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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第24話「渡りに、行く」

船が、港に、着いた。


 ドーヴェル・エラト、という名の港だ、とナダが教えてくれた。


 アズリアの、海の玄関。


 世界中の船が、ここに入る。


 私たちの船も、その群れの中に、滑り込んでいった。


 岸が、近づく。


 人の声が、戻ってくる。


 船べりから、私はその港を見た。


 港は、本土のどの港よりも大きかった。


 石で固めた長い岸壁が、どこまでも続いていた。


 本土の港は、土と木の杭だった。


 ここは、石だ。


 きれいに切った石を積んで、海を押し返している。


 その岸壁に、船が何十艘も並んで繋がれていた。


 帆柱が、林のように立っている。


 荷を上げ下ろしする音、滑車の軋む音、人の呼ばわる声。


 すべてが、本土の何倍もの大きさだった。


 私はしばらく、それを見ていた。


 たったひとつの目で、追いきれない。


 これほど大きな港が、あるのか。


 これほど多くの船が、これほど多くの荷が動いているのか。


 私の世界は、北街道と、その周りだけだ。


 その世界が、いま、ひどく小さく思えてくる。


 ◆  ◇


 板を渡って、私はアズリアの石畳に足をつけた。


 久しぶりの、揺れない地面だ。


 海の上で揺れに慣れた体は、陸に上がってもまだ揺れていると感じる。


 私は樫の棒を地に突いて、その揺れをやり過ごす。


 やがて、地面が止まる。


 確かな、石の地面だった。


 石畳を踏んで、私は町へ入った。


 町は、人で溢れている。


 肌の色も、髪の色も、本土とは違う者がいる。


 聞いたことのない言葉が、飛び交っている。


 流れるような、別の言葉だ。


 市が、立っていた。


 けれど、谷筋の市とは比べものにならない大きさだった。


 屋台が、どこまでも続いていた。


 布。


 香料。


 葡萄酒。


 果物。


 私の見たことのない物が、山と積まれていた。


 色とりどりの布が、風に揺れている。


 香料の、嗅いだことのない甘い匂いが漂っている。


 豊かだった。


 私はその豊かさを、面で見た。


 点ではなく、面で。


 本土でも、豊かな宿場は、あった。


 けれど、それは、点だった。


 豊かな宿場が、ひとつ、貧しい村が、いくつも。


 点と点のあいだに、貧しさが広がっていた。


 けれど、ここは、違った。


 見渡すかぎり、豊かだった。


 一点が豊かなのではない。


 町ぜんたいが、面で豊かだった。


 奪われた者の目で、私はそれを見た。


 穴の底では、足りないことが当たり前だった。


 世界は足りないものでできていて、奪い合うほどしか物がないのだと思っていた。


 けれど、ここには溢れるほど物があった。


 誰も、それを奪い合っていなかった。


 買い、売り、運び、また買う。


 物が、面で、回っていた。


 屋台の上で、麦の餅が焼かれていた。


 香ばしい匂いが、立っている。


 子供がその餅をひとつ買ってもらって、頬張る。


 そばで、女が果物を籠ごと買っていく。


 男が葡萄酒を量り売りで革袋に注がせている。


 みな、当たり前のように物を買う。


 当たり前のように、食べる。


 穴の底で、私はひとくちの食い物を奪い合う者を見た。


 骨を、しゃぶり合う。


 革を、かじり合う。


 最後の一杯の水をめぐって、岩になった隣の者の口元を探る。


 あれが、私の知っている食い物の在り方だった。


 けれど、ここでは子供が麦の餅を奪い合わずに、頬張っている。


 当たり前に。


 私はそれに圧倒された。


 ◆  ◇


 町には、青が満ちていた。


 商人たちが、青い印の入った何かを身につけている。


 荷には、青い印の札が貼ってある。


 両替商の店先には、青印グロスが、積まれている。


 倉庫町の名を記した、青い印の港札が行き交う。


 船の上で海商に見せられた、あの青い印が町ぜんたいに満ちていた。


 青は、信用の色だった。


 青印があれば、銀は疑われない。


 青い港札があれば、紙が、銀になる。


 看板の青、布の青、印の青。


 両替商の暖簾も、荷を検める役人の腕の布も、商館の戸口の上に垂れる旗も、青だった。


 剣の灰色でも、血の赤でもない。


 この町を、立たせているのは、青だった。


 冷たく、整った、青。


 本土の町を立たせているのは、剣と祈りの色だった。


 領主の旗の色。


 祈りを司る者の、聖別の色。


 けれど、この町には剣の気配が薄い。


 兵の姿が、少ない。


 代わりに、青が満ちている。


 剣でなく、青が。


 力でなく、信用が。


 この町を、束ねていた。


 同じ人の世なのに、町を立たせている柱が違っていた。


 なぜか、その青が私の中の何かを、かすかに震わせた。


 理由は、分からない。


 青を見ると、胸の奥の方がざわつく。


 懐かしいような、痛いような、おかしな感じだ。


 見たことのない町の、見たことのない色なのに、どこかで知っているような気がする。


 けれど、それが何なのかは分からなかった。


 私はその震えを、深くは追わない。


 気のせいだろう、と思った。


 海の揺れがまだ体に残っているのだ、と。


 値をつける国。


 信用で立つ国。


 麦の糸の、根元の国。


 その入口に、私は立っていた。


 けれど、奪われた者の目は豊かさを見ても、浮かれない。


 むしろ、警戒した。


 これほど豊かな町に、なぜ本土の谷筋では人が死んでいたのか。


 値をつける手がこの豊かな町にあるのなら、豊かさの裏に、その手は隠れているはずだった。


 ◆  ◇


 市の賑わいから、私は一本横の路地へ入った。


 宿を、探していた。


 安い宿は、たいてい賑わいから外れた、裏の路地にある。


 盗賊の頃から、私は表通りより裏の道を好んだ。


 裏の道には、その町の本当の顔がある。


 表は、繕われている。


 裏は、繕われていない。


 私は、繕われていない方を見たかった。


 路地に入ると、音がすこし遠くなった。


 市の、呼ばわる声。


 荷の、軋む音。


 賑わいの音が、壁ひとつ隔てて、すこしくぐもった。


 路地は、狭く、薄暗かった。


 表通りの石畳とは違う、汚れた石が敷いてある。


 壁の下に、ごみが溜まっていた。


 表の豊かさが、ここには届いていなかった。


 その路地の奥に、人が横たわっていた。


 最初、私は酔っ払いか、と思った。


 賑わいの町には、酔って路地に倒れる者もいる。


 けれど、近づくと、違った。


 その人は、動かなかった。


 痩せていた。


 頬が、こけている。


 目が、落ちくぼんでいる。


 それは、私の知っている顔だった。


 穴の底で見た顔だ。


 岩になる前の、人の顔。


 痩せて、目が落ちて、もう動かない。


 十二人がひと冬でその顔になって、岩になった。


 谷筋の市の外れで、布の下に横たわっていた者たちも、その顔だった。


 私はその顔を忘れたことがなかった。


 どこへ行っても、その顔だけはすぐに分かる。


 飢えて、死んでいた。


 手を、伸ばしてみた。


 手首に、触れる。


 たったひとつの手の、三本の指で。


 冷たかった。


 岩の温度だった。


 生きている者の手首は、温い。


 岩になった者の手首は、冷たい。


 穴の底で、何度も確かめた。


 温いか、冷たいか。


 この手首は、冷たかった。


 もう、岩だった。


 私はしばらく、その手首に触れていた。


 ◆  ◇


 顔を、上げた。


 路地の口のすぐ向こうに、市の賑わいが見えた。


 色とりどりの布。


 山と積まれた、果物。


 葡萄酒の、樽。


 香料の、甘い匂い。


 豊かさが、面で溢れていた。


 その豊かさのすぐ脇の薄暗い路地で、人が、飢えて、死んでいた。


 谷筋と、同じだった。


 豊かさと飢えが、壁ひとつ隔てて隣り合っていた。


 海を、渡ってきた。


 麦の糸の、根元を辿って。


 値をつける、その手を見るために。


 そこで待っていたのは、谷筋と同じ光景だった。


 豊かな市のすぐ脇で、飢えた者が岩になっている。


 いや、谷筋よりなおひどかった。


 谷筋は、麦の値がおかしかっただけだ。


 けれど、ここはこれほど豊かなのに、人が死んでいた。


 なぜ、死ぬのか。


 市は、賑わっている。


 物が、ないわけではない。


 ありすぎるほど、ある。


 ありすぎるほど物がある町で、なぜ、人が飢えるのか。


 穴の底では、物が、なかった。


 だから、死んだ。


 それは、分かる。


 けれど、ここは溢れる物のすぐ脇で、人が死んでいる。


 私はその問いを握った。


 穴の底で、答えは簡単だった。


 物が、ない。


 だから、死ぬ。


 谷筋で、答えはすこし難しくなった。


 物は、ある。


 けれど、値が、高い。


 だから、買えずに、死ぬ。


 そして、ここでは——物は、溢れている。


 なのに、死ぬ。


 その死には、谷筋よりもっと奥の別の仕組みが働いていた。


 豊かさが面である町で、人を飢えさせる仕組みが。


 ◆  ◇


 ナダとヒナが、路地の口に立っている。


 二人も、横たわった者を見ていた。


 ヒナは、何も言わなかった。


 ただ、見ていた。


 その目に、谷筋で見た、あの困惑が戻っていた。


 豊かな町に、餓死体。


 数が、合わない。


 値も、量も書けるが、なぜ豊かな町で人が死ぬのかは、ヒナの帳面には書けなかった。


 ナダが、しわがれた声で言った。


「ここが、麦の値を、つける国だ」


 値を、つける国。


 その国の玄関の路地で、人が、飢えて、死んでいた。


 値をつける手は、この国にある。


 谷筋の麦を、男爵を、メルガーを、動かしていた手。


 その手の根元が、この国のどこかにある。


 豊かな市の賑わいの、奥に。


 青が満ちる町の、その奥に。


 私は、立ち上がった。


 手首の冷たさが、まだてのひらに残っていた。


 その冷たさを握りしめたまま、私は路地の口の向こうを見た。


 市の賑わいの、さらに奥。


 商館の立ち並ぶ、町の中心。


 値をつける手は、そこにある。


 豊かさの面の、その下に人を飢えさせる仕組みが隠れている。


 それを見に行かなければならなかった。


 海を渡ったのは、ここで終わりではなかった。


 麦の糸の根元は、この港町ではなく、もっと奥の、青の都に、ある。


 私は、そこへ行かなければならない。


 豊かさの裏を、見るために。


 人がなぜ死ぬのかを、知るために。


 路地の餓死体に、私は最後にもう一度、目をやった。


 穴の底の顔。


 谷筋の顔。


 そして、この豊かな国の、玄関の顔。


 同じ顔が、世界のどこにでもあった。


 海を渡っても、消えなかった。


 むしろ、豊かな国ほど、その顔は奥に隠されていた。


 表の賑わいに、隠されて。


 その手を断とう、と私は一瞬思った。


 けれど、すぐにその思いを抑えた。


 谷筋では、男爵を断っても、死人は減らなかった。


 駒を弾いても、盤は回った。


 ここでは、何を断てばいいのか。


 それは、まだ見えなかった。


 だから、まず、見に行く。


 飛び込む前に、地形を見る。


 逃げ道を、確かめる。


 値をつける、その仕組みをこの目で見てから、決める。


 豊かさの裏の、青の都へ。


 樫の棒を地に突いて、私は歩きだした。


 ヒナが荷を担いで、続く。


 ナダが杖をついて、続く。


 三人で玄関の路地を抜けて、町の奥へ向かった。


 賑わいの中へ。


 物が溢れ、青が満ちる、その奥へ。


 豊かさと飢えが隣り合う、都の中心へ。


 海を、渡ってきた。


 奪われた者が、世界の豊かさを初めて面で見た。


 そして、その豊かさのすぐ裏で、人が、飢えて、死んでいた。


 なぜ、死ぬのか。


 その問いを握ったまま、私は青の都へ向かう。


 渡りに、行く。

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