第5話「振り返らない背中」
別れの朝のことを、書く。
団を畳んだ次の朝、いちばん先に発ったのは、サイだった。
寡黙な斥候だ。
二十年、街道を見続けてきた目を持つ男だ。
私が朝の火の輪に出た時、サイは、もう旅装を整えて丘の縁に立っていた。
夏の終わりの薄い光だった。
朝の光が、丘の斜面を横ざまに撫でている。
サイは私に背を向けて立ち、街道のほうを見ていた。
痩せた、背の高い男だ。
肩が、いくらか前に丸い。
長く街道を見てきた者の背中の形だった。
背に、小さな荷をひとつ負っている。
斥候の荷は、いつも小さい。
乾いた食い物と、火打ち石と、水袋。
二十年、奪った銀のいくらかも、その荷の底にある。
新しい土地で立つための、足場の銀だ。
「東へ行く」
サイは、私を見て、短くそう言った。
行き先は、もう決まっていた。
北街道を東へ、宿場が連なる筋がある。
私たちが商いの網を張る時、サイの目が、東の結び目になる。
「宿場筋を、見ておく」
「頼む」
私は、それだけ答えた。
何を伝えてくるかは、二十年で互いに分かっている。
ただ、行き先を聞いて、頼む、と返す。
それで、足りた。
私は、懐から木札をひとつ取り出した。
◆ ◇
木札は、前の夜に削ったものだった。
樫の平たい木片だ。
手のひらに収まる大きさで、縁を短刀で丸く落としてある。
表には、何も書いていない。
私たちは、字を残さない。
残せば、追われる。
だから、その表にひとつだけ、印を刻んだ。
小さな輪の印だ。
私たちが二十年、毎晩囲んできた火の輪を表したものだった。
短刀の先でぐるりと一周、細い溝にする。
爪の先でなぞれば分かるくらいの浅い溝だ。
けれど、その輪を見れば、火の輪を思い出す。
削るのは地味な仕事だった。
腕が一本しかないから、押さえる手と彫る手を別々には使えない。
だから、木札を腿の上に置いて、体の重さで押さえた。
片手で足りない分を、いつものように体で補う。
三つ、彫った。
サイの分、リンの分、トビの分。
散る三人の、ぶんだけ。
火の番の灯りで、夜なべに彫った。
みんなが寝静まった後だ。
燠の赤い灯りを頼りに、短刀の先を木札に当てる。
輪を、一周。
刃が、樫の堅い肌にすこしずつ食い込んでいく。
木の屑が、細く巻いて剥がれ、てのひらに積もる。
一周彫っては、屑を払う。
また、一周。
三枚を彫り終えるのに、燠がすっかり灰になるくらいの時がかかった。
急ぐ仕事ではない。
最後の夜に、丁寧に彫った。
その一枚を、私はサイに渡した。
「いつか、火の輪の下で」
私は、そう言った。
この木札を見せれば、字は読めなくても、輪の印で、互いが分かる。
失うための別れではない。
いつか、また会うための別れだ。
サイは、木札を受け取った。
手のひらで、輪の溝を一度なぞり、何も言わずに、懐の奥へしまった。
礼も言わない。
けれど、要らないものを持たない男が、その木札だけは、いちばん深いところへしまった。
それで、足りた。
「行く」
サイは、それだけ言った。
◆ ◇
サイは、丘を下りていった。
サイの背中が、斜面をまっすぐに下りていく。
斥候の歩きだ。
無駄がない。
砂を蹴らず、石を踏まず、影のように下りていく。
荷が小さいから、背中も軽い。
私は、丘の縁に立って、その背中を見ていた。
サイは、一度も振り返らなかった。
斜面を下りきって街道に出ても、東へ歩きはじめても、一度もこちらを振り返らない。
別れを惜しむ素振りも、名残を残す仕草も、何もない。
来た時と同じ静けさで、サイは去っていった。
二十年、いちばん言葉の少なかった男だ。
それでも、いなくなると、丘の上の空気が、ひとりぶん、薄くなった気がした。
振り返らない、というのがサイの散り方だった。
薄情だからではない。
逆だ。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば、別れが長くなる。
だから、振り返らない。
それが、いちばん後を引かない去り方だった。
サイなりの優しさだった。
穴の底で、私は、別れに振り返る暇さえなかった。
誰かが岩になる。
運び出される。
それを見送る間もなく、次の日が来て、また誰かが岩になる。
あれは、振り返るための別れでさえなかった。
もぎ取られて、終わるだけの別れだった。
けれど、これは違った。
サイは、自分の足で、自分の意志で、振り返らずに歩いていった。
同じ「振り返らない」でも、まるで違う。
あれは振り返れなかった。
これは、振り返らないことを選んだ。
サイの背中が、街道の先で小さくなっていく。
やがて、街道の曲がり目で、丘の影に隠れて見えなくなった。
ひとり、減った。
火の輪が、ひとつ、欠ける。
八つだった顔が、七つになる。
けれど、私は、笑って見送る。
サイが振り返らないのだから、振る相手もいない。
ただ、見えなくなるまで、その背中を、残った左の目で見ていた。
「行ったな」
隣で、ガロが言った。
いつのまにか、火の輪から出てきていた。
岩のような体を丘の縁に立てて、サイの消えた方を見ている。
「行った」
私は答えた。
声が、少し掠れた。
けれど、それだけだった。
泣きはしなかった。
サイは振り返らずに行ったのだから、私も、泣かずに見送る。
最初の別れは、そうやって、静かに済んだ。
◆ ◇
次に発ったのは、リンだった。
サイが東へ消えた、その日の昼だ。
支度は、サイほど早くなかった。
薬草を商う女だ。
乾かした草、すり潰した粉、油に溶かした膏薬。
それを一つひとつ布に分けて、壊れないように荷に詰める。
手間のかかる支度だから、昼までかかった。
リンの荷は、サイの荷よりずっと大きかった。
けれど、リンは、それを苦にしない。
薬草は、リンの食い扶持であり、武器でもあった。
薬草と、人を読む目があれば、どこへ行っても、生きていける。
荷の積み方にも、順序があった。
よく使う薬草は上に、傷薬の包みは口の手前に、膏薬の壺は布で巻いて真ん中に。
リンは、ひとつずつ指で押して確かめ、よし、と頷いては、次を積む。
手つきに、迷いがない。
行き先は西だった。
北街道を西へ行くと、月に三度、市の立つ町がある。
薬草を売るにも、噂を集めるにも、ちょうどいい。
西の市の町は、私たちの商いの西の結び目になる。
「西の町で、店を出す」
リンは、荷の紐を結びながら、そう言った。
店といっても、市の隅に茣蓙を一枚敷いて、薬草を並べるだけの小さな店だ。
けれど、それで足りる。
リンは、人を読む。
客の顔色で何に困っているかを当て、咳のしかたで肺の病か喉の病かを見分け、歩き方でどこを痛めているかを読む。
そして、その人に合った薬草をすっと差し出す。
だから、リンの店には、人が来る。
一度来た客は、また来る。
◆ ◇
私は、リンに、二枚目の木札を渡した。
サイのと同じ、樫の木片に、輪の印がひとつ。
「いつか、火の輪の下で」
サイに言ったのと、同じ言葉を言った。
リンは、木札を受け取って、しばらく私の顔を見ていた。
人を読む目で、私を読んでいた。
サイを見送った私の顔に、何があったか。
掠れた声に、何が混じっていたか。
笑って見送った顔の、その下に、何があったか。
リンの目は、そういうものを見逃さない。
私が隠したつもりのものを、リンは、たぶん見ていた。
リンの目が、私の残った左の目を覗き込んだ。
逃げられない目だった。
客の咳ひとつで肺の病を当てる目が、いま、私を読んでいた。
そこに、何が溜まっているかを。
私は、目を逸らさなかった。
逸らせば、かえって読まれる。
「あんた」
リンは言った。
「ひとりになってから、泣きなよ」
私は、何も答えなかった。
答えられなかった、というほうが近い。
図星だったからだ。
私は、人前では泣かない。
穴の底で覚えた。
泣けば、隙ができる。
隙は命取りになる。
けれど、泣かないのと、悲しくないのは違う。
リンは、それを見抜いていた。
人前で泣かない私が、ひとりになったら、どうするか。
それを、リンは心配していた。
「ちゃんと、泣きな」
リンは、もう一度、そう言った。
それは、別れの言葉というより、薬草を渡す時の口調だった。
これを煎じて、寝る前に飲みな。
傷には、これを塗りな。
そういう世話を焼く時の口調。
リンは、最後に、私に、泣くことを処方していった。
私の痛みを読んで、その痛みに合った言葉を、薬草を差し出すのと同じやり方で、すっと差し出す。
「分かった」
私は、短く、そう答えた。
泣くとも、泣かないとも、言わなかった。
ただ、分かった、と。
リンは、それで満足したようだった。
木札を懐にしまって、背負子をよいしょと背負い直した。
重い荷が、リンの背で揺れた。
◆ ◇
リンは、丘を下りていった。
西へ向かう斜面を、ゆっくりと。
重い荷のせいで、足取りは、サイほど軽くない。
けれど、その背中は不安そうではなかった。
どこへ行っても生きていける、という背中だった。
斜面の半ばで、リンは、一度振り返った。
丘の縁に立つ私たちを見て、片手を、肩の高さまで軽く上げた。
手を振るというほどの仕草ではない。
重い背負子を背負ったまま、体を半分だけこちらへ捻って、日に焼けた顔に、薄く笑みを浮かべる。
それから、また前を向いた。
一度きりの振り返りだった。
私は、その手に応えなかった。
私の手はひとつだけで、その手は樫の棒を握っている。
棒を置く間に、リンは、もう向き直って歩きはじめていた。
だから、手を上げ返さずに、ただ見送った。
リンの上げた手の意味は分かっていた。
さよなら、ではない。
またね、という手だった。
リンの背中が、西の街道の砂埃の中へ混じっていく。
迷いはなかった。
西の市の町は、もう、リンの頭の中で、店の場所まで決まっているのだろう。
ふたり、減った。
火の輪が、ふたつ、欠けた。
サイと、リン。
東と、西。
私たちの網の最初の二つの結び目が、それぞれの方角へ歩き去っていった。
私は、丘の縁で、その背中が見えなくなるまで見ていた。
残った左の目に、リンの背中を焼きつけた。
いつか、また会う時のために。
西の街道の曲がり目で、リンの姿は見えなくなった。
「あの女の言うことは」
ガロが、低い声で言った。
「だいたい、当たる」
私は答えなかった。
ひとりになってから、泣きな。
リンの処方が、胸の奥に残っていた。
けれど、私は、まだひとりではなかった。
火の輪には、まだ五人が残っていた。
だから、まだ泣かなかった。
◆ ◇
三人目に発ったのは、トビだった。
サイとリンが消えた、次の朝だ。
荷は軽い。
サイほどではないが、リンよりはずっと少ない。
けれど、トビは、なかなか発たなかった。
荷を背負っては下ろし、また背負う。
火の輪の周りを、何度もうろうろする。
口の軽い、噂を集める情報屋気質の男だった。
もたつく足を、私は、火の輪の脇で見ていた。
トビは、荷を下ろしては、ガロに何か言う。
ガロは、火を見たまま、生返事をする。
ナダにも喋りかけ、それから、ネネのほうへ、ひらひらと手を振る。
ネネは、布の下で、小さく頭を下げる。
発つ前に、トビは、火の輪の全員に、いちいち別れを言って回っていた。
サイは、誰にも何も言わずに発った。
リンは、私にだけ、処方を残して発った。
トビは、ひとりひとりに声をかけて回る。
同じ別れでも、やり方が、まるで違った。
サイは東、リンは西。
けれど、トビには、決まった土地がなかった。
足の速い、口の回る男だから、各地を回れる。
どこへ行っても、すぐに人と打ち解け、噂を集め、また次の土地へ移る。
トビは、私たちの網の糸そのものだ。
サイの結び目と、リンの結び目を、トビの足が、つないで回る。
「俺は、屋根から屋根へ、飛ぶからな」
トビは、そう言って、片頬で笑った。
屋根、というのはトビの言い回しだった。
塔でも、木でも、屋根でも、するすると登る。
だから、各地を回るとは言わずに、屋根から屋根へ飛ぶ、と言う。
鳥のように、という意味だった。
◆ ◇
私は、トビに、三枚目の木札を渡した。
最後の一枚だ。
輪の印が、ひとつ。
「いつか、火の輪の下で」
三度目の、同じ言葉だった。
トビは、木札を受け取って、輪の印をしげしげと見る。
それから、急に、何か思い出したような顔をした。
「なあ、レン」
トビは言った。
「俺の名前、誰がつけたか、覚えてるか」
私は覚えていた。
トビという名は、私がつけた名だ。
鳥の、鳶。
空をぐるぐると回りながら、地上を見張る鳥だ。
トビが、屋根の上から街道を見下ろす姿が、その鳥に似ていた。
だから、トビ、と呼んだ。
本人も、その名を気に入っていた。
「お前が、つけた」
私は答えた。
「カラスの、真似だ」
トビは笑った。
カラス。
それは、私に、骨を棒にする手を、痕跡を消す手を、去り方を教えた、言葉のない男の呼び名だった。
私がつけた名ではない。
カラスは、私が拾われた時には、もうカラスだった。
名前のない、黒い男だった。
本当の名は、誰も知らない。
私は、その男を、カラス、と呼んだ。
鳥の名で。
カラスが、いた。
そのカラスが、私に、いろいろなものを残して死んだ。
骨を棒にする手は、私の体に残った。
けれど、それだけではなかった。
鳥の名で人を呼ぶ。
それも、カラスから、知らず知らず受け継いだものだった。
カラスは、黒い鳥。
トビは、舞う鳶。
鳥の名が、カラスから、トビへ渡っていた。
「で、俺は」
トビは、にやりと笑って、火の輪の方を顎で指した。
「あの子に、ヒナってつけた」
火の輪のそばに、ヒナが立っていた。
水の桶を地に置いて、私たちのほうを見ている。
背の伸びた、若い者だ。
十二の年に拾われた痩せた子が、今は、私の片腕になっていた。
ヒナ。
雛だ。
まだ飛べない、巣の中の若い鳥。
リンが、最初、その子を「ひよっこ」と呼んだ。
それを、トビが握り直した。
ひよっこではなく、ヒナだ、と。
雛は、いつか飛ぶ。
トビは、そう言って、その子に、ヒナという名を贈った。
子が、自分で、その名を握り直した。
自分で言えば、自分のものになる。
それは、私が、ネネに教え、ネネが、ヒナに渡した、名乗りの教えと同じだった。
カラスが、いた。
カラスから、トビへ。
トビから、ヒナへ。
鳥の名が渡っていた。
黒い鳥、舞う鳶、巣の雛。
名前を贈り合う。
それは、いつから始まったのか、もう分からない。
けれど、その糸のいちばん初めには、言葉のない黒い男がいた。
カラス、と私が呼んだ、あの男が。
「いい名だ」
私は言った。
「お前も、あの子も」
トビは、照れたように、鼻の頭を指でこすった。
◆ ◇
トビは、丘を下りていった。
行き先は決めていない。
とりあえず北の港まで行って、それから東西の結び目を回って歩くらしい。
けれど、サイのように、まっすぐではなかった。
トビは、何度も振り返った。
五歩下りては振り返り、また五歩下りては振り返る。
丘の縁に立つ私たちに、そのたびに、腕全体をぶんぶんと振る。
リンのような控えめな手の上げ方ではない。
何か叫んでいるが、もう遠くて聞こえない。
たぶん、また来る、とか、達者でな、とか、そういうことだ。
振り返り続ける、というのがトビの散り方だった。
サイは、一度も振り返らない。
リンは、一度だけ振り返る。
トビは、何度も振り返る。
惜しんで、惜しんで、それでも、行く。
振り返りながら、それでも、足は止めない。
それが、トビの別れの仕方だった。
私は、トビの手に応えなかった。
私の手は、樫の棒を握っている。
けれど、トビは、応えを待っていなかった。
私が振り返さなくても、勝手に、何度も振った。
応えのない手を、何度も。
それでいい、というように。
トビの背中が、何度も振り返りながら、丘の下へ小さくなっていく。
サイの背は、まっすぐで、迷いがなかった。
トビの背は、行きつ戻りつ、揺れている。
同じ丘を下りるのに、背中が、こんなにも違う。
散り方に、その者の生き方が、出るのだと思った。
最後の振り返りは、街道の曲がり目だった。
トビは、そこで立ち止まって、丘を見上げ、ひときわ大きく手を振った。
それから、向き直って、曲がり目の向こうへ消えた。
三人、減った。
サイ、リン、トビ。
東へ、西へ、各地へ。
三つの結び目と、それをつなぐ糸が、それぞれの方角へ散っていった。
火の輪が、三つ、欠けた。
八つだった顔が、五つになる。
私は、丘の縁で、しばらく立っていた。
あの男は、何度も振り返ったが、もう振り返らない。
曲がり目の向こうで、トビは、もう、次の土地のことを考えているだろう。
惜しんでいたのは、別れのその瞬間だけだ。
曲がってしまえば、もう、前を向く。
散る三人が、散った。
残ったのは、五人。
ガロ、ナダ、ネネ、ヒナ、そして、私。
核に残る、五人だった。





