第16話「拾う、という言葉」
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南東の谷筋の麦の値は、いつまでも、戻らなかった。
網が、その谷筋の歪みを見つけてから、季節が、ひとつ巡っていた。あの夜、手燭の火で照らした、面の上のたったひとつのおかしな点。麦が入って、値が上がる、説明のつかない点だ。あれから私は、ヒナの帳面に、その土地の麦価を、月を追って書かせ続けていた。普通、麦の値は、季節でゆっくり動く。秋の刈り入れの後は下がり、春の端境期に上がる。雨が少なければ上がり、豊作なら下がる。それが、麦の値の、いつもの呼吸だった。
けれど、その谷筋の麦価は、呼吸をしていなかった。
刈り入れの後も、下がらなかった。それどころか、上がり続けていた。秋を過ぎ、冬に入っても、上がる一方だ。ひと月で、倍になっていた。次のひと月で、また倍に。麦の値が、季節を無視して、天へ向かって伸びていた。
「天気が悪かったわけじゃ、ない」
ヒナが言った。各地の便りを、突き合わせている。
「その谷筋だけ、不作だったわけでもない。隣の領は、いつもの値だ。なのに、そこだけ、麦が、こんなに高い」
数が、合わなかった。
不作なら、隣の領も、似たように上がるはずだ。麦どころは、つながっている。一つの川筋で、一つの空の下で、麦は育つ。それが、その谷筋だけ、突出して高い。説明が、つかなかった。私は、ナダにも訊いた。老いた船乗りは、地に杖で線を引き、その土地の位置を確かめ、首をかしげた。
「値ってのは、足りねえ場所で、上がるもんだ」
ナダが、しわがれた声で言った。
「だが、隣が足りてて、そこだけ足りねえってのは、おかしい。物は、流れるもんだからな。隣に余ってりゃ、隣から流れ込んで、値は、平らになる。平らにならねえってことは——」
ナダは、そこで、言葉を切った。
「——誰かが、流れを、せき止めてる」
その言葉が、私の中に、引っかかった。流れを、せき止めている。誰かが。なぜ。私は、行ってみることにした。数だけでは、分からない。実地に、その土地を、この目で見なければ。盗賊の頃から、私はそうだった。飛び込む前に、地形を見る。逃げ道を確かめる。カラスの声が、そう言う。だから、行く前に、まず、見に行く。
「私が、行く」
ヒナが、ついて行くと言ったが、私は止めた。
「お前は、ここで、帳面を続けろ。何かあれば、数で分かるように」
ヒナは、不服そうだったが、頷いた。私は、荷馬車を一台、仕立てた。塩を積み、鉄を積み、商人として、その土地へ向かう。麦の高い土地へ、塩と鉄を売りに行く商人。それなら、怪しまれない。商人の顔で、私は、麦価の異常な地方へ、入っていった。
◆ ◇
その土地に近づくにつれ、街道が、静かになっていった。
荷馬車が、すれ違わない。普通、麦の高い土地には、麦を売りに来る商人で、街道が賑わうものだ。高く売れる場所には、物が集まる。それが、商いのいつもの流れだった。けれど、その街道には、麦を運ぶ荷馬車が、いなかった。逆だった。土地から、人が、出てきている。
歩いて、土地を離れていく人々と、すれ違った。
荷を背負い、子の手を引き、痩せた顔で、街道を、外へ向かって歩いている。一人ではない。何家族も。村ごと、出てきているようだった。誰も、口を、きかない。荷車の軋む音と、乾いた足音だけが、街道に、続いている。子供さえ、泣かなかった。泣く力も、ないのだ。飢えた列は、葬列のように、静かだった。私は、すれ違いざま、一人の男に声をかけた。
「どこへ、行く」
男は、私を、虚ろな目で見た。
「麦の、安い土地へ」
それだけ言って、また歩き出した。麦の安い土地へ。その土地には、麦がないのではない。麦はあるが、買えないのだ。買えないから、買える土地へ、歩いていく。麦を追って、人が流れている。逆向きに。物が動かない代わりに、人が、動いていた。
私は、その流れに逆らって、土地の中心へ、進んだ。
逆らう、というのは、奇妙な感じがした。皆が、出ていく。私だけが、入っていく。すれ違う者たちは、私を、不思議そうに見た。なぜ、わざわざ、この土地へ入っていくのか、という目だった。麦の安い土地から逃げてきた者には、麦の高い土地へ向かう商人が、正気には、見えなかったのだろう。
近づくほど、人の顔が、悪くなっていった。
頬がこけている。目が落ちくぼんでいる。子供の腹だけが、奇妙に膨れている。それは、私の知っている顔だった。穴の底で、飢えた者が、最後に見せる顔。岩になる前の人の顔だ。私は、その顔を、忘れたことがなかった。十二人が、ひと冬で、その顔になって、岩になった。痩せて、目が落ちて、子供の腹だけが膨れて。
すれ違う者の中にも、もう、長くない顔が、いくつもあった。
歩く力の尽きかけた者。子に背負われた、老人。背負われたまま、首が、力なく、揺れていた。私は、その者たちに、何も、しなかった。できなかった。荷台には、限りがある。すれ違うすべての者を、乗せることは、できない。乗せれば、荷台が、沈む。沈めば、誰も、運べなくなる。だから、私は、すれ違った。水も、やらずに。麦も、やらずに。見ただけで、通り過ぎた。
それを、私は、覚えている。
救えなかった顔は、忘れない。すれ違って、通り過ぎた、あの首の揺れていた老人も、いまも、私の数えの中にいる。数えても、減らない側の数だ。商人になっても、私は、すべてを、救う手は、持っていなかった。手は、ひとつだけだ。荷台のぶんしか、運べない。
街道の脇に、痩せた子供が、座り込んでいた。
◆ ◇
その子が、ミラだった。
名を知ったのは、後のことだ。その時はただ、街道の脇に、八つかそこらの女の子が、一人で座っていた。膝を抱えて、動かない。傍らに、誰もいない。大人がいない。子供が、一人で、街道の脇に、捨てられたように座っていた。
私は、荷馬車を止めた。
止めるべきだったかどうか、その時の私には、分からなかった。商人は、行く先々で、こういう子を、いくつも見る。一人を拾えば、次の村でも、その次の村でも、拾わなければならなくなる。荷台には、限りがある。私が運べる人数には、限りがある。万能の救い手には、なれない。誰かを拾えば、誰かを、拾えない。それを、私は、知っていた。
それでも、私は、荷馬車を止めた。
その子の顔が、穴の底で見た顔だったからだ。座り込んで、動かない。動く力が、もう、残っていない。あと一日、二日、放っておけば、岩になる顔だ。私は、たったひとつの手で、水の革袋を取った。荷馬車を下り、その子の前に、しゃがんだ。膝が、地面についた。
「水だ」
私は、革袋を、差し出した。
子供は、私を見た。私の片方しかない目を。一本しかない腕を。それから、水の革袋を見た。受け取らなかった。受け取る力も、ないのか。あるいは、見知らぬ者の水を、警戒したのか。私は、革袋の口を開けて、その子の唇に、近づけた。
ひとくち、飲んだ。
喉が、こくり、と動いた。それから、子供は、私の手から、革袋を奪うように取って、飲んだ。喉が、何度も動いた。飢えた者は、まず、水を欲しがる。腹が減る前に、喉が渇く。穴の底で、私が最初に覚えた数も、水だった。水ひとつ。それが、最初の数だった。
子供が、水を飲み終えて、私を見た。
「家族は」
私が訊くと、子供は、首を振った。
いない、ということだった。死んだのか、はぐれたのか、捨てられたのか。それは、訊かなかった。訊いても、変わらない。いない、という事実だけが、そこにあった。穴に捨てられた子が、街道に捨てられた子を、見ていた。私は、しばらく、その子を見ていた。
それから、荷台を、顎で示した。
「乗れ」
子供は、私の顔を、もう一度、見る。
「水と、麦が、ある」
その子が、ミラだった。私が、商人になってから、初めて、荷台に乗せた子供だった。一人を乗せれば、次を断らなければならない。それでも、その一人を、私は、乗せた。目の前の一人を、私は、拾った。
拾う、という言葉を、私は、また使っていた。
カラスが、私を拾ったように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





