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灰のレン  作者: K3


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第3話 前編「カラスの二年」(二)


 襲撃の初めての朝、俺はまだ自分の剣を持っていなかった。


 朝の林は、霧で白かった。


 白い霧の中で、男たちが、無言で支度をする。


 刃を研ぐ音だけが、あちこちで鳴っていた。


 その音を、俺は寝床の中で聞いた。


 聞きながら、今日、自分が何をするかを知っていた。


 持っていなかったのは、頭領が貸してくれなかったからだ。


 俺がまだ、信用されていなかった。


 信用されていない俺に、ジューラが短刀を渡した。


 その短刀は、刃が欠けている。


 欠けた刃は、新入りの印だった。


 まともな剣は、信用を得た者にしか回らない。


 信用は、人を殺して、初めて手に入る。


 頭領は、それを言葉にしなかった。


 言葉にせずとも、皆が知っていた。


 欠けた刃の柄に、俺は手をかけた。


 柄は、汗で湿っていた。


 前に握った誰かの、汗だ。


 その誰かが、いまどこにいるのかは、訊かなかった。


 かけた手は、震えなかった。


 まだ何もしていないからだ。


 かけた俺を、ジューラは見た。


 その目は、朝の光で灰色。


 灰色の目は、何も言わない。


 ただ、唇の端が少しだけ下がった。


 その意味を、俺は知らない。


 知らなかったが、覚えた。


 たぶん、憐れみだった。


 憐れみを向けられたのは、久しぶりだった。


 久しぶりすぎて、それが憐れみだと気づくのに、時間がかかった。


  ◆


 最初のひとりを殺した夜のことを、俺は覚えている。


 男は、商人。


 その夜、俺は道の脇の草むらに伏せていた。


 伏せた背に、夜露が染みた。


 冷たさは、感じないことにする。


 頭領の合図を、俺は待った。


 待つ間、馬車の灯りが、ゆっくり近づいてくる。


 車輪が、石を踏む音。


 馬の、湿った鼻息。


 御者の、低い鼻歌。


 その鼻歌が、草むらの前で止まった。


 止まったのは、仲間が前に出たからだ。


 男たちが、馬車に群がる。


 怒鳴り声と、馬の悲鳴。


 その隙に、俺は反対側へ回った。


 馬車の脇で振り向いた瞬間、俺は男の喉に短刀を入れた。


 刃は、思ったより、やわらかく入った。


 短刀の柄から、男の脈が伝わってくる。


 とくん、とくんと、柄が脈を打つ。


 その脈が、ゆっくり止まる。


 その間、男の目は、俺を見ていた。


 見開いた目は、俺を責めもしない。


 ただ、驚いていた。


 手の甲に、生あたたかいものが、流れた。


 その夜、俺は震えた。


 寝床の中で、震えた。


 歯の根が、合わない。


 震える手を、別の手で握った。


 握った手の温度が、自分のものとは思えない。


 息が、浅くなった。


 吸っても、入ってこない。


 胸の奥が、きしむ。


 視界の縁が、白く焼ける。


 ——人を、殺した。


 ——俺が、殺したんだ。


 壊れる。


 壊れる、と思った。


 思った、その時だった。


 頭の奥で、何かが、すっと冷えた。


 冷えたのは、強化された脳だった。


 脳が、勝手に、呼吸を数えはじめる。


 吸って、四。止めて、四。吐いて、八。


 数えるうちに、息が、戻ってきた。


 戻ってきたのは、俺が望んだからではない。


 脳が、そう処理しただけだ。


 胸のきしみが、引いていく。


 白く焼けた視界が、もとに戻る。


 震えが、止まった。


 止まったのは、たった、十数える間のことだった。


 ——早すぎる。


 壊れることすら、この体は、許さない。






 人を、殺した。


 壊れることすら、この体は、許さない。






 人なら、ここで一晩、泣けたはずだ。


 泣けない自分が、暗闇の中に、ひとり残った。


 目を閉じると、男の目が、まだ俺を見ていた。


 ゆっくり止まっていった、あの脈の感触。


 柄を握った掌に、それがまだ残っている。


 残ったものを、俺は振り払えなかった。


 眠れないまま、夜が薄くなる。


 夜明け前に、俺は黒い板を出した。


 その上で、白い石を握る。


 その石で、俺は書いた。


 [̲̅タ][̲̅カ][̲̅ハ][̲̅シ]


 完全に、書けた。


 書けたのは、まだその名前が俺のものだったからだ。


 書いた文字を、しばらく見つめた。


 四つの角が、濃く立っていた。


 俺の手に、まだ力があった。


 その名前を、前世で、俺は何千回も書いた。


 書類に。処方箋に。同意書の、署名欄に。


 書くたびに、誰かの命が、その名前にぶら下がっていた。


 いまは、誰の命も、ぶら下がっていない。


 ぶら下がっているのは、今夜、俺が断った男の命だけだ。






 前世では、誰かの命が、名にぶら下がっていた。


 いまは、断った男の命だけが、ぶら下がる。






 消した。


 消すと、文字は跡形もなく消えた。


 消えたのが、不思議だ。


 不思議だが、消えるのが当たり前だった。


  ◆


 殺しの合間、俺たちは野営地に戻った。


 戻ると、男たちは奪った荷を分けた。


 布。塩。干し肉。銀貨。


 俺の取り分は、いつも最後に回ってきた。


 それでも、文句は言わなかった。


 言えば、次の取り分が消えるからだ。


 火の脇で、ジューラが樫の棒を引きずって座る。


 そして、俺に干し肉をひとつ寄越した。


 俺は、それを黙って噛んだ。


 肉は、塩辛くて、固い。


 噛みながら、俺は自分の手を見た。


 昼に人を殺した手で、夜に飯を食っている。


 その手は、もう、震えていなかった。


 夜になると、男たちは火を囲んで眠った。


 いびきと、寝言と、歯ぎしり。


 その音の中で、俺は壁を背にして眠る。


 背を見せれば、いつ刺されるかわからない。


 それを教えてくれた者は、いない。


 体が、勝手に覚えた。


 覚えていく体を、俺は止められなかった。


 止めれば、死ぬ。


 死なないために、俺は体に従った。


 従ううちに、俺と体の境目が、薄くなっていく。


 薄くなった先で、何が残るのかは、まだわからなかった。


  ◆


 二人目の夜、震えは半分になった。


 三人目の夜、震えは四分の一になった。


 三人目は、女を連れた旅の男だった。


 男は、女を逃がそうと、背を向けた。


 背を向けたその首に、俺の刃が入る。


 逃げる女の足音を、俺は追わなかった。


 四人目の夜、震えはほとんどなかった。


 四人目の顔を、俺はもう覚えていない。


 五人目の男のことを、俺はよく覚えている。


 男は、農夫。


 馬車は、持っていない。


 徒歩で、街道を歩いていた。


 日暮れの街道を、男は急いでいた。


 急いでいたのは、その先に灯りが見えていたからだ。


 灯りは、小さな村のもの。


 男は、そこへ帰る途中。


 俺は、曲がり角で待った。


 待って、すれ違いざまに、背中から刺した。


 男は、前のめりに倒れた。


 背中の籠から、藁がこぼれる。


 藁の中に、卵が八個。


 ひとつも、割れていなかった。


 殺した俺が、卵を数えた。


 その八個を誰が待っていたかを、考えてしまったからだ。


 男の最後の言葉は、現地語の一語。


 ——マーリャ。


 マーリャ、というのが名前なのか。


 女の人なのか、子供なのか。


 俺は、知らなかった。


 知らなかったが、その音はその夜に消えない。


 目を閉じても、その三つの音が、耳の奥で回る。


 マーリャ。マーリャ。マーリャ。


 誰かが、その名を呼んで、待っている。


 待っている誰かに、俺は卵を届けられない。


 届けるはずだった男を、俺が断ったからだ。






 マーリャ。マーリャ。マーリャ。


 その名を、誰かが、待っている。






 消えなかった音を聞きながら、俺は黒い板に書いた。


 ——慣れとは、恐ろしいものだ。


 ——人を殺すのに、躊躇が無くなっていく。


 ——生きるために。


 書いた言葉は、五人目の男への供養。


 その後で、俺は二つの名前も書いた。


 書いた一つは——


 [̅タ̅][̅カ̅][̅ハ̅]


 シが、書けない。


 書けなかったのは、忘れたからではない。


 手が、書かなくなった。


 書こうとした指の先が、止まる。


 その指を、俺は見る。


 見つめても、指は動かない。


 俺はしばらく、それを見ていた。


 指が拒んでいるのは、文字ではない。


 その文字の持ち主だった、男だ。


 謝りに行った男。許しを乞うた男。


 その男を、いまの俺は、もう演じきれない。


 演じきれないものは、書けない。


 無理には、書かなかった。


 書けば、書けないことを認めることになるからだ。


 認めたくは、なかった。


 なかったが、書かないという選択は、もう認める選択だ。


 ——震えなくなった、自分が、いちばん、怖い。






 シが、書けない。


 震えなくなった自分が、いちばん、怖い。






 思いながら、俺は消した。


 消したのは、三つの文字だった。


  ◆


 それからの殺しを、俺はもう、数えなくなった。


 数えないのは、数えれば名前を思い出すからだ。


 名前を思い出せば、手が止まる。


 止まる手は、俺を生かさない。


 季節が、二度めぐった。


 春に殺した。夏に殺した。秋も冬も、殺した。


 殺した数を、俺はもう覚えていない。


 覚えているのは、震えなくなった夜の数だけだ。


 その夜の数だけ、俺の中の何かが、欠けていった。


 欠けた場所に、新しい何かが、入ってきた。


 新しい何かに、まだ名前はない。


 昼に、人を殺す。


 夜に、飯を食う。


 夜明け前に、板を出す。


 出した板に、俺はカラス、とだけ書くようになった。


 書いて、消す。


 その繰り返しの中で、俺の指は、二つの名前を別々に覚えた。


 ひとつは、濃く書ける名前。


 ひとつは、もう書けない名前。


  ◆


 六人目の夜、俺は何も書かなかった。


 七人目の夜も、書かなかった。


 書かなくなったことを、俺はその時は気づかなかった。


 気づいたのは、十数人を殺した後のある朝。


 ——マーリャ。


 音は、もう聞こえなくなっていた。


 聞こえなくなっていたことを、俺はその朝に知った。


 知った時、悲しみは、もう来なかった。


 来なかったことが、俺を、いちばん遠くへ連れて行く。


 前世の俺なら、ここで膝をついていた。


 膝をついて、誰かに、許しを乞うていた。


 いまの俺には、乞う相手も、乞う言葉もない。


 あるのは、明日も生きる、ということだけだ。


 知って、俺は、二つの名前だけを書く。


 生きるために、俺は人を殺した。


 殺すたびに、名前を消した。


 消すたびに、供養をやめた。


 やめたものの数だけ、俺はカラスに近づいた。


 供養は、しない。


 供養をしないことが、規則になった。


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