もう一段、あった。
◆ ◇
私は、ナダに訊いた。
いちばんの年寄りだ。元は船乗りで、数えの祖でもある。どの港で何が高く、どの土地で何が安いかを、頭の中に、地図のように持っている。ナダなら、麦が、どこから流れてくるかを知っているはずだった。
「大陸の麦が、どこかから買い足されている」
私が言うと、ナダは、火の輪のそばで目を細めた。火明かりが、しわの深い顔を橙に照らしている。老いた船乗りは、しばらく何も言わなかった。それから、しわがれた声で、ぽつりと言った。
「大陸の中じゃ、ねえな」
「外、ということか」
ナダは、頷いた。
「大陸の麦が、足りねえなら、足りねえ土地同士で、奪い合いになる。値は、どこも似たように上がる。だが、お前の言う通り、大陸ぜんたいで、じわじわ上がってるってんなら——」
ナダは、言葉を切った。
「——大陸の外から、誰かが、麦を、流し込んで、握ってる」
その言葉が、私の中に落ちた。大陸の外。海の、向こう。これまで、私の世界は、北街道と、その周りだけだった。穴の底から、丘の上まで。その世界の外に、もうひとつ、世界がある。麦の糸の、根元が、そこにある。
「外に、何があるんだ」
私が訊くと、ナダは、火を見たまま答えた。
「海の向こうに、商いで立ってる国がある。アズリア、と呼ばれてる。物を作らねえ国だ。けど、世界中の物が、いったん、あの国を通る。麦も、塩も、鉄も。値をつけるのは、いつも、あの国だ」
値をつけるのは、いつも、あの国。
その言葉を、私は胸に刻んだ。谷筋の値を、誰がつけているのか。男爵ではなかった。男爵も、誰かから買って、その値に従っていただけだ。値をつける手は、もっと奥にある。海の、向こうに。
◆ ◇
行くかどうかを、私は、すぐには、決めなかった。
飛び込む前に、地形を見る。逃げ道を、確かめる。それが、私のやり方だった。カラスの声が、頭の奥で、そう言う。慎重すぎる、と笑われても、いい。慎重さが足りずに死んだ者なら、穴の底で、何人も見た。海を渡るのは、丘を下りるのとは、わけが違う。渡れば、帰ってこられないかもしれない。
私は、勘定をした。
海を渡るには、船賃が、いる。私と、連れと、荷の分。それだけの銀が、要る。アズリアで、宿に泊まれば、また銀が要る。言葉も、通じないかもしれない。商いの作法も、知らない。知らない土地で、隻腕の女が、一人、何ができる。下手をすれば、海の藻屑だ。
逃げ道は、あるか。
帰りの船賃を、別に取っておく。それが、逃げ道だった。その銀の縛り方は、出る前の夜に、決めればいい。
勘定をして、私は、決めた。
行く。麦の糸の、根元を、この目で見る。ヒナの帳面の数は、谷筋の歪みを、教えてくれた。けれど、数は、なぜ、その歪みが生まれたかまでは、教えてくれない。それは、実地に、見なければ、分からない。谷筋で、布の下に横たわっていた者たちが、なぜ死んだのか。その答えは、海の向こうに、ある。値をつける手が、そこに、ある。
私は、その手を、見に行くことにした。海を、渡って。





