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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第17話「値という、刃」


 その土地に、麦は、あった。


 土地の中心の市に着いて、私は、それを見た。市は、立っていた。荷を売る者がいて、買う者がいる。商いが、回っている。麦の屋台も、ちゃんと、あった。麻袋に入った麦が、屋台の上に、山と積まれている。私は、その麦を、残った左の目で、見た。


 麦は、たっぷり、あった。


 飢えている土地に、麦がない、というなら、まだ分かる。不作で、麦が穫れず、倉が空で、だから人が飢える。それなら、話の筋が、通る。けれど、ここには、麦があった。屋台に山と積まれて、日に当たって、乾いた、いい色をしている。手に取れば、ずしりと重い、まっとうな麦だ。腐ってもいない。虫も食っていない。


 なのに、その屋台の前で、人が、買えずに、立っていた。


 痩せた女が、麦の屋台の前に立って、麦を、見ていた。手を伸ばさない。伸ばせない。値を、見ているのだ。屋台の隅に、値が、書いてある。その値を見て、女は、立ち尽くしていた。財布の中身と、麦の値を、頭の中で、引き比べている。引き比べても、足りない。だから、買えない。買えないまま、麦を、見ている。


 私は、屋台の男に、麦の値を、訊いた。


 男が言った値は、ヒナの帳面の通りだった。倍の、また倍。普通の麦の値の四倍に近い。それだけ出せば、塩なら一袋、鉄なら小刀が一本、買える値だ。それが、麦のひと升の値だった。痩せた女が、立ち尽くすのも、道理だった。その値では、買えない。


 私は、その痩せた女の背中を、見ていた。


 女は、しばらく立ち尽くして、やがて、手ぶらで、屋台を離れた。麦を、買わずに。買えずに。骨の浮いた背中が、人の波に、紛れていった。屋台の男は、その背中を、見送りもしなかった。買えない客は、客ではない。男は、次の買える客に、向き直った。山と積まれた麦は、買える者にだけ、売られていく。


 麦は、ある。市も、ある。倉も、きっと、ある。


 なのに、死人が、出ていた。


 市の外れに、布が、かけてあった。


 古い、汚れた布だ。その下に、何人かが、横たわっている。動かない。布の端から、痩せた足が、はみ出していた。骨に皮が貼りついた、子供の足だ。爪が、土の色をしている。誰かが、せめて、と布をかけたのだろう。けれど、布は、足を、隠しきれていなかった。市の喧騒の、すぐ脇で。麦の山のすぐそばで。麦を焼く、香ばしい匂いの流れてくる場所で。人が、飢えて、死んでいた。


 麦があるのに。麦の山が、すぐそこにあるのに。手を伸ばせば届く距離に、麦があるのに、それを買えずに、人が、死んでいた。


 市の音は、続いていた。


 値を、呼ばわる声。荷を、下ろす音。釣り銭の、鳴る音。子供の、はしゃぐ声。賑わいの音だ。その音のすぐ隣で、布の下の者たちは、音も立てずに、横たわっていた。賑わいは、死者を、よけて、流れていた。誰も、布の下を、見なかった。見れば、暮らしが、重くなる。だから、見ない。皆、麦を焼く匂いの方を、向いていた。


 私は、その布の前で、立ち止まった。


  ◆  ◇


 けれど、ここでは、麦が、ある。


 ある麦の前で、人が、死んでいる。物が、あるのに、死んでいる。手を伸ばせば、麦がある。けれど、その麦は、値の向こう側にある。


 値が、麦と人のあいだに、見えない壁を、立てていた。麦は、目の前にある。匂いも、する。けれど、買えない。買う銀が、ない。だから、麦は、その人のものには、ならない。値という、見えない壁が、麦と、飢えた人を、分けていた。剣でも、鎖でもない。値が、人を、麦から、引き離していた。


  ◆  ◇


 荷台で、ミラが、それを、見ていた。


 子供の目が、布の下の動かない者たちを、見ている。ミラは、何も言わなかった。ただ、見ていた。その子も、たぶん、同じものを、見てきたのだろう。家族が、こうやって、麦の前で、買えずに、死んでいくのを。だから、街道の脇に、一人で、座っていた。


 私は、荷馬車を、市の隅に止めた。


 荷台には、麦が、すこし、積んであった。ミラに食わせるためのわずかな麦だ。それを、市の飢えた者に、配ってしまおうか、と、一瞬、思った。布の下の死者を見た目には、そう思うのが、当たり前だった。けれど、私は、配らなかった。


 配れば、人が、群がる。


 荷台のわずかな麦に、飢えた者が、群がれば、奪い合いになる。奪い合いになれば、弱い者が、踏まれる。子供が、老人が、押しのけられて、麦は、いちばん強い者の口に入る。いちばん飢えている者には、回らない。それに、わずかな麦を配ったところで、土地ぜんたいの飢えは、一粒も、減らない。配った私は、満足するだろう。けれど、満足するのは、私だけだ。次の日には、麦は尽き、人はまた、飢える。


 配らないのは、冷たさでは、ない。


 商人は、まず、自分の荷を、守る。荷が、無事なら、次の土地でも、麦を運べる。荷を、群衆に奪われれば、次の土地の者も、飢える。穴の底で、私は、それを覚えた。今日、すべてを分ければ、明日、皆が死ぬ。今日、数えて分ければ、明日も、分けられる。


 だから、私は、商人の顔で、塩と鉄だけを、売った。


 麦は、荷台の奥に、隠したままだった。商人の顔で。けれど、頭は、別のところを、歩いていた。麦は、ある。市も、倉も、ある。なのに、死人が、出ている。なぜ。


 売りながら、私は、その問いを、握っていた。


 穴の底では、答えは、簡単だった。物が、ない。だから、死ぬ。けれど、ここでは、物があるのに、人が死ぬ。値という、見えない手が、麦を握り、人を、麦から引き離していた。


 その手を、私は、辿ってみることにした。


 値は、ひとりでに、上がるものではない。ナダが言った。流れを、誰かがせき止めている、と。物は、足りない場所で上がる。けれど、ここには物がある。物があるのに値が上がるなら、その値を、誰かが、作っている。麦を握って、わざと、出さない誰かが。


 誰が、麦を、握っているのか。


 私は、その手を、数で、辿ることにした。


  ◆  ◇


 その夜、私は、市の外れに、野営した。


 宿には、泊まらなかった。人数が増えれば、宿代も、人数ぶん、嵩む。一晩の宿代を惜しんで、土地の外れに荷馬車を止める。火を熾し、荷の陰で風をよけ、夜を過ごす。それが、私のやり方だった。盗賊の頃から、屋根の下より、空の下の方が、性に合っている。だから、その夜も、私は、土地の外れに荷馬車を止め、火を熾し、ミラと二人で、夜を過ごした。


 ミラに、麦の粥を、食わせた。


 荷から、麦を出して、鍋で炊いた。たっぷりとは、やらない。飢えた腹に、一度に多くを入れれば、かえって、体を壊す。穴の底で、それを覚えた。久しぶりに食う者は、すこしずつ、入れる。ミラは、最初、警戒して、ゆっくり食べた。それから、こらえきれずに、かき込んだ。私は、止めなかった。止めるべきだったが、その夜は、止めなかった。子供が、麦を食う音を、私は、火のそばで、聞いていた。


 すぐ近くに、麦があるのに、人が死ぬ土地で。


 私は、ミラに、麦を食わせていた。荷台に、麦があったからだ。私は、それを買える商人だったからだ。同じ土地で、買える者は食い、買えない者は死ぬ。その線の買える側に、私は、いた。商人として。それが、何か、ひどく、おかしなことのように、思えた。


  ◆  ◇


 火を見ながら、私は、穴の底のことを、思い出していた。


 あの冬、十二人が、ひと冬で、岩になった。雪が、穴の口をふさいだ。配給の籠が、下りてこなくなった。穴の底に、食う物が、なくなった。最初の何日かは、骨をしゃぶり、革をかじって、しのいだ。けれど、それも、尽きた。あとは、ただ、飢えていくだけだった。


 飢えていく者の順番が、あった。


 まず、いちばん弱い者から、動かなくなる。子供、老人、病んだ者。動かなくなると、次に、口を、きかなくなる。口をきかなくなると、目が、虚ろになる。虚ろになると、もう、長くない。あとは、横たわって、すこしずつ、冷えていく。手首が、岩の温度に、近づいていく。人は、最後に、岩になる。飲めない者から、順に、岩になっていった。


 穴の隅に、いつも誰かが、横たわっていた。


 昨日まで、口をきいていた者が、今日は、虚ろな目をしている。今日、虚ろな目をしていた者が、明日には、動かなくなる。その明日と、明後日のあいだに、その者は、岩になる。手首に触れると、石のように、冷たい。生きている者の手首は、温い。岩になった者の手首は、冷たい。あの冬、私は、何度も、隣の者の手首に、触れて、確かめた。温いか、冷たいか。冷たければ、その者は、もう、岩だった。


 触れた手首が、冷たかったとき、私の中で、何かが、すこしずつ、すり減っていった。


 あれは、剣で殺されたのとは、違う死に方だった。


 剣で死ぬ者は、速い。一突きで、終わる。血が出て、力が抜けて、それで、終わる。痛みは、あるが、短い。鎖切りの頃、私は、たくさんの死を見た。剣で、棒で、矢で、人が死ぬのを見た。速かった。荒く、速く、人は、死んだ。


 けれど、飢えで死ぬのは、遅い。


 遅くて、静かだ。叫ばない。暴れない。ただ、すこしずつ、火が、消えていくように、人が、消えていく。今日より明日、明日より明後日、すこしずつ、薄くなっていく。最後には、横たわったまま、息が、止まっている。いつ止まったのか、隣にいても、分からない。それくらい、静かだ。岩になるのに、音は、しない。


 市の外れの布の下の者たちも、そうやって、死んだのだろう。


 叫ばずに。暴れずに。麦の山のすぐそばで。すこしずつ、薄くなって、ある日、横たわったまま、岩になった。市は、賑わっていた。商いは、回っていた。その賑わいの脇で、音もなく、人が、岩になっていった。誰も、気づかないうちに。


 穴の底と、同じ死に方だった。


 ただ、穴の底では、物が、なかった。ここでは、物が、ある。同じ死に方なのに、原因が、違う。穴では、ない、ということが、人を殺した。ここでは、ある、のに、買えない、ということが、人を殺している。物がないのと、物が買えないのは、違う。けれど、死に方は、同じだった。痩せて、虚ろになって、静かに、岩になる。


 飢えは、剣より、静かに、人を殺す。


 そして、たぶん、剣より、たくさん、殺す。剣は、一度に一人だ。腕の届く範囲しか、殺せない。けれど、飢えは、土地ぜんたいを、一度に飢えさせる。麦の値を、上げるだけで。剣を一本も抜かずに。値という、見えない刃で、土地ぜんたいの喉を、ゆっくり、絞めていく。


  ◆  ◇


 火が、爆ぜた。


 ミラが、粥の鍋を、空にして、私の隣で、眠っていた。腹が、満ちると、子供は、すぐ眠る。穴の底でも、そうだった。水を飲み、わずかでも腹に入ると、子供は、眠った。眠っているあいだだけ、飢えを、忘れられた。ミラの寝顔は、まだ、岩から、遠かった。一日、水と麦をやれば、子供は、岩から、すこし、遠ざかる。


 一人だけは、遠ざけられた。


 けれど、布の下の者たちは、遠ざけられなかった。市の前で立ち尽くしていた、あの痩せた女も、遠ざけられないかもしれない。私の荷台には、麦がある。けれど、土地ぜんたいを、養うほどでは、ない。一人を拾えば、次を、断らなければならない。私は、ミラ一人を、岩から遠ざけた。それが、私に、できることの、すべてだった。


 万能の救い手には、なれない。


 その夜、私は、それを、思い知った。穴の底で、十二人を、救えなかったように。私は、目の前の一人を、拾うことしか、できない。土地ぜんたいを、救う手は、私には、ない。私の手は、ひとつだけだ。たったひとつの手で、運べるぶんしか、運べない。


 考えてみれば、おかしな話だった。


 私は、かつて、人から奪う側にいた。護送の列を襲い、銀を奪い、見張りを棒で打った。その奪う手が、いま、街道の脇の子供に、麦の粥を、食わせている。奪う手が、拾う手に、なった。けれど、拾える数は、一人だ。手は、ひとつしかないのだから、仕方がない、と。


 その言い訳を、私は、嫌った。


 仕方がない、で、片づけたくは、なかった。一人しか拾えないなら、せめて、なぜ、一人しか拾えない世界になっているのかを、知りたかった。麦は、あるのだ。土地ぜんたいを養うだけの麦が、倉に、詰まっている。なのに、人が、死んでいる。それは、仕方がない、ではない。誰かが、そうしているのだ。


 けれど、と、私は思った。


 飢えに、原因が、あるなら。


 誰かが、麦の流れを、せき止めているなら。そのせき止めている手を、取り除けば。値が、下がれば。麦が、買える値に、戻れば。土地ぜんたいの喉を、絞めている、その手を、断てば。私の、ひとつだけの手でも、一人ではなく、土地ぜんたいを、岩から、遠ざけられるかもしれない。


 私は、火を見ながら、その手を、探していた。


 麦を握っている、見えない手を。値という刃で、土地の喉を絞めている、その手を。それを、断てば。私は、まだ、剣で世界を見ていた。盗賊の目で。悪い手があるなら、断てばいい、と。その手を断てば、飢えは、止まる、と。


 その夜の私は、まだ、そう、思っていた。


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