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灰のレン  作者: K3


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第2話 前編「言葉のない男」


 歩いた。


 歩いて、歩いて、歩き回った。


 歩きながら、自分の体を確かめた。


 軽い。痛みもない。つーか、傷はどこにいった。


 昨日まで背中に入っていたはずの刃の感触が、まるで嘘だ。


 というか、体が若い。


 若いが、俺の体ではある。中身は据え置きで、ガワだけ新品。そういう感じだ。


 そして、何も着ていない。


 糸一本、まとっていなかった。


 白衣も靴も財布も、前世のものは何ひとつ持ってきていない。


 持ってこられたのは、この体ひとつだけだ。


 草が、素足の裏をくすぐった。


 風が、直に肌を撫でた。


 ……まあ、生きてるだけ、ましか。


 その足で、地面を蹴ってみた。


 ……跳ねた。


 いや、跳ねすぎだろ。


 頭の中で、太陽の角度から時刻が出た。午後三時、前後。


 ……出た。


 紙もペンもなしで。暗算ですらなく、勝手に。


 医者をやってた頃は、こんな芸当はできなかった。換算表とにらめっこして、ようやく出る数字だ。


 それが、頭の中で勝手に計算している。


 脳味噌、アップデートされすぎてないか。これ。






 中身は据え置き。ガワだけ、新品。


 脳味噌だけが、勝手に、進んでいく。






 悪い気は、しない。


 歩いた足は、疲れていない。


 むしろ調子がいい。自分の体ではないみたいで、気持ち悪いくらいだ。


 まあ、ありがたいけど。


 その足で、道を探した。


  ◆

  ◇


 草原の縁に、林が見えてきた。


 入り口の地面が、妙だった。


 しゃがんで、見た。


 踏み固められている。人と馬の跡だ。


 乾いた土に、蹄の跡がいくつも残っていた。


 見つめると、頭の中で勝手に答えが出た。


 軽装の馬車。一頭立て。通ったのは、半日以内。


 ……いやいや。


 なんで俺、こんなのわかるんだ。


 探偵か。CSIか。


 ツッコミを入れる相手も、ここにはいないが。


 ツッコミは諦めて、林に入った。


 奥に、道は続いていた。


 その先に、誰かがいる気配がした。


 誰かがいる。つまり、俺はひとりじゃない。


 ひとりじゃないのは心強い。心強いし、ちょっと怖い。


 半々の気持ちのまま、足は止まらなかった。


  ◆

  ◇


 林の奥から、音がした。


 ひとつじゃない。


 耳が、勝手に音を分けた。


 火の、爆ぜる音。


 馬の、絶叫。


 男たちの、怒鳴り声。


 木の陰に、身を伏せた。


 伏せた先に、道が見えた。


 荷馬車が、横倒しになっていた。


 荷に、火が回っている。


 炎は赤く、煙は黒い。


 火の脇で、馬が暴れていた。


 車輪に繋がれたまま、前足を振り上げる。


 白目の縁まで見せて、暴れている。


 絶叫の下で、男がひとり倒れていた。


 商人風の、身なり。


 その周りに、四人。


 全員が、武装している。


 その四人が、商人夫婦を襲っていた。


 商人が、何かを叫んだ。


 言葉は、わからない。


 わからないが、声に滲んだものはわかった。


 助けを、呼んでいる。


 その音だけは、どの世界でも同じらしい。


 四人のうち、ひとりが剣の柄を振り上げた。


 振り下ろす。


 鈍い音が、した。


 その一撃で、商人は黙った。


 黙ったが、死んではいない。肩が、上下していた。


 まだ、生きている。


 ——助けなきゃ。


 そう思うより先に、足が出ていた。


 出た足を止めたのは、頭じゃない。


 手だ。


 手が、勝手に木の幹を掴んでいた。


 掴んだ指に、力がこもる。


 こもった力で、自分をその場に縫い留めた。


 爪が、樹皮に食い込む。


 食い込んだ痛みで、足が止まった。


 止まった足の中で、頭が回り出す。


 助けに行って、どうする。


 俺は医者だ。医者の仕事は、人を救うこと。


 救うために、まず何をする。


 まず、声をかける。


 ——大丈夫ですか。


 かけて、安心させて、傷を診て、処置をする。


 処置のために、こう言う。


 ——動かないでください。


 ……通じるか?


 通じない。


 あの商人は、別の言葉を話している。


 で、俺の話せる言葉は。


 日本語。以上。


 あとは医学用語と、受験で詰め込んだ英単語の残りカスが、ちょっと。


 医学用語、盗賊に効くか? 効かない。


 英単語、商人に通じるか? 多分、通じない。


 裸で丸腰の医者がひとり、火の中に飛び込んで、できることは。


 ない。


 頭では、わかる。


 わかるのに、足はまだ前に行きたがっていた。


 行きたがる足を、手が必死に押さえつけていた。


 助けたい俺と、助けられない俺が、木の陰にへばりついていた。


 へばりついたまま、自分を笑った。


 医者の卵が、声ひとつかけられない。


 声をかけても、伝わらない。伝わらない声は、声ですらない。






 声をかけても、伝わらない。


 伝わらない声は、声ですら、ない。






 ……前世でも、今世でも、肝心なところで詰むのか。俺は。


 ——皮肉なことだ。


 二回目だ。


 一度目は、前世で。二度目は、こっちで。


 様式美かよ。


 木の幹を掴んだまま、息を殺した。


 息の向こうで、盗賊のひとりが立ち上がった。


 男が、林の方を見た。


 その目が、俺のいる方を捉えかけた。


 ……まずい。


  ◆

  ◇


 目が、合った。


 合った、と思った瞬間には、もう動いていた。


 動いたのは、俺じゃない。


 体だ。


 体が、勝手に踵を返した。


 返した踵が地面を蹴って、次の瞬間には走っていた。


 速い。


 俺の知ってる足じゃ、ない。


「——! ——!」


 後ろから、声が追ってきた。


 足音は、四つ。


 四つのうち、ひとつが速い。


 速いやつが、近い。


 近づく音の向こうに、別の影が見えた。


 別方向から、回り込んできたやつだ。


 その影が、俺の進路に立った。


 剣を、構えていた。


 止まる? 止まれない。


 止まったら、終わる。それだけは、体でわかった。


 肩が、何かの影にぶつかった。


 ぶつかったのに、手応えはほとんどなかった。


 ないというか、軽い。思っていたより、ずっと。


 そのまま、通り過ぎた。


 背中で、何かが崩れる音がした。


 確かめなかった。


 振り向く一秒が、惜しい。


 走った。


 走り続ける。


 林の奥が見えて、そこへ潜り込んだ。


 ——当たった感触が、なさすぎる。


 走りながら、引っかかった。


 引っかかったが、考えるのは後だ。


 いまは、考える時間も惜しい。


  ◆

  ◇


 足音は、やがて遠ざかった。


 代わりに、自分の心臓の音が耳の中で暴れている。


 その音を聞きながら、歩いた。


 歩きながら、考えた。


 あの商人は、どうなった。


 助かったか。殺されたのか。


 わからない。


 わからないのは、俺が見ずに逃げたからだ。


 戻る、という手はあった。


 あったが、選ばなかった。


 戻れば、今度は俺が死ぬ。


 ……軽口は、ここで止まった。


 逃げた、という事実が、足の裏に貼りついて剥がれない。


 助けたかった、は、本当だ。


 助けられなかった、も、本当だ。


 逃げた、は、いちばん本当だ。






 助けたかった。助けられなかった。


 逃げた、が、いちばん本当だ。






 悼む時間も、俺にはなかった。


 時間の代わりに、足だけが歩き続けた。


 夜になった。


 暗がりに、俺の足音だけが響いていた。


  ◆

  ◇


 夜明け前の、薄明かり。


 森の縁に、小さな広場。


 真ん中に、朽ちかけた山小屋が立っていた。


 扉は、半開き。


 隙間から、中を覗いた。


 人の気配は、ない。


 気配がないのを確かめて、中に入った。


 埃と、湿った木の匂いがした。


 奥に、別の匂いが混じっていた。


 その匂いを、俺はその時、気にしなかった。


 目に入ったものに、気を取られたからだ。


 棚の上に、何かがあった。


 棚は、扉の正面の壁に据えられている。


 その上で、暗がりの中、何かがわずかに光っていた。


 近づいた。


 手に取った。


 平たい、板きれだった。石の板だ。


 表面に、線が引かれていた。


 線は、文字のようで、文字ではなかった。


 知らない言葉。読めない。


 読めないが、指でなぞると、線が消えた。


 消えて、また書ける。


 ……書ける。消せる。何度でも。






 誰かが、ここで、書いて、消していた。


 書いて、消せる。何度でも。






 誰かが、ここで何かを書いて、消していた。


 その誰かは、もういない。


 いないが、最後に書かれた線だけが、この板に残っていた。


 残った線を、俺はしばらく見ていた。


 俺の手の中で、その板は、まだかすかに光っていた。


CSI(Crime Scene Investigation)=犯罪現場捜査

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