第7話「ひとりに、なる」
散る三人に、木札を渡したことを、書く。
いまなら、書ける。
あの木札が、何だったのか。
あの時の私は、ただ、別れのしるしとして木札を削った。
輪の印を刻んで、散る三人に、一枚ずつ渡した。
いつか、火の輪の下で。
そう言って、渡した。
それだけのことだ、と、その時は思っていた。
けれど、九十年も経って、いまになって分かることがある。
あの木札は、私が、初めて作った、「失うためでない別れ」の形だった。
穴の底で、私は、別れに、しるしを残す暇がなかった。
誰かが、岩になる。
布を分け、寝床を均し、それで、終わりだ。
しるしも、約束も、何も、残らなかった。
もう一度会おう、という言葉さえなかった。
会えるはずがなかったからだ。
死んだ者とは、二度と会えない。
だから、穴の別れには、木札が要らなかった。
要るはずがなかった。
けれど、この別れは違った。
サイは死んでいない。
リンも、トビも、死んでいない。
それぞれの土地で生きている。
だから、また会える。
いつか、どこかの火の輪の下で。
その「いつか」のために、木札が要った。
再び会う時のしるしとして。
木札は、また会えるという約束だった。
死んだ者には渡せないものだった。
失うための別れには、しるしは要らない。
失うためでない別れには、しるしが要る。
その違いを、私は、木札を削りながら、手で覚えていった。
穴の別れと、この別れの違いを。
あの時は、まだ、言葉にできなかった。
ただ、なんとなく、木札が要る、と思った。
輪の印を、刻まなければ、と思った。
なぜそう思ったのか、その時は分からなかった。
いまなら、分かる。
私は、失うためでない別れのしるしを作っていたのだ。
生まれて、初めて。
◆ ◇
三人が散った夜、私は、火の輪を抜け出した。
みんなが寝静まった後だ。
ガロが、最後の薪をくべて、火の番をネネに代わる。
ナダは、もう眠っている。
ヒナは、数えの木札を抱えて、寝床に入った。
火の輪に、起きているのは、火の番のネネだけになった。
私は、樫の棒を手に取って、塒を出た。
崩れた塔のほうへ歩いた。
見張りの石積みを崩した、あの塔だ。
今は、ただの崩れた石になっている。
その崩れた石の上に、私は、腰を下ろした。
丘の上のいちばん高いところだ。
街道が、闇の中に、灰色の帯になって、伸びている。
星が出ていた。
夜風が、丘を吹き上がってくる。
昼の名残の温もりは、もう、石にはない。
腰の下の石は、夜の冷たさを吸っていた。
その冷たさが、尻から、背へ、ゆっくりと上ってくる。
頭の上には、星ばかりが、瞬いている。
誰もいない。
火の輪の温もりも、ここまでは届かない。
ひとりだった。
ひとりになった。
リンの処方を思い出した。
ひとりになってから、泣きな、と。
ちゃんと、泣きな、と。
人を読む女の別れの処方だった。
私は、ひとりになった。
火の輪から離れた。
誰も見ていない。
崩れた塔の上で、星の下で、私はひとりだった。
けれど、涙は、すぐには出なかった。
穴の底で覚えた体は、泣くことを忘れていた。
泣けば、隙ができる。
隙は命取りになる。
だから、泣かない。
それが、体に染みついていた。
ひとりになっても、その体は、なかなか緩まなかった。
樫の棒を、膝の上に置いて、握りの灰の字を、てのひらでなぞった。
あると知っている重さが、すこしだけ重い。
サイの背中を思い出した。
一度も振り返らずに、まっすぐ、東へ歩いていった、あの背中。
それから、リンの上げた手。
さよならではない、またね、という手。
それから、トビの何度も振り返った、あの手。
ぶんぶんと振った、応えのいらない手。
三人の散り方を、ひとつずつ思い出した。
みんな、笑って、行った。
私も、笑って、見送った。
泣かなかった。
サイが振り返らないのだから、私も泣かない。
リンが手を上げるなら、私も心で応える。
トビが惜しむなら、私も惜しむ。
けれど、人前では泣かなかった。
最初の別れを、私は、笑って見送った。
その笑って見送った顔のその下に。
ずっと、溜めていたものがあった。
星の下で、ひとり、私は、ようやくそれを出した。
涙が、出た。
残った左の目から、ひとすじ、こぼれた。
たったひとつの目だ。
両の目で泣くこともできない。
ひとつの目から、ひとすじだけ。
けれど、それは、確かに涙だった。
穴の底で忘れた体が、四十になって、ようやく思い出した涙だった。
声は出さなかった。
嗚咽もない。
肩を震わせもしない。
ただ、たったひとつの目から、涙が、ひとすじ、頬をつたって落ちる。
それだけだ。
誰も見ていない、崩れた塔の上で、星の下で、私は、ひとすじだけ泣いた。
悲しくて、泣いたのではなかった。
いや、悲しくもあった。
けれど、それだけではなかった。
私が泣いたのは、たぶん、嬉しかったからだ。
笑って、別れることができたから。
また会える別れを作れたから。
木札を渡せたから。
穴の底では、一度もできなかったことを、四十になって、初めてできたから。
失うためでない別れを、私は、初めて知った。
穴の底で覚えた別れはもぎ取られる別れだった。
いっぺんに、十二人を失った、あの冬の別れ。
抗うこともできず、見送る暇もなく、ただ、奪われた。
あれが、私の知っている、唯一の別れだった。
だから、私は、ずっと恐れていた。
八人を得てからも、いつか、またあの冬が来るのではないかと。
けれど、この別れは違った。
自分で、決めた。
自分の手で、木札を削った。
笑って、送り出した。
いつか、また会おうと、約束した。
失うのではない。
送り出したのだ。
もぎ取られたのではない。
手放したのだ。
それも、二度と会えない手放しではなく、また会うための手放しだった。
そういう別れが、この世にあることを。
私は、四十になって、初めて知った。
だから、泣いた。
悲しくて、ではなく。
失うためでない別れを、ようやく知ったから。
その嬉しさと、寂しさの混じったものが、たったひとつの目から、ひとすじ、こぼれた。
穴の底で枯れた涙が、四十年かかって、もう一度湧いた。
◆ ◇
涙は、ひとすじで止まった。
私は、頬を、てのひらで拭った。
たったひとつの手で。
それから、星を見上げた。
穴の底からは見えなかった星だ。
穴の底には、空がなかった。
星も、月も、なかった。
ただ、岩の天井があるだけだった。
今、私は、丘の上で星を見ている。
それだけで、生き延びた甲斐が、あったような気がした。
生きろ、と言われて。
私は、こうして、生きた。
穴の底で、子供が言った言葉だ。
お前は、生きろ。
俺の、分まで。
あの言葉に従って、私は生きた。
そして、四十になって、星の下で泣いている。
失うためでない別れを、知って、泣いている。
あの子供が、これを見たら、なんと言うだろう。
たぶん、何も言わない。
ただ、生きていることを、よし、とするだろう。
私は立ち上がった。
樫の棒を、手に取って。
崩れた塔を下りた。
火の輪へ戻る。
火の番のネネが、私をちらりと見た。
けれど、何も言わなかった。
私が泣いたことを、ネネは、たぶん気づいた。
布をかぶった女は、人の気配に敏い。
けれど、何も言わずに、火に薪を足した。
それで、足りた。
明日からは、商館を作る。
失うためでない別れを、私は、もう知っている。
だから、もう恐れない。
誰かが散っても、また会える。
木札さえあれば。
私たちは、もう、奪う手ではなかった。
失うためでない別れを知った。
穴の底のあの冬とは違う別れを。
私は、火の輪のそばに、樫の棒を立てた。
握りの灰の字が、火明かりに、ほのかに見えた。
しまわれたままの名だ。
いつか、取り出す日が来る。
その日まで、私は、名のない隻腕の女として、土地から土地へ銀を回す。
散った三人をつなぎながら。
火が、ゆっくりと燃えていた。
ネネが守る火だ。
ガロが、明日も熾す火だ。
二十年、消えなかった火。
その火を、これからも絶やさない。
散った者が、いつか戻る時の目印として。
火の輪の下で、また会うためのしるしとして。
散る三人は、散った。
残る五人は、残った。
けれど、どちらも別れたのではない。
木札でつながっている。
いつか、また、火の輪の下で。
奪われた者が、つながるために、散る。
失うためではなく。
もぎ取られるためでもなく。
また会うために、それぞれの方角へ。
散りに、行く。





