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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第7話「ひとりに、なる」


 散る三人に、木札を渡したことを、書く。


 いまなら、書ける。


 あの木札が、何だったのか。


 あの時の私は、ただ、別れのしるしとして木札を削った。


 輪の印を刻んで、散る三人に、一枚ずつ渡した。


 いつか、火の輪の下で。


 そう言って、渡した。


 それだけのことだ、と、その時は思っていた。


 けれど、九十年も経って、いまになって分かることがある。


 あの木札は、私が、初めて作った、「失うためでない別れ」の形だった。


 穴の底で、私は、別れに、しるしを残す暇がなかった。


 誰かが、岩になる。


 布を分け、寝床を均し、それで、終わりだ。


 しるしも、約束も、何も、残らなかった。


 もう一度会おう、という言葉さえなかった。


 会えるはずがなかったからだ。


 死んだ者とは、二度と会えない。


 だから、穴の別れには、木札が要らなかった。


 要るはずがなかった。


 けれど、この別れは違った。


 サイは死んでいない。


 リンも、トビも、死んでいない。


 それぞれの土地で生きている。


 だから、また会える。


 いつか、どこかの火の輪の下で。


 その「いつか」のために、木札が要った。


 再び会う時のしるしとして。


 木札は、また会えるという約束だった。


 死んだ者には渡せないものだった。


 失うための別れには、しるしは要らない。


 失うためでない別れには、しるしが要る。


 その違いを、私は、木札を削りながら、手で覚えていった。


 穴の別れと、この別れの違いを。


 あの時は、まだ、言葉にできなかった。


 ただ、なんとなく、木札が要る、と思った。


 輪の印を、刻まなければ、と思った。


 なぜそう思ったのか、その時は分からなかった。


 いまなら、分かる。


 私は、失うためでない別れのしるしを作っていたのだ。


 生まれて、初めて。


  ◆  ◇


 三人が散った夜、私は、火の輪を抜け出した。


 みんなが寝静まった後だ。


 ガロが、最後の薪をくべて、火の番をネネに代わる。


 ナダは、もう眠っている。


 ヒナは、数えの木札を抱えて、寝床に入った。


 火の輪に、起きているのは、火の番のネネだけになった。


 私は、樫の棒を手に取って、塒を出た。


 崩れた塔のほうへ歩いた。


 見張りの石積みを崩した、あの塔だ。


 今は、ただの崩れた石になっている。


 その崩れた石の上に、私は、腰を下ろした。


 丘の上のいちばん高いところだ。


 街道が、闇の中に、灰色の帯になって、伸びている。


 星が出ていた。


 夜風が、丘を吹き上がってくる。


 昼の名残の温もりは、もう、石にはない。


 腰の下の石は、夜の冷たさを吸っていた。


 その冷たさが、尻から、背へ、ゆっくりと上ってくる。


 頭の上には、星ばかりが、瞬いている。


 誰もいない。


 火の輪の温もりも、ここまでは届かない。


 ひとりだった。


 ひとりになった。


 リンの処方を思い出した。


 ひとりになってから、泣きな、と。


 ちゃんと、泣きな、と。


 人を読む女の別れの処方だった。


 私は、ひとりになった。


 火の輪から離れた。


 誰も見ていない。


 崩れた塔の上で、星の下で、私はひとりだった。


 けれど、涙は、すぐには出なかった。


 穴の底で覚えた体は、泣くことを忘れていた。


 泣けば、隙ができる。


 隙は命取りになる。


 だから、泣かない。


 それが、体に染みついていた。


 ひとりになっても、その体は、なかなか緩まなかった。


 樫の棒を、膝の上に置いて、握りの灰の字を、てのひらでなぞった。


 あると知っている重さが、すこしだけ重い。


 サイの背中を思い出した。


 一度も振り返らずに、まっすぐ、東へ歩いていった、あの背中。


 それから、リンの上げた手。


 さよならではない、またね、という手。


 それから、トビの何度も振り返った、あの手。


 ぶんぶんと振った、応えのいらない手。


 三人の散り方を、ひとつずつ思い出した。


 みんな、笑って、行った。


 私も、笑って、見送った。


 泣かなかった。


 サイが振り返らないのだから、私も泣かない。


 リンが手を上げるなら、私も心で応える。


 トビが惜しむなら、私も惜しむ。


 けれど、人前では泣かなかった。


 最初の別れを、私は、笑って見送った。


 その笑って見送った顔のその下に。


 ずっと、溜めていたものがあった。


 星の下で、ひとり、私は、ようやくそれを出した。


 涙が、出た。


 残った左の目から、ひとすじ、こぼれた。


 たったひとつの目だ。


 両の目で泣くこともできない。


 ひとつの目から、ひとすじだけ。


 けれど、それは、確かに涙だった。


 穴の底で忘れた体が、四十になって、ようやく思い出した涙だった。


 声は出さなかった。


 嗚咽もない。


 肩を震わせもしない。


 ただ、たったひとつの目から、涙が、ひとすじ、頬をつたって落ちる。


 それだけだ。


 誰も見ていない、崩れた塔の上で、星の下で、私は、ひとすじだけ泣いた。


 悲しくて、泣いたのではなかった。


 いや、悲しくもあった。


 けれど、それだけではなかった。


 私が泣いたのは、たぶん、嬉しかったからだ。


 笑って、別れることができたから。


 また会える別れを作れたから。


 木札を渡せたから。


 穴の底では、一度もできなかったことを、四十になって、初めてできたから。


 失うためでない別れを、私は、初めて知った。


 穴の底で覚えた別れはもぎ取られる別れだった。


 いっぺんに、十二人を失った、あの冬の別れ。


 抗うこともできず、見送る暇もなく、ただ、奪われた。


 あれが、私の知っている、唯一の別れだった。


 だから、私は、ずっと恐れていた。


 八人を得てからも、いつか、またあの冬が来るのではないかと。


 けれど、この別れは違った。


 自分で、決めた。


 自分の手で、木札を削った。


 笑って、送り出した。


 いつか、また会おうと、約束した。


 失うのではない。


 送り出したのだ。


 もぎ取られたのではない。


 手放したのだ。


 それも、二度と会えない手放しではなく、また会うための手放しだった。


 そういう別れが、この世にあることを。


 私は、四十になって、初めて知った。


 だから、泣いた。


 悲しくて、ではなく。


 失うためでない別れを、ようやく知ったから。


 その嬉しさと、寂しさの混じったものが、たったひとつの目から、ひとすじ、こぼれた。


 穴の底で枯れた涙が、四十年かかって、もう一度湧いた。


  ◆  ◇


 涙は、ひとすじで止まった。


 私は、頬を、てのひらで拭った。


 たったひとつの手で。


 それから、星を見上げた。


 穴の底からは見えなかった星だ。


 穴の底には、空がなかった。


 星も、月も、なかった。


 ただ、岩の天井があるだけだった。


 今、私は、丘の上で星を見ている。


 それだけで、生き延びた甲斐が、あったような気がした。


 生きろ、と言われて。


 私は、こうして、生きた。


 穴の底で、子供が言った言葉だ。


 お前は、生きろ。


 俺の、分まで。


 あの言葉に従って、私は生きた。


 そして、四十になって、星の下で泣いている。


 失うためでない別れを、知って、泣いている。


 あの子供が、これを見たら、なんと言うだろう。


 たぶん、何も言わない。


 ただ、生きていることを、よし、とするだろう。


 私は立ち上がった。


 樫の棒を、手に取って。


 崩れた塔を下りた。


 火の輪へ戻る。


 火の番のネネが、私をちらりと見た。


 けれど、何も言わなかった。


 私が泣いたことを、ネネは、たぶん気づいた。


 布をかぶった女は、人の気配に敏い。


 けれど、何も言わずに、火に薪を足した。


 それで、足りた。


 明日からは、商館を作る。


 失うためでない別れを、私は、もう知っている。


 だから、もう恐れない。


 誰かが散っても、また会える。


 木札さえあれば。


 私たちは、もう、奪う手ではなかった。


 失うためでない別れを知った。


 穴の底のあの冬とは違う別れを。


 私は、火の輪のそばに、樫の棒を立てた。


 握りの灰の字が、火明かりに、ほのかに見えた。


 しまわれたままの名だ。


 いつか、取り出す日が来る。


 その日まで、私は、名のない隻腕の女として、土地から土地へ銀を回す。


 散った三人をつなぎながら。


 火が、ゆっくりと燃えていた。


 ネネが守る火だ。


 ガロが、明日も熾す火だ。


 二十年、消えなかった火。


 その火を、これからも絶やさない。


 散った者が、いつか戻る時の目印として。


 火の輪の下で、また会うためのしるしとして。


 散る三人は、散った。


 残る五人は、残った。


 けれど、どちらも別れたのではない。


 木札でつながっている。


 いつか、また、火の輪の下で。


 奪われた者が、つながるために、散る。


 失うためではなく。


 もぎ取られるためでもなく。


 また会うために、それぞれの方角へ。


 散りに、行く。

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