第2話 後編「カラスになる」後半
数日が経った頃、罠に獲物がない日があった。
腹が、低く鳴った。
獲物がない日は、林に入って山菜を探す。
その林の中で、俺の足は前と違う方向に向いた。
逃げた時の、方向だった。
俺は、そちらに足を進めた。
何か確かめたいものが、あったからだ。
草の倒れた跡が、薄く残っている。
林の奥は、しんと静かだ。
鳥の声も、しない。
残った跡を、俺は辿った。
その先に、男が倒れていた。
数日、雨ざらしになった跡がある。
男は、武装していた。
その武装に、覚えがあった。
前に逃げた時、俺の進路の上に立った男だ。
俺がぶつかった、男だ。
◆
◇
男のそばに、しゃがんだ。
しゃがんで、首を見た。
首は、横に折れていた。
皮膚の下で、骨の角が、不自然に浮いている。
折れた角度は、生きている人間の角度ではない。
医学生として、判定した。
頸椎骨折。
即死、だった。
風が変わると、甘い腐臭が、鼻をついた。
——タックル一回で、首が折れていた。
思った瞬間に、俺の手が震えた。
震えたのは、俺の手だった。
見つめた手は、医学生の手のままだった。
細い、指。
節の少ない、関節。
マニキュアでも塗れそうな、爪。
手は、変わっていなかった。
変わっていなかったが、力は変わっていた。
変わった力で、俺は人をひとり殺していた。
——感触がなかったのは、当然だった。
俺の体は、常人を超えている。
超えている度合いを、俺は初めて知った。
タックル一回で、首が、折れた。
俺の体は、常人を、超えている。
知った瞬間に、俺の中で、もうひとつの音が響いた。
——前世の体なら、こうはならなかった。
響いた音は、俺の知る声ではない。
知る声ではないのに、その音は、俺の中の何かの底から来た。
底から来た音を、俺は追わなかった。
追えば、俺が俺でなくなる。
知っているのは、俺の中の医学生の影が、まだ影として立っていたからだった。
◆
◇
知った俺は、震えを止めた。
その手で、男の革袋に触れた。
外して、中を見た。
銀貨と、銅貨。
数えると、銀貨は八枚。
銅貨は、二十ほど。
掌の上で、銅貨が、鈍く触れ合った。
男の剣を、俺は見た。
だが、取らなかった。
振れないからだ。
振れないものを持ち運ぶ意味は、ない。
代わりに、俺は別のものを選んだ。
靴を、取った。
その靴は、俺の足に合う。
男の腰の短刀も、取った。
短刀は、皮の鞘に収まっている。
鞘の表面は、なめらかだった。
俺の手は、それを無造作に握った。
握った手に、震えはない。
全てを終えて、俺は立ち上がった。
その時にはもう、震えはない。
——一週間前の俺なら、ここで吐いていた。
思ったが、吐かなかった。
吐かないことに、俺は驚かない。
驚かないこと自体に、俺は軽く笑った。
笑った口元を、俺は自分で見られない。
できなくても、わかった。
俺の口元の角度は、もう医者の卵のそれではない。
◆
◇
街道沿いに、倒れた馬車を見つけた。
馬車の周りに、死体が転がっていた。
血は、もう乾いて、土に染みている。
死体は、四つ。
ひとつは、商人風の男だった。
その男に、見覚えがある気がした。
あの日、火の脇で蹴られていた男だ。
助けを呼んでいた、あの声の主だ。
助けに行かなかった俺が、いま、その死体の前にしゃがんでいる。
喉の奥が、ひとつ、鳴った。
顔は、土埃に半分覆われている。
見えている半分を、俺は見た。
見て、目を逸らした。
——知らない顔だ。
そう、思うことにした。
思うことにして、懐に手を入れた。
◆
◇
しゃがんで、男の懐を探った。
手の先に、革袋があった。
取り出して、中を見た。
銀貨が、入っていた。
数えると、十二枚。
——十二枚で、何日、生きられる。
知らない。
知らないが、生きる。
生きるための数字を、頭が勝手に組み立てた。
その数字は、俺の知識の外にある。
俺はかまわず、銀貨を袋にしまった。
しまう手は、震えない。
助けられなかった男から奪う手が、もう震えなかった。
助けを呼んでいた、あの声の主だ。
その男から奪う手が、もう、震えない。
周りの死体からも、取った。
靴と、薄い毛布と、火打石。
死んだ者の体温は、もう、どこにもない。
全てを、背中の袋に詰めた。
袋は、肩に食い込んだ。
その痛みを、気にしなかった。
気にしないのが、もう習いになっていた。
慣れるのに、一週間。
一週間で、俺はここまで来ていた。
来てしまった、というほうが、近い。
◆
◇
別の日の、別の街道。
街道で、旅人とすれ違った。
武装した男。
男が、俺を見た。
見て、何かを言った。
わからない言葉だ。
わからない言葉の中に、ひとつだけ、知らない音があった。
「——カラス——」
音を、男は繰り返した。
繰り返して、俺を見て、唾を吐く。
吐かれた唾を、拭わない。
拭う価値を、感じなかった。
男は、通り過ぎる。
その背中を、見送った。
頭の中に、ひとつの音だけが残った。
——カラス。
音は、俺を指していた。
死体を漁って、街道を渡り歩く男。
屍肉に群がる、黒い鳥。
そういう意味だろう、と察しはついた。
ついたが、否定する気は起きなかった。
その音を、俺は繰り返した。
口の中だけで。
口の中で、音は形を持った。
形は、固かった。
固いまま、舌の上に残った。
鉄の味が、する気がした。
◆
◇
山小屋に戻った夜だった。
小屋の外で、水たまりを見た。
夜気は、冷たく、頬を刺す。
水の面は、揺れもしない。
表面に、俺の顔が映っている。
映った顔を、俺は知らない。
知らない顔の目を、見た。
もう、医者の目じゃない。
医者の目は、捨てた。
捨てた目の代わりに、新しい目。
新しい目が、俺を見返した。
見返した目の奥に、火がひとつ灯っている。
灯った火は、小さい。
小さい火は、消えない。
胸の底が、その火で、わずかに熱い。
消えない火を、俺のもの、と認めた。
認めた瞬間に、唇が動いた。
——タカハシは、死んだ。
声には、しなかった。
聞く人は、いない。
聞く人のいない夜の中で、もう一度、唇を動かした。
——俺は、カラスだ。
タカハシは、死んだ。
俺は、カラスだ。
言った瞬間に、俺の中の何かが確定した。
確定したものを、押さえない。
押さえる理由は、もうない。
理由の消えた体が、ひとりでに立ち上がっていた。
立ち上がった俺の影が、月明かりの下で長く伸びる。
伸びた影は、知らない形。
知らない形のまま、影は俺を指していた。
死んだかわりに、俺は、生まれに、行く。
主人公は裸族だった!




