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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第14話「誰かが、握ってる」


 面が広がって、二年ほどが、過ぎた。


 網は、北街道の上に、しっかりと編まれていた。サイの村は、商いの要。リンの市は、値の泉として、絶えず便りを送ってきた。トビの屋根の道は、もう、街道のすみずみまで伸びていた。物と、銀と、便りが、面の上を滞りなく流れていた。


 派手な儲けは、なかった。けれど、損も、なかった。安いところで買い、高いところで売る。その差で、すこしずつ、銀が増える。増えた銀を、また物に換えて回す。ナダの言う円が、ゆっくりと、けれど確かに、膨らんでいった。


 二年の間に、商館も、変わった。崩れた壁の隙間は、ほとんど塞がった。蔵には、塩と、鉄と、布が、いつも、いくらかは積まれている。荷を運ぶ馬も、二頭から、五頭に増えた。火の輪を囲む顔は、相変わらず、ガロと、ナダと、ネネと、ヒナと、私の、五つだけだ。散った三人は、丘へは戻らない。けれど、五人の暮らしは、二年前より、すこし楽になっていた。冬を越す麦の蓄えに、怯えなくなった。それは、奪わずに得た蓄えだった。襲った夜の数ではなく、まっとうな取引の数が、蔵を満たしていた。朝、蔵の戸を開けると、塩の乾いた匂いと、鉄の冷たい匂いが、いっぺんに流れ出てくる。二年前、この蔵は、空だった。今は、物が積まれている。


 その、滞りなく回る面の中に、ある日、ひとつ、奇妙な点が現れた。


 面が広がると、面の上のわずかな歪みも、見えるようになった。ほかが滑らかに動いているから、ひとつの歪みが、すぐに分かる。盗賊の頃は、こんなものは、見えなかった。私たちが見ていたのは、自分の縄張りの、狭い範囲だけだった。けれど、面が大陸を覆うほどに広がると、その面の上の、たったひとつの、おかしな動きが、向こうから目に飛び込んでくる。


 網は、物を運ぶだけの道具では、なかったらしい。網は、世界の歪みを映し出す、鏡でもあった。


  ◆  ◇


 リンの便りだった。


 いつもの薬草の布に縫い込まれた紙が届いた。けれど、その日の便りは、いつもと、すこし違った。


 南東の谷筋で、麦が、おかしい。


 そう、書いてあった。


 おかしい、とは、どういうことか。私は、紙を、二度読んだ。リンは、人を読む目を持っている。値を読む目も、持っている。その女が、「おかしい」と書いてきた。ただ高い、とか、ただ安い、ではない。おかしい、と。


 続きを読んだ。南東の谷筋のいくつかの村で、麦の値が跳ね上がっている。ほかの土地では、麦は、いつもどおりの値だ。今年は、特に不作でもない。畑も、荒れていない。なのに、その谷筋だけ、麦が、他の三倍も、四倍も、する。市の商人たちが、首をかしげている。リンも、その値を何度も確かめた。間違いではない。


 リンの字は、いつもより、すこし強かった。布に縫い込む時の針の運びが、急いていたのか。値を伝えるだけの便りなら、リンは、淡々と書く。麦、いくら。塩、いくら。けれど、その日の便りには、リンの戸惑いが、にじんでいた。値を読む目を持つ女が、自分の目で見た値を、信じきれずにいる。だから、何度も確かめた、と、わざわざ書いてきた。


  ◆  ◇


 壁の地図の前に、立った。


 南東の谷筋を、残った左の目で探す。北街道から、東の道へ折れて、さらに南へ下る。山と山に挟まれた、細い谷だ。いくつかの村が、その谷筋に、点として打ってある。どれも、これまで、私が気にもとめなかった、ただの小さな村だった。麦も、塩も、いつもどおりに流れていた、面の目立たない一隅。それが、急に、面の中で、ひとつだけ、ざわついていた。


 値が高くなるのには、たいてい、訳がある。不作なら、麦が減って、値が上がる。戦があれば、麦が止まって、値が上がる。道が荒れれば、運べなくなって、値が上がる。値の動きには、いつも、理由がある。ナダが、そう教えた。


 けれど、リンの便りには、その「何か」が書かれていなかった。


 不作ではない。戦もない。道も、荒れていない。なのに、麦だけが、跳ね上がっている。理由のない、値の動き。それが、リンの言う「おかしい」だった。値を読む目を持つ女が、理由を読み取れなかった。だから、おかしい、と書いてきた。


 理由のない値は、ない。


 ナダは、そう言った。値が動くなら、必ず、理由がある。理由が見えないのは、まだ、見えていないだけだ。海の値も、そうだった、とナダは言った。風がないのに、ある港だけ、魚が高い日がある。よく調べると、その港の網元が、漁を止めていたり、別の土地の買い手が、ひそかに買い占めていたりする。値の裏には、必ず、誰かの手がある。


 なら、その谷筋の麦の高さにも、人の手の理由が、あるはずだった。


  ◆  ◇


 ナダに、その話をした。


 ナダは、壁の地図の前に、杖をついて立ち、南東の谷筋を、しわがれた目で見た。


 「麦が、高い」


 ナダが、呟いた。


 「どのくらい、高え」


 「他の三倍、四倍だと、リンは言ってきた」


 私が答えると、ナダのしわの寄った目が、すこし細くなった。海を見ていた頃の鋭さが、戻ってきた。


 「三倍、四倍か」


 ナダは、地図のその点を、杖の先で軽く突いた。


 「不作なら、せいぜい、倍だ。倍を越えるのは、不作じゃ、ねえ」


 ナダの声が、低くなった。不作で麦が高くなっても、せいぜい、倍。それを越えて、三倍、四倍になるのは、不作のせいではない。では、何のせいか。ナダは、それを、すぐには言わなかった。ただ、地図の点を見ていた。


 「誰かが、握ってる、かもしれねえ」


 ナダが、ぽつりと、言った。


 握る。その言葉が、火の輪の上の空気を、すこし変えた。麦を、誰かが抱え込む。市に出さず、ためておく。出さなければ、麦は、減ったように見える。見えれば、値が上がる。麦は、減っていないのに、減ったことにして、値だけを釣り上げる。そういうことか。私が訊こうとした時、ナダは、首を横に振った。


 「いや、分からん。数で、確かめねえと」


 ナダは、地図から、目を離さなかった。老いた船乗りの目が、その点に、何か、ただならぬものを見ている。私には、まだ、それが何か分からなかった。けれど、ナダの目の険しさが、その「おかしい」が、ただの値の揺らぎではないことを告げていた。


  ◆  ◇


 数を集めた。


 リンに、頼んだ。市の町に集まる商人から、南東の谷筋の麦の値を、できるだけ集めてくれ、と。トビにも、頼んだ。屋根の道で、谷筋の村々の麦の値を、運んでくれ、と。サイにも、頼んだ。谷筋へ通じる道の荷の動きを、数えてくれ、と。散った三人が、それぞれの場所から、数を送ってきた。


 商館の室で、火を灯して、私とヒナと、ナダの三人で、数を見た。夜だった。外は、虫の音も絶えている。獣脂の灯りが、三人の顔と、帳簿の白い頁だけを、橙に浮かび上がらせていた。ヒナが、帳簿を開く。リンの集めた値。トビの運んだ値。サイの数えた荷の数。それが、一行ずつ、並んでいた。


 半年前。麦は、いつもどおりの値だった。それが、五月前から、すこしずつ、上がりはじめている。三月前には、倍になった。一月前には、三倍。そして、今は、四倍。値が、坂を登るように上がり続けていた。


 「不作なら」


 ナダが、帳簿を、しわがれた目で追いながら、言った。


 「いっぺんに、上がる。収穫が悪けりゃ、その年から、ぽんと、上がる。坂みてえに、じわじわ、上がりはせん」


 私は、その言葉を噛みしめた。この谷筋の麦は、じわじわと、坂を登るように上がっていた。半年かけて、四倍に。それは、不作の上がり方では、なかった。誰かが、すこしずつ、麦を抜いている。市に出る麦を、すこしずつ減らしていけば、値は、こういう上がり方をする。


  ◆  ◇


 けれど、と、ヒナが、帳簿の別の行を指した。


 「でも、麦は、足りてるはずなんです」


 ヒナの指が、サイの数えた荷の数をなぞった。谷筋へ通じる道を、麦を積んだ荷馬車が、いつもどおり通っている。荷の数は、減っていない。むしろ、すこし、増えている。麦を積んだ荷が、いつもどおり、いや、いつも以上に、谷筋へ入っている。


 麦は、入っている。なのに、値は、四倍。


 私は、その数を見つめた。麦が増えているのに、値が、四倍になっている。誰かが、すこしずつ抜いているにしても、入ってくる麦のほうが、多い。なら、谷筋には、麦が溢れているはずだ。麦が溢れていれば、値は、下がる。


 私は、帳簿の数を、もう一度、上から追った。半年分の麦の値。半年分の荷の数。リンが集め、トビが運び、サイが数えた、生きた数だった。三人とも、いいかげんな数を送ってくる者では、ない。サイは、荷馬車を、一台ずつ、目で数えた。リンは、商人の口から、値を、何度も確かめた。三人の数が、ぜんぶ、正しいなら。正しい数を並べた結果が、噛み合わないなら。歪んでいるのは、数の向こうにある、何かだった。荷の数では、測れないもの。値では、見えないもの。それが、麦と値の間に入り込んで、数をねじ曲げている。


 「妙だな」


 ナダが、低く、言った。老いた船乗りが、長い暮らしの中で、見たことのない値の動きだった。海の値も、川の値も、土地の値も、ナダは、ぜんぶ、頭に入れていた。けれど、この谷筋の麦の値は、ナダの知っている、どの理由にも当てはまらなかった。


 いや、確かめたからこそ、分からなくなった。勘で「おかしい」と思っていたものが、数で見ると、もっと、おかしかった。麦が入っているのに、値が上がる。その歪みは、勘では、見えなかった。数を、並べて、初めて見えた。


  ◆  ◇


 その夜、私は、壁の地図の前に、また、ひとりで立った。


 南東の谷筋の点を、手燭の火で照らす。橙の光の中で、その点だけが、面の中で、ぽつりと、おかしな色をしていた。ほかの点は、滞りなく、物と銀を流している。けれど、その点だけは、麦を飲み込んで、値だけを吐き出していた。


 誰かが、その谷筋で、何かを、している。それは、確かだった。麦が入って、値が上がる。それは、ひとりでに起きることでは、ない。誰かの手が、その間に入っている。けれど、その誰かが、何者で、なぜ、そんなことをしているのか。それは、数では、分からなかった。


 ナダが「握る」と言った。誰かが、麦を抱え込んでいる。けれど、麦は、谷筋に入り続けている。入った麦は、どこへ消えたのか。抱え込まれた麦は、どこにためられているのか。市に出ない麦は、目には見えない。荷の数は、サイが数えた。けれど、谷筋に入ったあとの麦が、どこへ行くかは、サイの目にも届かなかった。麦は、谷筋に入り、それきり、消えていた。値だけを、残して。


 穴の底で、私は、減っていく仲間を数えた。十二、十一、十。数は、減るのが見えた。けれど、谷筋の麦は、数えても、減らない。入っているのに、市から消えている。底では、確かに、ひとつずつ岩になっていった。その死は、数えられた。けれど、この谷筋では、数えられないところで、麦が消えている。数えられない死が、その谷筋に、忍び寄っているような気がした。麦が消えれば、買えない者が、出る。買えない者は、飢える。けれど、それは、まだ、私の見ていない、先のことだった。


 私は、面の網を、二年かけて編んできた。物が流れ、銀が回り、便りが走る、面の網を。その網のおかげで、こんな遠い谷筋の麦の値の歪みまで、私の手元に届いた。網がなければ、こんな歪みには、気づきもしなかった。


 面が、歪みを、見つけた。


 けれど、見つけただけだ。理由は、まだ、見えない。


 私は、手燭の火を、その点に近づけた。橙の光が、谷筋の点を照らす。麦が入って、値が上がる、説明のつかない点を。その点の奥に、何かが隠れていた。何か、まだ、見えないものが。網を、もっと、その点へ向けてたどっていけば、いつか、その隠れたものが見えるかもしれなかった。


 糸を、その歪みへ、結びに、行く。


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