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灰のレン  作者: K3


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第4話「水と火の字」


 夜明け前に、目を覚ます。


 時刻は、いつも同じだ。


 同じであることを、俺は自分で選んでいた。


 そうやって決めておかなければ、心が消えてしまうからだ。


 心が消えていく男を、俺はこの二年で、何度か見てきた。


 仲間の中にも、消えた男がいた。


 その男は、いつしか笑いながら人を殺すようになった。


 その笑い声は、いまも俺の耳の奥に残っている。


 残ったその音を忘れないために、俺は毎朝、同じ刻限に起きる。


 寝床は、麻袋の上に敷いた一枚の毛布だ。


 俺はその毛布の下から、這い出る。


 足の裏に、土の冷たさが伝わる。


 その冷たさを、俺はわざわざ感じることにしていた。


 感じておかないと、何も感じない自分が、いつか怖くなるからだ。


 小川は、小屋の裏にあった。


 両手で水をすくい、顔につける。


 水は、骨まで届くほど冷たい。


 その冷たさで、俺は目が覚める。


 ついでに、自分がまだ生きていることも確認する。


 それから、棚の前に座る。


 棚の上には、ナイフ、短刀、鉗子に似た道具、そしてガラス瓶が三本、並んでいる。


 俺の手の甲には、傷跡がふたつあった。


 ひとつは、一年目に剣を受け止めそこねた跡。


 もうひとつは、火を起こしそこねて火傷を負った跡だ。


 この傷跡が、そのまま俺の二年だった。


 最後に、黒い板を取り出す。


 板の脇には、白い石。


 俺はその石を握った。


 握るその手は、二年でその動きを覚えた手だった。


 そして、書く。


 |


 書けた文字は、それだけだった。


 一本の、縦線。


 俺はそれを、じっと見つめた。


 見つめても、それが何の文字なのか、わからない。


 書こうとした名前を、もう思い出せなかったからだ。


 思い出せなくなっていることは、自分でも知っていた。


 二年のあいだ毎朝書いてきたその文字が、少しずつ、欠けていったからだ。


 次に、もうひとつ書いた。


 ——カラス。


 こちらは、ちゃんと書けた。


 それが、いまの俺の名前だからだ。


 書いたその文字を、しばらく見つめる。


 見つめてから、消した。


 さっきの縦線のほうも、消す。


 消す時にはもう、俺は自分が何を消したのか、わからなくなっていた。


 毎朝、十分。


 そのたった十分のあいだだけ、俺は何かをしているふりをしていた。


 その「何か」が、もう自分でもわからなくなっていても、ふりだけは続けた。


 続けないと、心が消えてしまうからだ。


 毎朝、書いて、消す。


 消さないと、心が、消える。


 書いて、消した。


 書いて、消した。


  ◆


  ◇


 話は、二年前の春にさかのぼる。


 あの日、俺は林の中で、五人の男に囲まれた。


 囲んだ男たちからは、汗と、湿った革と、安い酒の匂いがした。


 その匂いの中で、ひとりが剣を抜く。


 抜いた男の左の眉の上には、古い傷があった。


 その傷の下で、男の目は笑っている。


 俺が、武器を持っていなかったからだ。


 次の瞬間、俺の体が、勝手に動いた。


 動いた体は、男の懐へ滑り込む。


 入り込んだ時、男の口臭が俺の鼻に届いた。


 発酵した、麦の匂い。


 俺は、その匂いの主の首に手をかけた。


 かけた手を、そのままひねる。


 ひねった時の音は、湿った枝が折れる音によく似ていた。


 男は、何も言わなかった。


 正しくは、言いかけて、止まったのだ。


 止まった口は、半分開いたまま。


 開いたその口の中に、欠けた奥歯が見えた。


 残った四人が、動きを止めた。


 俺は、その四人の目を見た。


 その目の奥にあったのは、これから二年のあいだ、俺が何百回も見ることになる感情だった。


 それは、恐怖だった。


 四人のうちのひとりが、現地の言葉で何かを言った。


 俺に聞き取れたのは、その最後の音だけだった。


 ——使える。


 仲間にしてやる、という意味だった。


 使える、と男は言ったのだ。


 俺は、その音だけを、二年のあいだ忘れなかった。


  ◆


 野営地は、火と、腐肉と、汗の匂いで満ちていた。


 十人ほどの男が、火を囲んで座っている。


 皆、干し肉を噛んでいた。


 その肉の脇には、骨が転がっている。


 骨は、犬のものだった。


 まだ毛がついていたから、それとわかった。


 十人のうちのひとりは、右の指が三本、欠けていた。


 その男は、左手だけで肉を噛む。


 別のひとりは、右の目がない。


 ない目の瞼が、糸で縫い合わせてあった。


 その縫い目から、黄色い汁が滲んでいる。


 さらに別のひとりは、上唇から頬まで裂けていた。


 裂けた口は、もう閉じることができない。


 だから、いつもよだれを垂らしている。


 もうひとりは、片足を引きずっていた。


 引きずるその足の脛から、膿が出ている。


 男たちは、皆、ひどく汚かった。


 汚いのは、自分を汚いと思う感覚が、もう失われていたからだ。


 そんな男たちが俺を見つめ、皆、言葉にせず、ひとつのことを認めた。


 ——同類か。


 同類、というのは、つまり、戻る場所がないということだった。


 たしかに、俺にも戻る場所はない。


 戻る場所のあった男は、二年前の春に、もう死んでいたからだ。


 同類、というのは。


 戻る場所が、ない、ということだ。


  ◆


 最初に覚えた現地の言葉は、「水」だった。


 ある朝、頭領が俺の前に木の器を置いて、何か言った。


 俺は、その器の中身を見る。


 確かに、水だった。


 ——水。


 俺は、その音を口の中で繰り返した。


 その音を、頭領は頷きながら聞いていた。


 頭領はその日から毎朝、俺の前に何かを置くようになった。


 置いては、その名前を言う。


 パン。


 塩。


 火。


 剣。


 俺は、そのたびに繰り返した。


 繰り返して、ひとつずつ覚えていった。


  ◆


 仲間のほとんどは、字が読めなかった。


 読めないのは、教わる場所が、どこにもなかったからだ。


 歯が半分ない男は、目も悪かった。


 その目で、夜の暗がりの中、よく何かにつまずく。


 だが、つまずいても、誰も何も言わない。


 男がつまずくのは男の問題で、自分の問題ではないからだ。


 そんな中で、帳簿係のジューラだけが、字を扱えた。


 ジューラは、左足が義足だった。


 義足は、ただの樫の棒だ。


 その棒の先が地面を引きずる音が、ジューラが歩いてくる合図だった。


 ある夜、その引きずる音が、俺の隣でぴたりと止まった。


 ジューラは、火の脇に座る。


 座って、地面に指で何かを書いた。


 そして、書いたものを俺に見せる。


 ——水。


 書いたのは、「水」という字だった。


 書いてから、ジューラはその隣に、もうひとつ書く。


 ——火。


 今度は、「火」だ。


 書いた二つの文字を、ジューラは指でなぞった。


 なぞってから、ジューラは俺を見る。


 その目に、言葉はない。


 言葉はないが、意味はわかった。


 俺も、地面に書いてみた。


 俺の書いた「水」と「火」の形は、ジューラのものとは違っている。


 違うが、ジューラは頷いた。


 頷いてから、ジューラは自分の二字を足で消す。


 続けて、俺の二字も、ジューラの足が消した。


 俺は、その消された地面を見た。


 見ている俺に、ジューラはひとつだけ、現地の言葉を言った。


 ——見せるな。


 他の仲間には見せるな、という意味だった。


 そう読み取れたのは、ジューラの目つきが、そう言っていたからだ。


 俺は、頷いた。


 頷いた俺に、ジューラはもう何も言わず、火から離れていく。


 離れていくその背中で、樫の棒の音が、夜の中に消えていった。


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