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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第8話「奪う目、回す目」


 盗賊の塒を、商館に変えはじめた朝のことを、書く。


 散る三人を見送ったあと、丘の上には五人が残った。


 ガロ、ナダ、ネネ、ヒナ、そして私だ。


 八人だった火の輪が、五人になった。


 けれど、その五人は、欠けたとは思わなかった。


 散った三人は、各地の結び目に立つために出ていったのだ。


 失ったのではない。


 先に、伸ばしただけだった。


 残った五人で、私たちは、廃砦を商館に変える仕事にかかった。


 商館などというものを、私は見たこともなかった。


 穴の底で生まれ、盗賊として育った私に、商人の家がどういうものかなど、分かるはずもない。


 けれど、ナダがいた。


 元は船乗りで、港の商館をいくつもその目で見てきた男だ。


「商館ってのは、人と物が、出たり入ったりする箱だ」


 ナダは、杖の先で、崩れた壁の輪郭をなぞった。


「奥に蔵がいる。表に、人を入れる土間がいる。荷を上げ下ろしする庭がいる。それだけだ。難しかねえ」


 難しくはない、とナダは言った。


 けれど、それを一から作るのは、易しくはなかった。


 まず、塒の名残を消さなければならなかった。


 盗賊の塒には、盗賊の癖がある。


 崩れた壁の蔭に、ひとを待ち伏せる窪みが掘ってある。


 北の岩肌には、追っ手の数を読むための物見の段がある。


 地下の室には、得物を隠す乾いた棚が並んでいる。


 そういうものは、すべて、人を襲うためのものだ。


 商館には要らない。


 それどころか、置いておけば、いつか誰かに読まれる。


 ここは盗賊の巣だったと。


 待ち伏せの窪みを、私は土で埋めた。


 崩れた壁の蔭に、人ひとりが身を伏せられる窪みがある。


 街道から上がってきた者の横腹を突くための窪みだ。


 私が掘らせた窪みだった。


 二十年、この窪みは、不意打ちのための場所だった。


 誰かがここに伏せて、息を殺し、相手が通り過ぎる、その横を突く。


 その窪みへ、たったひとつの手で丘の斜面の乾いた土を掻き寄せ、落としていく。


 掻いては落とし、また掻いては落とす。


 土は乾いて、指の間からこぼれる。


 爪の先に、土が詰まっていく。


 三本の指と親指で、何度も掻かなければ、窪みは埋まらない。


 腕が一本しかないから、籠で運ぶこともできない。


 だから、すこしずつだった。


 夏の終わりの日が、首の後ろを、じりじりと焼く。


 汗が、背を伝う。


 乾いた土埃が、その汗に貼りついて、腕が、泥の色になっていった。


 掻いても掻いても、窪みは、なかなか浅くならない。


 それでも、手を動かし続けた。


 半日かけて、ひとつの窪みを、ただの斜面に戻した。


 窪みが埋まると、丘の蔭は、ただの斜面になった。


 もう、誰も、ここに伏せない。


 不意打ちのための場所が、消えた。


 商館には、人を待ち伏せる窪みは、要らない。


 商館は、人を迎え入れる場所だ。


 待ち伏せて突くのではなく、迎え入れて、取引する場所。


 窪みを埋めるのは、そのいちばん初めの仕事だった。


  ◆  ◇


 昼を過ぎて、私は、地下の室へ下りた。


 崩れた床の隅の狭い石段だ。


 その先に、ひんやりした室がある。


 得物をしまっていた室だ。


 今はもう、武具は片づいた。


 売れるものは束ねて庭へ運び、屑は屑として積んである。


 室は、がらんとして、湿った石の匂いだけが残っていた。


 その室を、ナダが、蔵にすると言った。


「ここなら、夏でも涼しい。麦も、油も、傷みにくい。地下の蔵は、いい蔵だ」


 ナダは、壁を手で叩いて、湿り具合を確かめた。


 船乗りの手だ。


 荷がどこで傷むかを、その手で覚えてきた男の手だった。


 得物を隠す棚を、私たちは、荷を置く棚に作り変えた。


 ガロが、板の高さを直し、湿気の上がる下の段を取り払う。


 麦の袋が、地から離れていれば、湿気を吸いにくい。


 ネネが、室の隅に溜まった古い藁を掻き出し、新しい乾いた藁を敷く。


 ヒナが、棚に何が幾つ置けるかを、木札に数えていく。


 私は、できることをやった。


 軽い板の端を押さえ、藁の束を運び、ヒナの数えの相手をする。


 たったひとつの手で足りないところは、肩で、腰で、体の重さで補う。


 穴の底からのいつもの補い方だった。


 室の隅に、得物を隠す乾いた棚があった。


 その同じ場所に、麦を置く棚ができていく。


 奪った物を隠す場所が、買った物を置く場所に変わる。


 それは、奇妙なことだった。


 同じ石の室で、同じ棚を、私たちは別のことに使いはじめていた。


 隠すための棚が、回すための棚になる。


 盗賊の蔵が、商人の蔵になる。


 場所は変わらないのに、そこに置くものと、置く理由が変わっていく。


  ◆  ◇


 夕方、私は、崩れた塔の上に立った。


 二十年、見張りが立っていた塔だ。


 今はもう、見張りの石積みは崩した。


 ただの欠けた石の塔に戻っている。


 けれど、丘の上のいちばん高いところだから、街道がよく見えた。


 北街道が一筋、灰色の帯になって、夕闇に沈んでいく。


 その帯を、私は残った左の目でしばらく見ていた。


 昔は、この街道を、襲う相手として見ていた。


 どの荷馬車が銀を積んでいるか。


 どの護送の列が手薄か。


 月のない夜なら、どこで待ち伏せられるか。


 街道は、獲物の通る道だった。


 けれど、これからは、違う。


 この街道を、私は荷を運ぶ道として見ることになる。


 どの宿場に何が足りないか。


 どの関所で何が高いか。


 塩を積んで上れば、どこで売れるか。


 同じ街道が、獲物の道から、商いの道に変わる。


 見るものは、同じだ。


 荷馬車の砂埃、宿場の灯り、関所の旗。


 けれど、その同じものを、私は別の目で見はじめていた。


 奪う目から、回す目へ。


 荷馬車の砂埃を見れば、昔の私は何を積んでいるかを読んだ。


 重そうな轍なら、銀か、鉄か。


 軽い轍なら、布か、麦か。


 それは、襲うべき荷かどうかを見極めるための読みだった。


 今は、違う。


 同じ轍を見て、私は、どこから来てどこへ行く荷かを考える。


 何が、どこで余り、どこで足りないか。


 荷の流れを、読む。


 襲うためではなく、その流れに、自分も加わるために。


 塔を下りると、火の輪に、四つの顔が揃っていた。


 ガロが火を熾し、ナダが杖に顎を乗せて目を閉じ、ネネが繕い物の手を動かし、ヒナが木札に今日の数えを刻んでいる。


 八人だった輪が、五人になった。


 けれど、火だけは、二十年、変わらずに燃えていた。


 私は、その火のそばに座った。


 奪う塒を、回す商館に。


 その変わり目に、立派な式も、誓いの言葉もない。


 あったのは、窪みを埋め、棚を作り変え、街道を別の目で見はじめる、長い一日の地味な手仕事だけだった。


 火が、ゆっくりと、燃えていた。


  ◆  ◇


 商館を建てる、その最初の仕事は、銀の名を消すことだった。


 第一章で、私は塔の下から三つの革袋を掘り出した。


 二十年分の蓄えだ。


 その多くに、役所の刻みが打ってあった。


 どこの役所が、いつ鋳たか。


 小さな印が、銀の表に語っている。


 名のある銀だ。


 名のある銀は、そのままでは市で使えない。


 市に出せば、いずれその刻みが読まれる。


 盗まれた銀がここにある、と。


 だから、火に入れる。


 溶かして、刻みを消し、ただの銀の塊にする。


 名のない銀にする。


 その火を熾す日が、来た。


 ガロが、庭の隅に、火床を据えた。


 石を組んで、底を粘土で固めた、低い炉だ。


 ガロが、丸一日かけて、組み上げた。


 鍛冶の手だ。


 火を扱うことだけは、この老いた男から、誰も奪えなかった。


 穴は、ガロの名を奪い、自由を奪った。


 けれど、火を扱う手だけは、奪えなかった。


 今、その手は丘の上で、銀を溶かす炉を組んでいた。


 鍛冶の火だ。


 ただの煮炊きの火とは、ちがう。


 煮炊きの火は、鍋を温められればいい。


 けれど、銀を溶かすには、もっと高い火が要る。


 固い金属を液にするほどの、熱が要る。


 ガロは、まず炭を選んだ。


 乾いた、火持ちのいい炭だ。


 湿った炭は、煙ばかりで、温くならない。


 ガロは、炭の一片を指で弾いて、音を聞いた。


 乾いた炭は、高い音がする。


 湿った炭は、鈍い音がする。


 音で、炭の乾きを見分けていた。


 選んだ炭を、火床に積み、下から鞴で風を送る。


 鞴は、ガロが組んだものだった。


 革と板でできた、空気を押し出す袋だ。


 柄を押せば、革の袋が縮んで、先の穴から風が出る。


 引けば、袋が膨らんで、また空気を吸う。


 その風を、火の根元へ吹き込む。


 風を送られた炭は、橙から黄に近い色へ、燃え上がっていく。


「火を、見てろ」


 ガロが、私に言った。


「色で、温さが分かる。赤いうちは、ぬるい。黄っぽくなったら、銀が溶ける」


 私は、火の色を残った左の目で見ていた。


 炭が、息を吹き返すように、色を変えていく。


 赤から、橙へ。


 橙から、明るい黄へ。


 鞴が風を送るたびに、火の根元が、ふっと白っぽく光る。


 熱が、顔の正面をじりじりと押してくる。


 眉のあたりが、乾いていく。


 これが、銀を溶かす火か。


 私は、その熱を肌で覚えた。


 坩堝を、ガロが火の中に据えた。


 粘土を焼いて作った、小さな壺だ。


 その中へ、名のある銀を入れていく。


 ヒナが、銀をひとつかみずつ、ガロの手元へ運ぶ。


 私は、その銀の数をヒナと一緒に数えた。


 何枚を火に入れたか。


 後で、溶けた塊の目方と、突き合わせるためだ。


 火の中で、銀が、変わりはじめた。


  ◆  ◇


 はじめ、銀は、ただ赤く焼けていた。


 炭の色を映して、表が橙に光るだけだ。


 けれど、火が高くなるにつれて、銀の縁がすこし丸くなってきた。


 角がとろけるように、なめらかになっていく。


 次に、表が、つやを帯びた。


 固い金属の表が、濡れたように光りはじめる。


 そして、銀が、崩れた。


 形が、ふいに失われた。


 一枚一枚だった銀が、坩堝の底で、ひとつの明るい池になった。


 どろりとした、白く光る液だ。


 火の色を吸って、表が、ゆらゆらと揺れている。


 重そうに、けれど、たしかに液だった。


 固いはずの銀が、火の中で、水のように動いている。


 私は、その池を見つめていた。


 明るい液が、私の顔を、下から照らす。


 残った左の目に、その熱い光が映った。


 熱が、まつげを焦がしそうなほど、近い。


 溶けた銀は、息をするように、ゆっくりと、表を波打たせている。


 刻みは、もう、どこにもなかった。


 どこの役所が鋳たか。


 どの帳面に載った銀か。


 あの小さな印は、溶けて、消えた。


 役所の名も、領主の印も、盗まれた夜の記憶も、すべて明るい池の中に沈んで、見えなくなった。


 名のある銀が、名のない液に、なった。


 名は、火で、平らになる。


 第一章の夕方、私は夕日の前で、刻みのあるなしが見えなくなるのを見た。


 火に入れてしまえば、どちらも区別がつかなくなる、と思った。


 今、それが、本当になっていた。


 火は、すべての名を、平らに溶かす。


 盗んだ銀も、稼いだ銀も、火の中では、同じ、ただの溶けた銀だ。


 ガロが、坩堝を火から引き上げた。


 長い火箸で坩堝の縁を挟み、ゆっくりと傾ける。


 明るい液が、用意した型へ、細い糸になって流れ落ちた。


 型は、土を掘って作った、浅い溝だ。


 液は、溝の底でゆっくりと広がり、止まった。


 表が、見る間に、つやを失っていく。


 明るい黄から、鈍い灰色へ。


 液が、冷えて、固まっていく。


 しばらくして、ガロが、それを型から外した。


 銀の塊だった。


 刻みのない、のっぺりとした塊だ。


 表には、型の溝の跡だけが残っている。


 役所の印も、帳面の名も、もう、どこにもない。


 名のない銀だ。


 誰のものでもない。


 誰のものでもない銀は、誰にでも使える。


 私は、その塊をてのひらに載せた。


 ガロが、布で挟んで、渡してくれた。


 まだ、素手では持てないほど、熱い。


 布越しでも、熱がてのひらに、じんわりと伝わってくる。


 指の節が、その熱を吸う。


 第一章で、私はこの同じ銀を、冷たい刻みつきの一枚として、革袋へ拾い集めた。


 あの時の冷たさを、私は覚えている。


 今、それが温い塊になって、私のてのひらにある。


 冷たかった銀が、火を通って、温い塊になった。


 同じ銀だ。


 けれど、もう、奪った銀ではない。


 名を消した銀だ。


 これから回していく、回る銀の最初の塊だった。


  ◆  ◇


 ガロが、塊をもうひとつ作った。


 さらに、もうひとつ。


 名のある銀の山が、すこしずつ、低くなっていく。


 代わりに、名のない塊が布の上に、ひとつ、またひとつと並んでいった。


 一日では、終わらなかった。


 火を絶やさず、炭を足し、坩堝を何度も傾ける。


 地味な、繰り返しの仕事だ。


 溶かせば、目減りはした。


 ガロが言ったとおりだ。


 火に入れれば、いくらかは煙になり、坩堝の縁に残り、失われる。


 溶かす前の銀の目方と、溶けた塊の目方を、ヒナが木札に並べて、突き合わせる。


 目方は、すこし、減っていた。


「これだけ、減ったか」


 私が言うと、ガロは、火を見たまま頷いた。


「火に入れりゃ、減る。だが、刻みつきを抱えてるよりは、安い」


 安い代価だ。


 火で失う銀のほうが、読まれて失うものより、ずっと安い。


 布の上に、名のない銀の塊が、並んでいた。


 盗んだ金が、回る金に、なった。


 その変わり目を、私は坩堝の火の前で、たしかに見た。


 火の色が赤から黄に変わり、銀が崩れて液になり、刻みが消えて、塊になる。


 奪う手で集めた銀が、火を通って、回す手の元手に、変わっていった。

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