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灰のレン  作者: K3


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第3話 後編「医者の魂」(一)


 扉を、閉めた。


 扉の向こうに、二年の夜。


 その夜を、俺は振り返らなかった。


 振り返れば、戻ってしまう。


 街道は、明けの薄い光の中に伸びていた。


 その上に、俺の足音。


 二年で覚えた、規律の足音だった。


 その規律を、俺は崩さない。


 崩せば、また消える。


 歩きながら、俺は思った。


 ——書けなくなったあの名前を、俺はもう一度、書けるのか。


 問いに、答えはなかった。


 答えはないが、足は止まらない。


 背中の袋は、軽い。


 二年のほとんどを、山小屋に置いてきたからだ。


 置いてきたというより、捨てた。


 捨てた、とは思っていない。


 捨てる勇気が、まだなかった。


  ◆


 しばらく、歩いた。


 どれくらい歩いたか、俺にはわからない。


 太陽が、まだ低かったからだ。


 街道の脇に、何か見えた。


 それは、遠い。


 近づくか見送るか、俺は判定した。


 結果は、近づく。


 見送れば、後悔する。


 二年で、それを知った。


 見送って後悔したものは、二つ。


 ひとつは、二年前の商人。


 ひとつは、五歳の女の子。


 二つとも、もう見送らない。


 そう決めた時から、見送らない自分のふりをしてきた。


 ふりは、二年続いている。


 足を、進めた。


 その先で、物体の形が見え始めた。


 形は、丸まっている。


 動物だろう、と最初は思った。


 俺は、警戒を強めた。


 動物でも、生きていれば襲ってくる。


  ◆


 近づいた距離で、俺は見た。


 それは、動物ではなかった。


 毛が、なかったからだ。


 毛の代わりに、布。


 布の色は、もうわからない。


 土と血で、覆われていた。


 ——人、だ。


 人なら、二年で何度も見ている。


 だが、この人は違った。


 人の、大きさが小さい。


 人、だ。子供、だ。女の子、だ。


 ——子供、だ。


 子供は、丸まっていた。


 丸まった背中の向こうに、髪。


 髪は、灰色。


 土がついているのでは、ない。


 元の色だ。


 元の色が灰色の子供を、俺は初めて見た。






 人、だ。


 子供、だ。


 女の子、だ。






 見たことが、俺の足を止めた。


 俺は、もう警戒を解いていた。


 子供が、動かない。


 眠っているか、死んでいるか。


 二つに、ひとつ。


 どちらか、俺は近づいて確かめた。


 ——女の子、だ。


  ◆


 子の顔は、土と血で汚れていた。


 汚れた顔の片側に、瞼がない。


 瞼の下に、眼球もない。


 眼窩が、陥没している。


 その縁は、皮膚で覆われていた。


 傷が、古い。


 数年は、経って見える。


 医者の目が、判定した。


 ——眼球摘出、術後数年。


 判定は、自動的に出た。


 止められなかった。


 二年止めていた働きを、頭が思い出したからだ。


 子の左の腕が、ない。


 上腕骨の中央あたりで、切られた跡。


 その跡は、古く見える。


 皮膚が、断端を覆っている。


 慣れた医師の仕事では、ない。


 慣れていない誰かが、必死で切った跡だった。


 子の右の手を、俺は見た。


 右の手は、ある。


 あるが、指が足りない。


 人差し指が、ない。


 中手骨も、欠けている。


 欠け方は、左腕と同じ。


 慣れていない誰かが、必死でやった跡だ。


 子の背中の布が、ずれていた。


 その下に、皮膚。


 皮膚に、二つの跡。


 跡は、円形だった。


 円形の、その形を俺は知っていた。


 現地に来てから、何度か見ている。


 ——烙印。


 奴隷の印だ。


 二重に押された、奴隷の印。


 ——脇腹。


 脇腹に、別の傷があった。


 それは、新しい。


 まだ、血が滲んでいる。


 滲んだ血の周りが、赤黒く変色していた。


 変色は、毒だ。


 毒の特定は、できない。


 できないが、抜く処置は知っている。


 知っている、というのは、忘れていない、ということだ。


  ◆


 子の首に、俺は指を当てた。


 その指で、脈を探す。


 指の先に、脈。


 脈は、弱い。


 弱いが、ある。


  ◆


 ——ある。


 俺の頭の奥で、誰かの声が響いた。


 その声を、俺は知っていた。


 ジューラの声だ。


 二年前の夜、ジューラが俺に教えた音。


 ——縦線が、あれば、「ある」。


 ——縦線を、消せば、「ない」。


 いま、この子の首の指の下に、縦線があった。


 縦線は、脈だ。


 ——この子は、まだ、ある。






 首の下に、縦線が、あった。


 縦線は、脈だ。


 この子は、まだ、ある。






 思った瞬間に、俺の手が動いた。


 動いたのは、俺の意志ではない。


 意志ではないが、手は覚えている。


 二年封印してきた、診る動作だった。


 ——覚えていた、というのは、忘れていなかった、ということだ。


 忘れていなかった自分が、ここにいた。


 その自分の名前を、俺は書けない。


 書けないが、その男はいる。


 いる男が、いま俺の手を動かしていた。


  ◆


 その手で、子の瞳孔を見た。


 片側だけ残った瞳孔は、対光反射が鈍い。


 鈍いが、ある。


 子の呼吸を、聞いた。


 呼吸は、浅く速い。


 速いが、ある。


 子の皮膚を、触った。


 皮膚は、冷たい。


 冷たいが、まだ生きている。


 全部の判定を、俺は頭の中で並べた。


 それが、ひとつの結論を出す。


 ——傷の、深さ。


 ——毒の、回り。


 ——出血の、量。


 ——栄養の、欠如。


 合わせて出る結論は、ひとつ。


 ——死んでいる、はずの、子供だ。


 死んでいないのは、なぜかわからない。


 医学では、説明がつかない。


 医学を超えた何かが、この子を生かしていた。


 その何かを、俺は知らない。


 知らないが、感じた。


 感じた何かは、子の体の奥にある。


 奥にあるものが何なのか、いまはわからない。


 わからないが、それがこの子を生かしている。






 死んでいる、はずの、子供だ。


 医学を超えた何かが、この子を、生かしていた。






  ◆◇


 抱き上げた。


 その体は、軽い。


 骨が、浮いている。


 浮いた骨を、俺は布の上から感じた。


 感じながら、歩いた。


 向かう先は、捨てたはずの山小屋。


 捨てなかったその小屋を、俺は戻る場所として使うことになる。


 俺の選択では、ない。


 選択ではないが、俺の手が選んでいた。


 俺の、選択では、なかった。


 選んだのは、二年、書けなかった、男、だった。


 子は、俺の肩に頭を預けている。


 その灰色の髪が、俺の首筋に触れた。


 髪は、土と汗の匂い。


 匂いの奥に、別の匂い。


 その匂いを、俺は知っていた。


 医者として、何度か嗅いだ匂い。


 ——血と、絶望の匂い。


 そんな匂いを、俺は子の髪から嗅いだ。


 嗅ぎながら、足を速めた。

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