第19話「量りに、行く」
男爵を断っても、死人は、減らなかった。
それを、私は、数日して、知った。男爵が断たれた、という噂は、土地に、広がった。慇懃な紳士が、寝台で、喉を突かれて死んでいた、と。誰が断ったかは、分からない、と。隻腕の女商人のことは、誰も、口にしなかった。私は、名乗らず、消えていた。通りすがりは、誰の記憶にも、名前を、残さなかった。
男爵が死ねば、麦が、市に、流れる。
私は、そう、思っていた。麦を握っていた手が、なくなれば。倉の扉が、開けば。麦が、市に、出れば。値が、下がる。下がれば、人が、買える。買えれば、飢えが、止まる。そう、思っていた。盗賊の目で。悪い手を断てば、悪いことは、止まる、と。
けれど、止まらなかった。
男爵の倉は、開かなかった。男爵が死んでも、扉は、閉じたままだ。男爵の跡を、誰かが、継いでいた。慇懃な紳士の跡継ぎが。あるいは、別の手が。倉の麦は、相変わらず、すこしずつしか、市に出ない。値も、下がらない。麦は、あるのに、人は、買えない。布の下の者は、また、増えていく。
メルガーも、変わらず、麦を、捌いていた。
仲買のコンラート・メルガーは、男爵が死んでも、商いを、やめない。男爵の倉の麦を、その跡継ぎから、相変わらず、仕入れる。それを、すこしずつ、高い値で、市に出す。男爵という、糸の根元を、私は、断ったはずだった。なのに、糸は、切れていない。麦は、二段の倉を、通り続ける。四倍の値で、飢えた者の前に、並び続ける。
駒を、断った。
けれど、盤は、回っていた。
◆ ◇
私は、火のそばで、それを、考えていた。
なぜ、男爵を断っても、飢えが、止まらないのか。男爵は、糸の根元だと、思っていた。領内の麦を握る、その手を断てば、麦が、流れると、思っていた。けれど、男爵は、根元ではなかった。男爵もまた、もっと大きな、何かの駒だった。
考えてみれば、おかしなことが、いくつも、ある。
男爵が死んでも、誰も、麦を、市に流さなかった。普通、領主が死ねば、跡継ぎは、まず、銀を、要り用とする。葬式の費用、相続の手続き、家を、固めるための銀。銀が要るなら、倉の麦を、市に出して、銀に換えるはずだ。けれど、誰も、そうしなかった。麦を、握り続ける、ということが、男爵一人の、欲では、なかったかのように。誰かが、麦を、出すな、と、言っているかのように。
メルガーも、おかしかった。
粉屋上がりの仲買が、いくつもの大倉を、麦で満たすには、それだけの銀が、いる。その銀は、どこから、来ているのか。男爵から、麦を仕入れる、その仕入れの銀。それを、メルガーは、どこから、出しているのか。粉屋上がりの蓄えでは、足りない。誰かが、メルガーに、銀を、貸している。麦を握るための銀を。
糸は、男爵で、終わっていなかった。
男爵の上に、メルガーに銀を貸す、別の手が、ある。麦を、出すなと、言う、別の手が。男爵もメルガーも、その手の、駒だ。私は、駒を、断った。けれど、盤を、動かしている手は、男爵の、もっと、上に、いる。
その手が、どこにいるか、私には、見えない。
数で、辿れる範囲を、辿る。メルガーの銀の出どころを、探る。けれど、糸は、ある所で、ぷつりと、途切れた。土地の外へ、続いている。この地方の外へ。この大陸の外へ。糸の根元は、海の向こうに、あるらしかった。私の辿れる範囲の外に。
◆ ◇
おかしい、と、私は、思った。
麦は、ある。倉も、ある。市も、ある。商いが、回っている。剣は、抜かれていない。鎖も、かかっていない。なのに、人が、飢えて、死んでいる。麦の前で。手を伸ばせば届く距離に、麦があるのに。値という、見えない刃で、土地の喉が、絞められている。
その刃を、握っている手を、断とうとした。
男爵を、断った。けれど、刃は、緩まなかった。男爵は、刃を、握っていただけだった。刃を、その手に、持たせている、別の手が、ある。男爵を断っても、刃は、別の手に、渡る。次の手が、握る。次の手を断っても、また、次の手が、握る。盤が、回り続ける限り、駒は、いくらでも、湧いてくる。
私が、断つべきは、駒ではなかった。
駒を、いくら、断っても、盤は、回る。断つべきは、盤だ。この麦の流れを、この値を、この飢えを、作り出している、盤そのもの。けれど、盤が、どこにあるか、私には、見えない。海の向こうに、ある気配だけが、あった。掴めない。手が、届かない。
それは、敗北だった。
けれど、絶望では、ない。私は、何かが、分かりかけていた。これまで、私は、世界を、剣で、見ていた。強い者が、奪い、弱い者が、奪われる。悪い手があれば、断てばいい。穴の底も、鎖切りの頃も、世界は、力で、回っていた。
けれど、この飢えは、力ではなかった。
誰も、剣を、抜いていない。誰も、罪を、犯していない。法に触れることは、何ひとつ、していない。慇懃な紳士が、礼儀正しく、土地の喉を、絞めていた。値という、見えない刃で。世界は、剣でなく、別の何かで、回っていた。麦の値で。銀の流れで。倉の扉の開け閉めで。私の知らない、別の仕組みで、人が、死んでいた。
その仕組みを、私は、知らなければならない。
断つだけでは、足りない。断つべき相手が、駒なのか、盤なのか。それを、見極めなければ、駒を断ち続けて、一生が、終わる。穴の底で、私は、ない、ということが人を殺すのを見た。鎖切りで、剣が人を殺すのを見た。そして、ここで、値が人を殺すのを、見た。
値が、人を、殺す。
なら、私は、その値を、量らなければならない。誰が、麦を握り、誰が、値をつけ、誰が、その値で、儲けているのか。糸を、海の向こうまで、辿らなければ。盤が、どこにあるかを、見極めるために。断つ前に、量る。飛び込む前に、地形を見る。カラスの声が、そう言う。
◆ ◇
私は、ミラを、見た。
子供は、火のそばで、眠っていた。一日、水と麦をやれば、子供の頬に、すこし、肉が、戻る。ミラの寝顔は、初めて街道で見たときより、岩から、遠ざかっていた。けれど、布の下の者たちは、遠ざけられなかった。私の手は、ひとつだけだ。荷台のぶんしか、運べない。一人を拾えば、次を、断らなければならない。
土地ぜんたいを、岩から遠ざけるには、駒を断つだけでは、足りない。
盤を、見極めなければ。値という刃を、握っている、本当の手を。それは、海の向こうに、いるらしかった。麦の糸を、辿った先に。私は、その糸を、海を越えて、辿ることに、決めた。
ナダに、海路を、訊こう、と思った。
ナダは、元、船乗りだ。海の値を知り、川の値を知り、どの港から、どこへ船が出るかを、頭の中の地図に、持っている。麦の糸が、海の向こうへ続くなら、その海を、渡らなければならない。物理の海を。穴の底で覚えた手では、海は、渡れない。剣では、海は、渡れない。海を渡るには、船と、海路と、海の向こうの値を、知る者の知恵が、いる。
私は、火を、見た。
残った左の目で。たったひとつの手を、火にかざして。怒りは、まだ、胸の底に、残っていた。男爵を断っても、消えなかった怒り。その怒りは、行き場を、探していた。断つ相手が、見えないからだ。盤が、見えないからだ。見えないものには、刃が、届かない。
刃が届かないなら、まず、量る。
量って、見極めて、それから、届く形を、探す。それが、商人の戦い方かもしれなかった。剣でなく、数で。力でなく、見極めで。私は、盗賊の目から、すこしずつ、別の目に、変わろうとしていた。断つ目から、量る目へ。それも、地味なことの積み重ねだろう。一度に、変わるのではない。
麦は、ある。なのに、人は、死ぬ。
値が、人を、殺す。
その殺す値の根は、海の向こうにあるらしかった。私の、辿れる範囲の、外に。だから、海を、渡る。断つためでは、ない。まだ、断てない。何を断てばいいのかも、分かっていない。だから、まず、量りに、行く。
誰が、麦を握り、誰が、値をつけ、誰が、その値で、人を殺しているのか。
その秤を、海の向こうで、合わせてくる。
量りに、行く。





