第8話「奪う目、回す目」
盗賊の塒を、商館に変えはじめた朝のことを、書く。
散る三人を見送ったあと、丘の上には五人が残った。
ガロ、ナダ、ネネ、ヒナ、そして私だ。
八人だった火の輪が、五人になった。
けれど、その五人は、欠けたとは思わなかった。
散った三人は、各地の結び目に立つために出ていったのだ。
失ったのではない。
先に、伸ばしただけだった。
残った五人で、私たちは、廃砦を商館に変える仕事にかかった。
商館などというものを、私は見たこともなかった。
穴の底で生まれ、盗賊として育った私に、商人の家がどういうものかなど、分かるはずもない。
けれど、ナダがいた。
元は船乗りで、港の商館をいくつもその目で見てきた男だ。
「商館ってのは、人と物が、出たり入ったりする箱だ」
ナダは、杖の先で、崩れた壁の輪郭をなぞった。
「奥に蔵がいる。表に、人を入れる土間がいる。荷を上げ下ろしする庭がいる。それだけだ。難しかねえ」
難しくはない、とナダは言った。
けれど、それを一から作るのは、易しくはなかった。
まず、塒の名残を消さなければならなかった。
盗賊の塒には、盗賊の癖がある。
崩れた壁の蔭に、ひとを待ち伏せる窪みが掘ってある。
北の岩肌には、追っ手の数を読むための物見の段がある。
地下の室には、得物を隠す乾いた棚が並んでいる。
そういうものは、すべて、人を襲うためのものだ。
商館には要らない。
それどころか、置いておけば、いつか誰かに読まれる。
ここは盗賊の巣だったと。
待ち伏せの窪みを、私は土で埋めた。
崩れた壁の蔭に、人ひとりが身を伏せられる窪みがある。
街道から上がってきた者の横腹を突くための窪みだ。
私が掘らせた窪みだった。
二十年、この窪みは、不意打ちのための場所だった。
誰かがここに伏せて、息を殺し、相手が通り過ぎる、その横を突く。
その窪みへ、たったひとつの手で丘の斜面の乾いた土を掻き寄せ、落としていく。
掻いては落とし、また掻いては落とす。
土は乾いて、指の間からこぼれる。
爪の先に、土が詰まっていく。
三本の指と親指で、何度も掻かなければ、窪みは埋まらない。
腕が一本しかないから、籠で運ぶこともできない。
だから、すこしずつだった。
夏の終わりの日が、首の後ろを、じりじりと焼く。
汗が、背を伝う。
乾いた土埃が、その汗に貼りついて、腕が、泥の色になっていった。
掻いても掻いても、窪みは、なかなか浅くならない。
それでも、手を動かし続けた。
半日かけて、ひとつの窪みを、ただの斜面に戻した。
窪みが埋まると、丘の蔭は、ただの斜面になった。
もう、誰も、ここに伏せない。
不意打ちのための場所が、消えた。
商館には、人を待ち伏せる窪みは、要らない。
商館は、人を迎え入れる場所だ。
待ち伏せて突くのではなく、迎え入れて、取引する場所。
窪みを埋めるのは、そのいちばん初めの仕事だった。
◆ ◇
昼を過ぎて、私は、地下の室へ下りた。
崩れた床の隅の狭い石段だ。
その先に、ひんやりした室がある。
得物をしまっていた室だ。
今はもう、武具は片づいた。
売れるものは束ねて庭へ運び、屑は屑として積んである。
室は、がらんとして、湿った石の匂いだけが残っていた。
その室を、ナダが、蔵にすると言った。
「ここなら、夏でも涼しい。麦も、油も、傷みにくい。地下の蔵は、いい蔵だ」
ナダは、壁を手で叩いて、湿り具合を確かめた。
船乗りの手だ。
荷がどこで傷むかを、その手で覚えてきた男の手だった。
得物を隠す棚を、私たちは、荷を置く棚に作り変えた。
ガロが、板の高さを直し、湿気の上がる下の段を取り払う。
麦の袋が、地から離れていれば、湿気を吸いにくい。
ネネが、室の隅に溜まった古い藁を掻き出し、新しい乾いた藁を敷く。
ヒナが、棚に何が幾つ置けるかを、木札に数えていく。
私は、できることをやった。
軽い板の端を押さえ、藁の束を運び、ヒナの数えの相手をする。
たったひとつの手で足りないところは、肩で、腰で、体の重さで補う。
穴の底からのいつもの補い方だった。
室の隅に、得物を隠す乾いた棚があった。
その同じ場所に、麦を置く棚ができていく。
奪った物を隠す場所が、買った物を置く場所に変わる。
それは、奇妙なことだった。
同じ石の室で、同じ棚を、私たちは別のことに使いはじめていた。
隠すための棚が、回すための棚になる。
盗賊の蔵が、商人の蔵になる。
場所は変わらないのに、そこに置くものと、置く理由が変わっていく。
◆ ◇
夕方、私は、崩れた塔の上に立った。
二十年、見張りが立っていた塔だ。
今はもう、見張りの石積みは崩した。
ただの欠けた石の塔に戻っている。
けれど、丘の上のいちばん高いところだから、街道がよく見えた。
北街道が一筋、灰色の帯になって、夕闇に沈んでいく。
その帯を、私は残った左の目でしばらく見ていた。
昔は、この街道を、襲う相手として見ていた。
どの荷馬車が銀を積んでいるか。
どの護送の列が手薄か。
月のない夜なら、どこで待ち伏せられるか。
街道は、獲物の通る道だった。
けれど、これからは、違う。
この街道を、私は荷を運ぶ道として見ることになる。
どの宿場に何が足りないか。
どの関所で何が高いか。
塩を積んで上れば、どこで売れるか。
同じ街道が、獲物の道から、商いの道に変わる。
見るものは、同じだ。
荷馬車の砂埃、宿場の灯り、関所の旗。
けれど、その同じものを、私は別の目で見はじめていた。
奪う目から、回す目へ。
荷馬車の砂埃を見れば、昔の私は何を積んでいるかを読んだ。
重そうな轍なら、銀か、鉄か。
軽い轍なら、布か、麦か。
それは、襲うべき荷かどうかを見極めるための読みだった。
今は、違う。
同じ轍を見て、私は、どこから来てどこへ行く荷かを考える。
何が、どこで余り、どこで足りないか。
荷の流れを、読む。
襲うためではなく、その流れに、自分も加わるために。
塔を下りると、火の輪に、四つの顔が揃っていた。
ガロが火を熾し、ナダが杖に顎を乗せて目を閉じ、ネネが繕い物の手を動かし、ヒナが木札に今日の数えを刻んでいる。
八人だった輪が、五人になった。
けれど、火だけは、二十年、変わらずに燃えていた。
私は、その火のそばに座った。
奪う塒を、回す商館に。
その変わり目に、立派な式も、誓いの言葉もない。
あったのは、窪みを埋め、棚を作り変え、街道を別の目で見はじめる、長い一日の地味な手仕事だけだった。
火が、ゆっくりと、燃えていた。
◆ ◇
商館を建てる、その最初の仕事は、銀の名を消すことだった。
第一章で、私は塔の下から三つの革袋を掘り出した。
二十年分の蓄えだ。
その多くに、役所の刻みが打ってあった。
どこの役所が、いつ鋳たか。
小さな印が、銀の表に語っている。
名のある銀だ。
名のある銀は、そのままでは市で使えない。
市に出せば、いずれその刻みが読まれる。
盗まれた銀がここにある、と。
だから、火に入れる。
溶かして、刻みを消し、ただの銀の塊にする。
名のない銀にする。
その火を熾す日が、来た。
ガロが、庭の隅に、火床を据えた。
石を組んで、底を粘土で固めた、低い炉だ。
ガロが、丸一日かけて、組み上げた。
鍛冶の手だ。
火を扱うことだけは、この老いた男から、誰も奪えなかった。
穴は、ガロの名を奪い、自由を奪った。
けれど、火を扱う手だけは、奪えなかった。
今、その手は丘の上で、銀を溶かす炉を組んでいた。
鍛冶の火だ。
ただの煮炊きの火とは、ちがう。
煮炊きの火は、鍋を温められればいい。
けれど、銀を溶かすには、もっと高い火が要る。
固い金属を液にするほどの、熱が要る。
ガロは、まず炭を選んだ。
乾いた、火持ちのいい炭だ。
湿った炭は、煙ばかりで、温くならない。
ガロは、炭の一片を指で弾いて、音を聞いた。
乾いた炭は、高い音がする。
湿った炭は、鈍い音がする。
音で、炭の乾きを見分けていた。
選んだ炭を、火床に積み、下から鞴で風を送る。
鞴は、ガロが組んだものだった。
革と板でできた、空気を押し出す袋だ。
柄を押せば、革の袋が縮んで、先の穴から風が出る。
引けば、袋が膨らんで、また空気を吸う。
その風を、火の根元へ吹き込む。
風を送られた炭は、橙から黄に近い色へ、燃え上がっていく。
「火を、見てろ」
ガロが、私に言った。
「色で、温さが分かる。赤いうちは、ぬるい。黄っぽくなったら、銀が溶ける」
私は、火の色を残った左の目で見ていた。
炭が、息を吹き返すように、色を変えていく。
赤から、橙へ。
橙から、明るい黄へ。
鞴が風を送るたびに、火の根元が、ふっと白っぽく光る。
熱が、顔の正面をじりじりと押してくる。
眉のあたりが、乾いていく。
これが、銀を溶かす火か。
私は、その熱を肌で覚えた。
坩堝を、ガロが火の中に据えた。
粘土を焼いて作った、小さな壺だ。
その中へ、名のある銀を入れていく。
ヒナが、銀をひとつかみずつ、ガロの手元へ運ぶ。
私は、その銀の数をヒナと一緒に数えた。
何枚を火に入れたか。
後で、溶けた塊の目方と、突き合わせるためだ。
火の中で、銀が、変わりはじめた。
◆ ◇
はじめ、銀は、ただ赤く焼けていた。
炭の色を映して、表が橙に光るだけだ。
けれど、火が高くなるにつれて、銀の縁がすこし丸くなってきた。
角がとろけるように、なめらかになっていく。
次に、表が、つやを帯びた。
固い金属の表が、濡れたように光りはじめる。
そして、銀が、崩れた。
形が、ふいに失われた。
一枚一枚だった銀が、坩堝の底で、ひとつの明るい池になった。
どろりとした、白く光る液だ。
火の色を吸って、表が、ゆらゆらと揺れている。
重そうに、けれど、たしかに液だった。
固いはずの銀が、火の中で、水のように動いている。
私は、その池を見つめていた。
明るい液が、私の顔を、下から照らす。
残った左の目に、その熱い光が映った。
熱が、まつげを焦がしそうなほど、近い。
溶けた銀は、息をするように、ゆっくりと、表を波打たせている。
刻みは、もう、どこにもなかった。
どこの役所が鋳たか。
どの帳面に載った銀か。
あの小さな印は、溶けて、消えた。
役所の名も、領主の印も、盗まれた夜の記憶も、すべて明るい池の中に沈んで、見えなくなった。
名のある銀が、名のない液に、なった。
名は、火で、平らになる。
第一章の夕方、私は夕日の前で、刻みのあるなしが見えなくなるのを見た。
火に入れてしまえば、どちらも区別がつかなくなる、と思った。
今、それが、本当になっていた。
火は、すべての名を、平らに溶かす。
盗んだ銀も、稼いだ銀も、火の中では、同じ、ただの溶けた銀だ。
ガロが、坩堝を火から引き上げた。
長い火箸で坩堝の縁を挟み、ゆっくりと傾ける。
明るい液が、用意した型へ、細い糸になって流れ落ちた。
型は、土を掘って作った、浅い溝だ。
液は、溝の底でゆっくりと広がり、止まった。
表が、見る間に、つやを失っていく。
明るい黄から、鈍い灰色へ。
液が、冷えて、固まっていく。
しばらくして、ガロが、それを型から外した。
銀の塊だった。
刻みのない、のっぺりとした塊だ。
表には、型の溝の跡だけが残っている。
役所の印も、帳面の名も、もう、どこにもない。
名のない銀だ。
誰のものでもない。
誰のものでもない銀は、誰にでも使える。
私は、その塊をてのひらに載せた。
ガロが、布で挟んで、渡してくれた。
まだ、素手では持てないほど、熱い。
布越しでも、熱がてのひらに、じんわりと伝わってくる。
指の節が、その熱を吸う。
第一章で、私はこの同じ銀を、冷たい刻みつきの一枚として、革袋へ拾い集めた。
あの時の冷たさを、私は覚えている。
今、それが温い塊になって、私のてのひらにある。
冷たかった銀が、火を通って、温い塊になった。
同じ銀だ。
けれど、もう、奪った銀ではない。
名を消した銀だ。
これから回していく、回る銀の最初の塊だった。
◆ ◇
ガロが、塊をもうひとつ作った。
さらに、もうひとつ。
名のある銀の山が、すこしずつ、低くなっていく。
代わりに、名のない塊が布の上に、ひとつ、またひとつと並んでいった。
一日では、終わらなかった。
火を絶やさず、炭を足し、坩堝を何度も傾ける。
地味な、繰り返しの仕事だ。
溶かせば、目減りはした。
ガロが言ったとおりだ。
火に入れれば、いくらかは煙になり、坩堝の縁に残り、失われる。
溶かす前の銀の目方と、溶けた塊の目方を、ヒナが木札に並べて、突き合わせる。
目方は、すこし、減っていた。
「これだけ、減ったか」
私が言うと、ガロは、火を見たまま頷いた。
「火に入れりゃ、減る。だが、刻みつきを抱えてるよりは、安い」
安い代価だ。
火で失う銀のほうが、読まれて失うものより、ずっと安い。
布の上に、名のない銀の塊が、並んでいた。
盗んだ金が、回る金に、なった。
その変わり目を、私は坩堝の火の前で、たしかに見た。
火の色が赤から黄に変わり、銀が崩れて液になり、刻みが消えて、塊になる。
奪う手で集めた銀が、火を通って、回す手の元手に、変わっていった。





