第18話「麦を、握る手」
翌る日から、私は、麦の流れを、数で、洗った。
商人の顔で、市を回った。麦を、誰が、いくらで、誰に売っているか。それを、辿る。塩や鉄を売りながら、ついでのように、麦の話を、訊いて回った。商人は、商人の話を、する。値の話、品の話、仲買の話。怪しまれずに、私は、麦の流れの糸口を、手繰っていった。
麦は、市の屋台に、並んでいる。
屋台の麦は、仲買から、来ていた。屋台の主に、麦を卸している、仲買がいる。その仲買を、辿った。麦の仲買は、何人か、いた。けれど、その土地で、麦をいちばん多く握っているのは、一人の男だった。
コンラート・メルガー、という名だった。
粉屋上がりの仲買だ。元は、麦を挽いて粉にする、小さな水車を持っていた。それが、いつのまにか、麦そのものを、買い集める仲買に、成り上がっていた。市の麦のほとんどは、メルガーの手を、通っていた。メルガーが、屋台に卸す。屋台が、人に売る。麦の値を、市で決めているのは、メルガーだった。
私は、メルガーの倉を、遠くから、見た。
市の外れに、大きな倉が、いくつも、並んでいた。新しい、頑丈な造りだ。扉には、太い閂が、かかっている。倉の前には、棒を持った男が、二人、立っていた。見張りだ。麦の倉に、見張りを立てる。それだけで、その倉に、何が詰まっているかが、分かる。閉じられた扉の向こうに、麦が、詰まっているはずだった。飢えた土地で、見張られている麦が。
メルガーの姿も、一度、見た。
でっぷりと太った、血色のいい男だった。飢えた者ばかりのこの土地で、その男だけが、肥えていた。飢えで稼ぐ者は、飢えない。倉の前で、見張りに、何か、指図していた。満足げな顔だ。倉の麦が、日に日に、高くなっていくのを、楽しんでいる顔だった。
市に出ているのは、ほんの一部だ。残りは、倉の中に、眠っている。出さずに、握っている。出さなければ、市の麦は、少ないままだ。少なければ、値は、上がる。値が上がれば、メルガーは、儲かる。日に日に、肥えていく。
単純な、仕組みだった。
麦を、握って、出さない。市に、すこしずつ、流す。少ししか流さなければ、値は、上がる。上がった値で、すこしずつ、売る。倉に詰まった麦は、出さないでいるだけで、日に日に、高くなる。手間も、いらない。剣も、いらない。ただ、扉を、閉じておくだけで、銀が、増える。飢えた者が、高い値で、買いにくる。買えない者は、死ぬ。死んでも、メルガーの倉の麦は、減らない。値が、上がるだけだ。
けれど、私は、そこで、止まらなかった。
◆ ◇
メルガーは、麦を、どこから、買っているのか。
粉屋上がりの仲買が、いくつもの大倉を、麦で満たせる、わけがない。それだけの麦を、買い集めるには、それだけの銀が、いる。メルガーは、銀を、どこから出しているのか。麦を、どこから、仕入れているのか。私は、もう一段、奥を、辿った。
数を、突き合わせた。
メルガーの倉に入る麦の量と、その地方で穫れる麦の量を、ヒナの帳面と、ナダの地図を頼りに、頭の中で、引き比べた。合わなかった。メルガーが握っている麦は、その地方の、農夫から買い集めただけでは、足りない量だ。もっと、大きな出どころが、ある。一人の地主が、まとめて、メルガーに、流している。
その出どころが、領主だった。
オトカル・フォン・ラーベンエック、という男爵だ。その地方を、治めている領主だった。領内の農夫から、年貢として、麦を取る。普通の年なら、その麦は、領主が暮らすぶんを除いて、市に流れる。流れて、人々の口に、入る。けれど、その年、男爵は、麦を、流さなかった。
年貢の麦を、倉に、囲った。
領内の麦を、根こそぎ、自分の倉に、集めた。そして、それを、市には出さず、メルガーに、流した。メルガーは、それを、すこしずつ、高い値で、市に出す。男爵の倉から、メルガーの倉へ。メルガーの倉から、市へ。麦は、二段の倉を、通っていた。通るたびに、値が、上がる。最後に、飢えた者が、四倍の値で、買う。
飢えで、稼ぐ仕組みだった。
男爵が、麦を握る。メルガーが、捌く。値が、上がる。人が、飢える。飢えた者が、高い値で、買う。買えない者は、死ぬ。死んでも、麦は、減らない。値が、上がるだけだ。男爵は、領主の権で、麦を集める。メルガーは、仲買の腕で、それを、捌く。二人で、土地の喉を、絞めていた。
糸を、辿った先に、男爵が、いた。
メルガーは、駒だった。麦を捌く、末端の手。糸の根元を、握っているのは、男爵だった。領内の麦を、ぜんぶ、握っている、その手。それを、断てば。
私は、まだ、剣の目で、世界を、見ていた。
◆ ◇
男爵のことを、私は、土地の者から、聞いた。
オトカル男爵は、慇懃な男だ、と、皆が言った。粗野な暴君では、ない。礼儀正しく、言葉が、丁寧だ。領内を回るときも、馬上から、人々に、にこやかに、頷く。むやみに、鞭を、振るわない。剣で、人を、斬らない。物腰の柔らかい、紳士だ、と。
けれど、その紳士が、領内の麦を、握って、人を、飢えさせていた。
年貢の取り立てだけは、容赦が、なかった、と土地の者は言った。
その年、刈り入れは、悪くなかった。麦は、穫れた。例年なら、年貢を納めても、農夫の手元に、冬を越すぶんは、残る。けれど、その年、男爵の取り立ては、いつもより、重かった。穫れた麦を、ほとんど、年貢として、持っていかれた。農夫の手元には、種籾と、わずかな食い扶持しか、残らなかった。それも、丁寧な言葉で、礼儀正しく、持っていかれた。鞭も、剣も、使わずに。証文を、見せて。法に則って。
持っていかれた麦が、男爵の倉に、積まれた。
農夫は、自分が育てた麦を、冬になって、市で、買い戻すことになった。四倍の値で。自分が、汗を流して育てた麦を。それが、買えない者は、飢えた。育てた者が、飢える。育てなかった者が、肥える。麦を、握る、というのは、そういうことだった。
「文句を、言う者は、いないのか」
私が訊くと、土地の者は、首を振った。
「言えやしねえ。男爵は、こう言うんだ。法に、触れることは、何ひとつ、しておらん、と」
法に、触れることは、何ひとつ、していない。
その言葉が、私の中に、引っかかった。男爵は、自分の倉に、自分の年貢の麦を、囲っている。それは、誰のものか。男爵のものだ。自分のものを、いつ、いくらで、売ろうと、それは、男爵の勝手だった。法は、それを、罰しない。麦を、出さないことは、罪ではない。値を、高くつけることも、罪ではない。
剣を抜けば、罪になる。鎖をかければ、罪になる。
けれど、扉を閉じておくことは、罪にならない。値をつけることは、罪にならない。男爵は、剣を抜かずに、鎖をかけずに、ただ、扉を閉じておくだけで、土地の喉を、絞めていた。そして、法に、触れていなかった。
慇懃な紳士が、礼儀正しく、人を、飢えさせていた。法の内側で。
獲物の掟に、男爵は、当てはまった。
奪うのは、人を売る側・穴へ送る側・数えから外す側だけ。それが、掟だった。商いの掟になっても、その根は、変わらない。男爵は、数えから外す側だった。麦の値で、土地ぜんたいの者を、買える者と買えない者に、分け、買えない者を、数えから、外していた。布の下に、外された者が、横たわっている。男爵は、その者たちを、人として、数えていなかった。値の、向こう側に、押しやっていた。
だから、断つ。それは、掟に、適っていた。
けれど、私は、すぐには、動かなかった。断つかどうかは、見てから、決める。飛び込む前に、地形を見る。逃げ道を、確かめる。相手の顔を、見る。それが、私のやり方だった。カラスの声が、そう言う。慎重すぎる、と笑われても、いい。慎重すぎて、死んだ者は、いない。慎重さが足りずに、死んだ者なら、穴の底で、何人も、見た。
私は、その紳士を、見に行くことにした。商人の顔で、男爵の館へ、向かった。
男爵の館は、丘の上に、あった。
立派な石の館だ。麦を囲った倉が、その裏手に、いくつも並んでいる。私は、商人として、館に、近づいた。塩を、鉄を、館に、売り込む口実で。館の者は、隻腕の女商人を、怪しまなかった。腕が一本ない、目が片方ない、樫の棒を突いた女だ。弱く、見えた。弱く見える者は、警戒されない。穴の底で、私は、それを覚えた。弱く見えることが、いちばんの、隠れ蓑だった。
私は、館の地形を、覚えた。
どこに、人がいるか。どこに、見張りがいるか。どの扉が、開いていて、どの扉が、閉じているか。逃げ道は、どこか。残った左の目で、館を、舐めるように、見た。カラスの声が、頭の奥で、言った。飛び込む前に、地形を見ろ。逃げ道のない場所に、入るな。私は、その声に、従った。
男爵を、一度、遠くから、見た。
慇懃な男、というのは、本当だった。庭で、館の者に、何か、指図していた。穏やかな声だ。にこやかに、頷いている。剣を、佩いてはいるが、抜く気配は、ない。物腰の柔らかい、紳士だった。その紳士が、領内の麦を、握って、土地の喉を、絞めている。庭で、にこやかに、頷きながら。
私は、その顔を、見ても、怒りを、感じなかった。
怒りは、もう、通り越していた。市の外れの布の下の者たちを、見たときから。麦の前で、立ち尽くした、痩せた女を、見たときから。ミラの街道の脇の虚ろな顔を、見たときから。怒りは、すこしずつ、私の中で、煮詰まって、煮詰まりすぎて、ある一点を、越えると、無表情に、なった。
顔が、能面に、なる。
タカハシ譲りの自制だった。あの男も、怒りが、ある一点を越えると、顔から、表情が、消えた。医者の目が、冷たく、なった。私も、そうだった。いちばん、怒っているとき、私の顔は、いちばん、動かなくなる。庭で、男爵を見ながら、私の顔は、能面だった。何も、出さなかった。出さないことが、いちばん、危ない。
断つ、と、私は、決めた。
◆ ◇
その夜を、待った。
断つなら、人目に、つかぬように。私は、公の場で、固有の名を、立てない。隻腕の女商人が、男爵を断ったと、知られてはならない。知られれば、追われる。名のない女が、名のないまま、消えなければならない。盗賊の頃、私たちは、通りすがりだった。名乗らず、現れ、奪い、消える。今夜も、私は、通りすがりだった。名乗らず、現れ、断ち、消える。
夜、男爵が、一人になる刻を、待った。
昼のうちに、覚えた地形を、頭の中で、辿った。館のいちばん奥に、男爵の部屋がある。夜更けには、見張りが、薄くなる。慇懃な紳士は、自分が、誰かに断たれるとは、思っていない。法に、触れることは、何ひとつ、していない。そう思っている者は、用心を、しない。用心しない者のふところに、入るのは、易しかった。
樫の棒は、握っていなかった。
樫の棒は、音を立てる。打つ棒だ。今夜は、打つのではない。断つのだ。私は、腰の短刀を、抜いた。たったひとつの手で、柄を、握る。三本の指と、親指で。穴の底で、ひとつ足りない手の使い方を、覚えた。短刀の握りも、その形だった。足りない手で、足りるように、握る。
男爵の部屋に、入った。
館は、寝静まっていた。廊の石が、足の裏に、冷たい。どこかで、燭の火が、ひとつ、揺れている。私は、その灯りを、避けて、影を、選んで進んだ。息を、殺して。足音を、殺して。穴の底で、死肉食らいの気配を避けたときと、同じ足の運びだ。慣れた運びだった。奪う夜も、こうやって、闇を、選んで進んだ。今夜も、闇を、選ぶ。
男爵は、寝台に、いた。眠っていた。慇懃な紳士の寝顔だった。穏やかな顔だ。土地の喉を絞めている男の顔とは、思えない、安らかな顔だった。法に触れていない者の、眠りは、深い。罪の意識がない。麦の前で死んだ者たちのことを、思い出しもせずに、眠っている。
私は、寝台の傍らに、立った。
男の寝息が、規則正しく、聞こえる。安らかな寝息だ。窓から、月の光が、細く、差し込んでいた。その光が、男爵の、穏やかな顔を、青白く、照らしている。土地の喉を絞めた手が、掛布の上に、無防備に、投げ出されていた。
◆ ◇
断つ、と決めても、私の手は、すぐには、動かなかった。
カラスのことを、思い出していた。
あの言葉のない男は、私に、断ち方を、教えた。けれど、すべてを、教えたわけではない。喉だけは、教えなかった。盗賊の頃、男の喉を、棒で突こうとした私を、カラスは、寸止めで、止める。男は、もう、カラスの手の中で、終わっていた。それでも、カラスは、私に、喉を、突かせない。断ち方は、教えても、喉だけは、教えない。あの男は、私を、初殺しから、遠ざけようとしていた。
喉を、突いたのは、その、あとだった。
別の夜、別の男を、私は、自分で、断つ。棒の先が、男の喉に、入る。カラスは、間に合わない。あの日、カラスが間に合った場所に、その日は、間に合わなかった。私は、初めて、自分で、人を、断った。震えは、こなかった。カラスは、初めて人を殺した夜、一晩、震えたという。私は、震えない。直後に、血を、ぬぐっていた。
慣れとは、恐ろしいものだ。
カラスが、板に、そう書いた言葉だ。あの男は、それを、知っていた。慣れることの、恐ろしさを。私は、その恐ろしさの内側にいる。人を断つことに、慣れた手を、持っている。震えない手を。
その手で、私は、男爵を、断った。
一突き。
短刀が、喉に、入った。深く。男爵の目が、開いた。何が起きたか、分からない顔だった。慇懃な紳士は、自分が断たれることを、最後まで、思っていなかった。声は、出なかった。喉を、突いたからだ。血が、出た。私は、刃を、引いた。男爵の体から、力が、抜けていった。すこしずつではない。速かった。剣で死ぬ者は、速い。一突きで、終わる。
男爵は、終わった。
断つ手が、冴えていた。
いつもより、冴えていた。なぜか、分からなかった。格上を、断ったからかもしれない。慇懃な紳士は、領主だった。私が、これまで断ってきた、どの相手よりも、上の格だった。上の格を断つと、手が、冴える。そういうものらしかった。理由は、言葉にできない。ただ、刃を引いた手が、いつもより、軽く、冴えていた。
私は、その冴えを、内側で、感じていた。
冴えを、感じる自分を、どこか、遠くから、見ていた。人を断って、手が冴えると感じる、その自分を。穴に捨てられた娘が、領主を断って、手が冴えると感じている。それは、奇妙なことだった。けれど、私は、その奇妙さを、立ち止まって、考えなかった。今は、消えることが、先だ。
血を、ぬぐった。
短刀を、収めた。男爵の部屋を、出た。来た道を、辿って、館を、出た。覚えた地形の通りに。逃げ道の通りに。見張りに、見つからずに。隻腕の女商人は、夜の闇に、紛れた。名乗らず、現れ、断ち、消えた。通りすがりとして。
◆◇
野営地に、戻った。
ミラは、眠っている。火が、まだ、熾火を残していた。私は、火のそばに、座る。たったひとつの手を、火に、かざす。手には、まだ、冴えの余韻が、残っている。震えは、ない。けれど、何かが、内側で、ゆっくり、動いていた。
怒りが、戻ってきた。
能面が、崩れる。男爵を断つまで、私の顔は、何も、出さなかった。出せば、手が、乱れる。乱れれば、しくじる。だから、対峙のあいだは、能面でいた。けれど、対峙が終わって、一人になると、煮詰まった怒りが、能面の裏から、溢れてくる。
私は、火を、見ていた。
慇懃な紳士の安らかな寝顔を、思い出した。法に触れることは何ひとつしていない、と言いながら、土地の喉を絞めていた男。その男を、私は、断つ。断って、すこし、楽に、なるかと思った。市の外れの布の下の者たちの仇を、討ったような気が、するかもしれない。
けれど、楽には、ならなかった。
怒りは、男爵を断っても、消えなかった。むしろ、行き場を、失った。断つ相手は、断った。なのに、胸の中の、煮詰まったものは、消えない。私は、火に、手をかざしたまま、しばらく、動かない。一人だ。ミラは、眠っている。誰も、見てはいない。
その夜、私は、一人で、怒りを、燃やした。
火が、爆ぜる音だけが、している。





