第〇話「謝りに行け」
※注意:カニバリズムとかの耐性ない人は回れ右でお願い ( ;∀;)。
(一人称:現在のカラス=俺/前世のタカハシの回想=私)
穴の底で、俺は、岩の天井を見上げていた。
いま思い出していたのは、前世のことではなかった。
灰、という名前の子供のことだった。
◆◇
穴の底は、暗い。
暗いのは、岩の天井が、頭上の光をすべて遮るからだ。
遮られた光が、わずかに縁を作っている。
その縁に、俺は横たわっていた。
体のどこかから、血が出ていた。
血の匂いが、鼻をかすめる。
医師の目が、勝手に傷を探した。
傷の深さ。出血の速さ。骨に届いているかどうか。
見たが、診断は口の中で消した。
ここには薬も、糸も、清潔な布もない。
——皮肉なことだ。
医者の卵だった俺が、この手で自分を救えない。
医者だった俺が。
この手で、自分を、救えない。
俺の名前は、タカハシといった。
前世での名前だ。
いまの名前は、カラスという。
灰は、俺が名付けた子供だ。
◆
俺の隣で、灰が眠っていた。
痩せた背中が、浅く上下している。
灰の頬に、血がついていた。
ついている血は、灰の血ではない。
俺の血だ。
どうしてそうなったかは、書かない。
いまは、まだ。
眠った灰の寝息が、暗い穴の底で小さく上下していた。
俺は、その寝息を数えた。
ひとつ、ふたつ。
数えるうちに、意識が薄れていった。
数えながら、目を閉じた。
閉じる前に浮かんだのは、ずっと昔の白い部屋だった。
◆◇
蛍光灯が、白かった。
白い光の下で、私は立っていた。
立っていた場所は、医局だ。
消毒液の匂いが、薄く染みつく。
頭が、ガンガンと響く。
視界が、揺れる。
足元が、ぐらつく。
——ああ、これは、まずいやつだ。
頭の片隅で、そう思った。
思いながら、何もできずにいた。
目の前に、上司が座っていた。
書類から目を上げないまま、上司は口を開いた。
「聞いているのか」
「聞いて……います」
答えた声は、自分の声ではないような響きだった。
上司は、書類をめくる。
めくった指は、太い。
爪の先まで、手を洗ったばかりの清潔さ。
「行くだろう、お前」
「あの家には」
「誰かが行かなきゃならない」
「医師資格を持っている人間が、行くべきだ」
医師資格は、上司も持っていた。
持っていたが、上司は行かないと背中が言っていた。
私は、なにも答えなかった。
答えなかったのは、答えれば足が動かなくなるからだ。
上司は、立ち上がった。
書類を置いて、部屋を出ていった。
残された私は、白い蛍光灯の下にひとりで立っていた。
◆
地下鉄の窓に、自分の顔が映っていた。
映った顔は、青い。
車両は、空いている。
空いた席に、私は座らなかった。
座れば立てなくなると、知っていた。
二日前、外科専門医の試験に合格した。
週末には、両親と彼女の四人で食事の予定だった。
予定だった、だ。
来月、結婚する。
実家の医院を継ぐ。
医師資格は、留年八年の末にぎりぎりで取った。
医局を辞めても、人生は続く。
続くが、いま、医局を辞められない。
辞められないのは、辞めれば、患者の遺族の前に立つ医師資格者がいなくなるからだ。
ポケットの中で、スマホが震えた。
震えたのは、彼女からのLINEだった。
——今日、何時に、帰る?
画面の光を、私はしばらく見ていた。
返事は、しなかった。
立つのは、私だ。
◆
マンションの玄関先に、私は立っていた。
ドアの向こうから、線香の匂い。
呼び鈴を押すと、ドアが開く。
開いたドアの奥に、喪服の男。
男は、患者の父親だった。
部屋の奥に、遺影。
遺影の中の患者は、笑っていた。
——先生、ありがとう。
術前の廊下で、患者はそう言った。
言った患者は、その日の午後に執刀台の上で死んだ。
死因は、大きな血管の損傷。
損傷させたのは、上司の手だった。
私は、玄関のたたきに両膝をつく。
ついた両膝の先に、額をつけた。
冷たいタイルの感触が、額に伝わる。
「申し訳ありませんでした」
言った声は、自分の声ではない。
「申し訳ありませんでした」
もう一度、言った。
「申し訳ありませんでした」
三度目を、言った。
言った私の頭の上で、父親の息が聞こえた。
息は、震えている。
父親は、私の白衣の胸を見る。
胸の、ネームプレート。
次に、手元の書類を見た。
病院から渡された、説明書。
その執刀医欄を、父親は指でなぞる。
指の先で、書類の名前と私のネームプレートを見比べた。
見比べた父親が、私を見た。
「あなたは、執刀医じゃないでしょう」
私は、なにも答えられなかった。
答えられなかったのは、私が第一助手だったからだ。
第一助手の私が、ここにいる。
執刀医の上司は、ここにいない。
「逃げたんですね」
「執刀医の先生は」
私は、なにも答えられなかった。
答えられなかったのは、父親の言葉が正しかったからだ。
正しい言葉を否定する勇気は、私にはなかった。
執刀医は、逃げた。
謝りに来たのは、第一助手の、私だった。
◆
夜の住宅街は、暗い。
街灯は、まばら。
まばらな光の隙間を、私は歩いていた。
背中の後ろで、足音がした。
足音が、止まる。
止まった先で、背中に冷たいものが入った。
刃が、入った。
痛みは、遠い。
不思議と、怒りはなかった。
ここに来たのは、自分で選んだからだ。
選んだのは、私だ。
選ばせたのは、上司だった。
逆らえたのに、逆らわなかった。
その上司を、私は恨まない。
恨む力も、もうない。
倒れた私の目の前に、若い男が立っていた。
男は、患者の息子。
息子の手に、ナイフ。
息子の声は、震えていた。
「お前らが。お前らが殺したんだろうがっ!!」
声は、泣いている。
震えた手で、息子はもう一度、私の腹にナイフを入れた。
——医師資格は、何のために、あるのか。
医師資格は、人を救うため、だった。
救うはずの私が、いま、救われない。
——人を、救うため、だったはずだ。
——救うはずの私が、いま、誰にも、救われない。
——皮肉なことだ。
視界が、暗くなった。
◆◇
草の匂いがした。
その匂いで、私は目を覚ました。
目を開けた先に、空があった。
空は、青い。
青いが、雲の形が違う。
見たことのない形の雲が、ゆっくりと流れていた。
体を、起こした。
起こした体に、痛みはない。
背中の傷を、私は触った。
触った先に、傷はない。
腹の傷も、ない。
指を、数えた。
十本、あった。
頭の中に、昨日の血液検査の数値が流れた。
白血球八千二百。CRP〇・三。空腹時血糖九十八。
数値は、はっきりと思い出せた。
思い出せすぎる、と思った。
解剖実習の図が、頭の中で回転した。
回転したが、止めようと思えば止められた。
——脳が、おかしい。
おかしいのは、いい方におかしい。
脳が、おかしい。
おかしいのは、いい方に、おかしい。
遠くで、誰かの声がした。
した声の言葉を、私は知らない。
「ここは、どこだ」
自分の声が、自分の声だった。
立ち上がる。
立ち上がった先に、道らしき痕跡。
痕跡を、歩いた。
歩きながら、私は思った。
——もう、誰にも、謝らない。
謝るかわりに、私は、生きに、行く。
その日の夜、十一時。
アパートの一室に、テレビが点いている。
点いたテレビの青白い光が、暗い部屋の壁をちらちらと舐めていた。
その前に、男が座っていた。
男は二十九歳で、独身。
膝の上に、コンビニ弁当。
冷めかけた唐揚げを、男は箸でつまんで口に運んでいた。
机の上に、スマホ。
画面は、点いたまま。
点いた画面を、SNSのタイムラインが流れていく。
男はときどき、スマホを覗いた。
覗いては、唐揚げを噛んだ。
テレビから、女性アナウンサーの声がした。
「都内のある病院で、医療事故が発生しました」
「司法解剖の結果、患者の体内から医療器具が発見されました」
「器具を置き忘れたのは、執刀した医師であると見られています」
「警察は業務上過失致死の疑いで、捜査を進めています」
男は、弁当の最後の唐揚げを口に運んだ。
運んでから、立ち上がった。
冷蔵庫の方へ歩く。
その背中で、テレビは次のニュースに移った。
「次のニュースです」
「都内の住宅街で、男性がナイフで刺されて死亡しました」
「亡くなったのは、近くの病院に勤務する医師でした」
「刺した男性は亡くなった患者の息子で、すでに出頭しています」
男は、冷蔵庫からビールを取り出した。
取り出して、缶のプルタブを引く。
ぷしゅ、という音が部屋に響いた。
響いた瞬間には、テレビはもう天気予報に変わっている。
男は、缶に口をつけた。
冷たいものが、喉に流れ込んだ。
その瞬間、男は目を閉じた。
そのまま、缶を口から離す。
「ぷは——」
男は、手の甲で口をぬぐった。
「——この時のために、生きてるってもんだ」
言った男の背中で、天気予報が流れていた。
「明日の関東地方は、晴れのち晴れでしょう」
「お出かけ日和の月曜日と、なりそうです」
「気温は、平年並みです」
男はソファに戻った。
戻って、もう一度ビールを飲んだ。
飲みながら、スマホを手に取る。
取ったスマホで、SNSを見た。
そこには、その日の出来事が流れている。
流れていたが、二つのニュースは男のタイムラインには来なかった。
来なかったことも知らず、男は明日、月曜日に出社する。
二つのニュースは、男に届かなかった。
届かないまま、男は、明日も生きる。
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