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灰のレン  作者: K3


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第3話 前編「カラスの二年」(三)


 一年で、俺の名前は、半分しか書けなくなった。


 一年目のある朝、俺はいつものように座る。


 座って、白い石を握った。


 握って、書く。


 ト̵カ̵ハ̵


 タが、トになっていた。


 なっていたのを、俺は書いた後で気づいた。


 気づいた俺は、書き直そうとする。


 だが、指が止まる。


 止まった指は、震えない。


 震えない指の先で、俺はもうタが書けないことを知った。


 知っていたが、その朝に初めて認めた。


 ——タは、書けない。


 書けないのは、思い出せないからだ。


 二年書いてきた文字が、書く度に少しずつ薄れていった。


 薄れたのは、毎朝消したからだ。


 消さないと、明日に起きられない。


 書き直さなかった。


 書き直す力は、なかった。


 かわりに書いたのは——


 ——カラス。


 こちらは、書けた。


 濃く、書けた。


 その名前が、いまの俺の名前だからだ。


 書いた手の温度が、変わっている。


 それを、俺は感じた。


 感じたことが、いちばん苦しかった。


  ◆


 二年目のある朝、俺は書いた。


 十̶カ̶


 タが、十になっていた。


 ハが、消えていた。


 消えたのは、俺の意志ではない。


 意志ではないが、止められなかった。


 その朝に俺が、止める力をもう持っていなかったからだ。


 書いた二つの文字を、俺は見つめた。


 板の上で、十は墓標のように立っている。






 タが、十になった。


 十は、墓標のように、立っている。






 墓標は、二年前の俺の知っていた字。


 知っていたが、ここではないはず。


 ないはずの字が、俺の書いた文字の中で立っていた。


 消した。


 消したのは、消さないと、その墓標が俺を見続けるからだった。


  ◆


 二年目のある夕方の襲撃のことを、書く。


 書かなければ、後でまた忘れるからだ。


 街道に、馬車が一台走っていた。


 馬車を、五人で襲った。


 俺を含めた、五人。


 御者を、ヤナが倒す。


 商人を、ボロが倒した。


 倒した商人の後ろから、女と子供が出てきた。


 子供は、女の子。


 五歳か、六歳か、その辺。


 髪は、二本結び。


 服は、青い麻。


 足は、裸足。


 裸足の足の裏に、土がこびりついている。


 女を、ヤナが斬った。


 斬られた女は、声を出さない。


 倒れた女の脇で、女の子は母の服の裾を握っていた。


 握ったまま、女の子は俺を見た。


 見られた俺の中で、何かが起きた。


 起きたのは、俺の奥にいた誰か。


 その誰かを、俺は知っていた。


 知っていたが、その名前はもう俺の手では書けない。


 書けない名前の男が、起きた。


 起きた男は、何も言わない。


 言わないが、俺の剣は振られない。


 ボロの剣が、振られた。


 振られた剣の向こうで、女の子の二本結びが傾いた。


 傾いた頭の足元に、青い麻の服が落ちた。


 落ちた服を、俺は見なかった。


 見なかったのは、見たら、俺がここで何かをするからだ。


 それは、二年ためてきたふりを全部捨てること。


 捨てれば、俺はその場でボロに斬られる。


 俺は、その場で何もしなかった。


 しなかったことが、その夜に俺を眠らせなかった。


  ◆


 眠れなかった夜、俺は酒を飲んだ。


 仲間が隠していた、安い麦酒。


 飲んでも、酔わない。


 体の強化の、せいだ。


 酔えない自分が、その夜はいちばんつらかった。


 夜明け前に、俺は黒い板を出した。


 その上で、白い石を握る。


 その石を、俺はゆっくり動かした。


 書こうとしたのは、二年書いてきた名前。


 書いたのは——


 |


 それだけ、だった。


 一本の、縦線。


 縦線の上にも下にも、何の文字も立たなかった。


 立たなかったのは、立てる文字を俺がもう思い出せなかったからだ。


 もう書けない。


 俺は、思った。


 思いながら、俺は白い石を置いた。


 石の隣に、書いた縦線が残る。


 その縦線を、俺は消さなかった。


 消さなかったのは、消したら、もう二度と現れないと知っていたからだ。


 知っていたが、俺はその朝、もうそれを自分の中で引き留めることができなかった。


 ——ジューラの、縦線。


 思った。


 思ってから、俺はその縦線が、二年前にジューラが火の脇で地面に書いた縦線と同じであることに気づいた。


 気づいた瞬間、俺はジューラの声を思い出した。


 ——ある。


 俺は、まだ、ある。


 縦線の姿で、俺はまだここにある。






 名前は、|まで崩れた。


 |の姿で、俺は、まだ、ある。






 ある。けれども、その名前では、もう書けない。


 書けない自分を、俺はその朝に認めた。


 ——出ていく。


 声には、しなかった。


 しなかったが、決めた。


 数日で、荷物をまとめた。


 道具。薬草。銀貨。黒い板と、白い石。


 山小屋は、捨てなかった。


 捨てる勇気が、なかったからだ。


 夜が、明けかけていた。


 その空の下で、俺は扉を開けた。


 扉の向こうに、街道が続いている。


 その先に、何があるのか。


 俺は、まだ知らない。


 知らないまま、足を踏み出す。






 書けない名前を、抱えて。


 俺は、扉を、開けた。






 ——書けなくなったその名前を、俺がもう一度書ける日が、来るのか。


 来るのか。——その日の早朝、俺は、思いもしなかった。その朝が、来た。


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