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灰のレン  作者: K3


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第2話 後編「カラスになる」前半


 中に入ると、足は棚に向かった。


 足の下で、床板が軋んだ。


 俺は、それを気にしなかった。


 棚の上に、光るものが見えたからだ。


 金属の、反射だった。


 反射の中に、俺の知るものがあった。


 ——医者の、道具だ。


 軽口が、引っ込んだ。


 手が、勝手に伸びていた。


 伸びた手の先で、棚の物に触れた。


 冷たい。金属だ。


 手に取った。


 刃物だった。


 ナイフより小さく、メスより鈍い。


 鈍いが、用途は読めた。


 皮を剥ぐためのものだ。


 柄に、手脂が染みていた。


 俺のものじゃない。


 その脂ごと、握った。


 握ったまま、息を吐いた。


 吐いた息が、棚の埃をわずかに揺らした。


  ◆

  ◇


 棚の上には、もうひとつあった。


 鉗子に似ていた。


 似ているが、鉗子じゃない。もっと簡素だ。


 その脇に、ガラス瓶が三本並んでいた。


 中に、液体が入っていた。


 緑、茶、黒。


 嗅いだ。


 知らない匂いだ。


 知らないが、危険な匂いではない。


 それくらいは、鼻が判じた。


 医者をやってた頃の鼻が、まだ残っている。


 残った鼻と、残った知識が、棚の上を「診療器具」と判定した。


 頭の片隅に、白衣の影が、まだ立っていた。


  ◆

  ◇


 奥の隅に、布のかたまりがあった。


 近づくと、匂いがした。


 その匂いを、知っていた。


 屍臭だ。


 甘く、重く、鼻の奥に貼りつく。


 嗅いだことが、あった。


 解剖実習の、ホルマリン越しに。


 ホルマリンに隠されていない屍臭を、俺は初めて嗅いだ。


 嗅いでも、足は止まらなかった。


 止まる理由が、もう俺の中になかった。


  ◆

  ◇


 布を、めくった。


 その下に、男がいた。


 目を、閉じている。


 閉じた目の上に、黒い髪がかかっていた。


 髪の下の顔は、痩せている。


 痩せた顔の口元に、暗い色が滲んでいた。


 乾いた唇が、半分ひらいている。


 見つめて、判定した。


 死後、十日前後。


 死因は、わからない。


 わからないのは、外傷が見えないからだ。


 見えないが、口元の色から、毒の可能性もあった。


 毒、という単語が、頭の中でひとつだけ跳ねた。


 跳ねた単語を、俺は追わなかった。


 追えば、長くなる。


 長くなれば、足がまた止まる。


 止めずに、男の体の脇を見た。


  ◆

  ◇


 男の服は、地味だった。


 脇に、革袋が置かれていた。


 その隣に、帳面と、何枚かの紙が散らばっていた。


 紙に、文字が書かれていた。


 読もうとして、読めない。


 その形を、目でなぞる。


 俺の知る文字は、ひとつもない。


 そう確認した瞬間に、知った。


 ——ここは、俺の世界じゃ、ない。


 驚きは、もう来ない。


 空の雲の形を見た時に、わかっていた。


 わかっていたが、文字を見るまで確信がなかった。


 いま、確信が来た。






 文字が、読めない。


 ここは、俺の、世界じゃない。






 その重さを、肩で受ける。


 受けた肩が、わずかに傾いた。


 傾いた肩のまま、俺はふと思い出した。


 さっき棚で握った、あの光る板きれ。


 線を引いて、消して、また書ける、あれ。


 あれも——この男のものだったのか。


 傾いた肩のまま、男の死体に向き直った。


 死体を前にして、立ち尽くした。


 頭の中で、二つの声が響いた。


  ◆

  ◇


 ——逃げろ。


 ——奪え。


  ◆

  ◇


 逃げろ、と言ったのは、前世から地続きの俺の声だ。


 奪え、と言ったのは、知らない声だった。


 知らないが、その声を信じた。


 信じる以外、生きる方法がなかった。


  ◆

  ◇


 ——医者は、人を救う。


 そう言う声を、黙らせた。


 ここに、救う相手はいない。


 相手は、もう死んでいる。


 死んだ相手の前で、医者にできることはない。


 何もできない医者は、医者じゃない。


 医者じゃないなら、俺は何者だ。


  ◆

  ◇


 答えは、出なかった。


 出ないまま、目だけが、男の道具をもう一度なぞった。


 皮を剥ぐ刃物。脂の染みた柄。


 この男も、医者の真似事をしていたのかもしれない。


 あるいは、誰かからこれを奪ったのかもしれない。


 奪って、ここまで来て、ひとりで死んだ。


 死んだ男の道具を、いま、俺が見ている。


 見ている俺も、同じ場所に立っている。


 奪うか、奪わずに飢えるか。


 その二つしか、ない。


 二つしかないと気づいた時、逡巡がすこし軽くなった。


 軽くなったことが、いちばんこわかった。


 こわいと思う自分は、まだ人間だ。


 人間のうちに、やってしまおう。


 人間でなくなる前に。






 こわいと思う自分は、まだ人間だ。


 人間のうちに、やってしまおう。






 そう思った時にはもう、手が伸びていた。


  ◆

  ◇


 伸ばした手の震えを、止めなかった。


 止めなかったのは、震えがまだ人間の証だからだ。


 人間のまま、俺は奪った。






 震えを、止めなかった。


 震えが、まだ人間の、証だからだ。






 奪ったのは、服、銀貨、薬草、帳面、そして黒い板。


  ◆

  ◇


 裸のままでは、この世界を一歩も歩けない。


 服は、男から脱がせた。


 手は、ぎこちない。


 ぎこちないまま、上着を取った。


 懐から、革袋が落ちた。


 中に、銀貨が入っていた。


 数えると、五枚。


 握りしめた。


 冷たい。


 冷たい銀貨が、掌でわずかに温まった。


 温まる速度は、遅かった。


 その遅さを、待った。


 銀貨が、俺の体温に馴染むまで。


 馴染んだ瞬間に、思った。


 ——これで、何日、生きられる。


  ◆

  ◇


 薬草は、棚の下の籠にあった。


 束ねて、乾かされていた。


 乾いた草の匂いを、嗅いだ。


 匂いの一部を、知っていた。


 漢方の、何かだ。


 なぜ俺が漢方を嗅ぎ分けられるのか、その時は考えなかった。


 帳面は、男の枕元にあった。


 めくった。


 頁の文字は、読めない。


 帳面の隣に、あの黒い板を置いた。


 棚で握った、あの板だ。


 表面に、白い線が残っていた。


 文字らしい。


 らしいが、読めなかった。


  ◆

  ◇


 板の隣に、小さな白い棒。


 棒は、石。


 手に取って、板に当てた。


 当てた石が、白い線を残す。


 残した線を、指でこすった。


 線は、消えた。


 ——書ける、消せる。


 ——何度でも。


 書けて、消せる。






 線を引いて、消す。


 消した跡に、また、書ける。






 それが、俺の中の何かに引っかかった。


 引っかかった何かを、その時は言葉にできなかった。


 できないまま、板と石を、袋に入れた。


  ◆

  ◇


 数日が、経った。


 その間に、俺は山小屋に住み着いていた。


 小屋の中に、男の死体はもういない。


 外に運んで、土の下に埋めたからだ。


 埋めるのに、半日かかった。


 その間、俺は何度も休んだ。


 休みながら、思った。


 ——これが、人間性の、最後の名残か。


 それでも、掘り続けた。


 埋めなければ、俺が眠れないからだ。


 眠れない理由は、屍臭ではない。


 屍臭ではなく、俺の中の、医学生の影だった。


 その影は、死体の処理を知っている。


 知っているから、影は俺に「掘れ」と言った。


 俺は、掘った。


  ◆

  ◇


 眠るのは、小屋の隅だった。


 男の寝ていた場所では、ない。


 別の隅で、俺は丸まって眠った。


 眠った時間は、短かった。


 短い眠りの間に、俺は夢を見た。


 夢の中で、俺は白衣を着ていた。


 着ていた白衣は、汚れている。


 汚れた白衣の下で、俺は手術台の前に立っていた。


 立っていたが、メスを握っていない。


 握っていない手の中に、白い棒。


 白い棒で、俺は黒い板に何かを書いていた。


 書いた何かを、俺は読まない。


 読めば、手が止まる。


 止まる手を、俺はいま持っていない。


 持っていないまま、俺の手は書き続けた。


 書き続けた板の上に、白い線が増えていく。


 増えていく線は、消されない。


 消されないまま、線は層になる。


 層になった線の下に、俺は何かを埋めていた。


 目を、覚ました。


 あたりは、夜の闇。


 闇の中で、俺の手は、まだ震えていない。


 それを確認して、俺はもう一度、目を閉じた。


 眠りの底で、俺はまだ、自分が何に変わっていくかを知らなかった。


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