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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第4話「奪う手を、回す手へ」


 次の朝、私たちは、団そのものを畳みにかかった。


 その朝も、見張りはいなかった。


 塔の上は、空のままだ。


 けれど、もう、その空っぽに、私は驚かなかった。


 一晩で、すこし慣れたらしい。


 脅かされない朝に、人は、思ったより早く慣れるものかもしれない。


 塒の痕跡は、おおかた消した。


 見張りの石積みも、岩の符牒も、もうない。


 丘の上は、ただの古い廃墟に戻りつつあった。


 残っているのは、塒の痕跡ではなく、鎖切りという団そのものが、二十年かけて溜めてきたものだった。


 武具、隠れ家の手当て、縄張りの覚え。


 場所を畳むのと、団を畳むのは、違う。


 場所は、石と土だ。


 団は、人と、人のつながりだ。


 それを、ひとつずつ、解いていく。


 場所より、ずっと、手のかかる仕事だった。


 まず、武具だった。


 砦の地下の、乾いた室に、得物がしまってある。


 崩れた床の隅に、地下へ下りる狭い石段がある。


 その先の、ひんやりした室だ。


 襲った列から取り上げた剣、槍、弓。


 錆びないように油を引いて、布で巻いて、壁際に並べてある。


 二十年で、ずいぶん溜まった。


 けれどもう、襲う相手はいない。


 守る縄張りもない。


 要らない武具を、抱えていく道理はなかった。


 八人で、室に下りた。


 ひとり、またひとりと、狭い石段を下りていく。


 足音が、石壁に反響して、いくつにも重なった。


 下りるほどに、空気が冷たく、湿ってくる。


 土と、鉄錆と、古い油の匂い。


 二十年、奪ったものを溜めてきた、穴蔵の匂いだ。


 穴の底を、ふいに思い出す。


 けれどここは、私たちが、自分で掘って、自分で塞ぐ穴だった。


 狭い石の室に、八人が肩を寄せて立つ。


 松明の火が、湿った壁を舐めて、橙の光を投げている。


 八人ぶんの息で、室の空気が、すこしずつ温まっていく。


 久しぶりに、全員がひとつの場所に集まっていた。


 この何年か、八人がそろって同じ仕事をすることは、めったになかった。


 サイは斥候で出ていることが多く、トビは噂を集めに各地を回り、リンは市の町に薬草を売りに行く。


 畳むという仕事だけは、どうしても、八人の手が要った。


「これは、売る」


 ガロが、剣を一本、手に取った。


 鍛冶の目で、刃を確かめる。


 錆びていない、まともな剣だ。


 鋳潰せば鉄になるし、そのまま売れば、それなりの値がつく。


 商いの元手の、一部になる。


「これは、屑だ」


 次の一本は、放った。


 刃こぼれの激しい、使い物にならない剣だ。


 屑鉄として、まとめておく。


 ガロが、剣を、売る物と屑とに選り分ける。


 ヒナが、それを数えて、木札に刻む。


 リンが、布をほどいて、刃の油を拭き取る。


 サイが、売る物を、新しい布で巻いて束ねる。


 トビが、束を担いで、石段を上へ運び出す。


 ネネが、空いた室の隅を片づけ、散らばった古い布を集める。


 ナダが、壁際に座って、何がどこから来た得物かを、しわがれた声で覚えている。


 あれは南の護送の列、あれは東の関所の兵から。


 私は、たったひとつの手で、できることをやった。


 軽い槍を運び、布の端を押さえ、ヒナの数えの相手をする。


 八人の手が、それぞれに動いていた。


 松明の炎が揺れるたび、その手のひとつひとつが、橙に照らされては、影に沈む。


 ガロの節くれだった手、ヒナの大きくなった手、リンの細い指、サイの傷だらけの手。


 八人ぶんの息で、地下の室は、いつのまにか、汗ばむほど温まっていた。


 誰かが指図したわけではない。


 二十年、一緒にやってきた者たちだ。


 誰が何を得意とするか、互いに分かっている。


 言葉は、ほとんど要らなかった。


 松明の火と、布のこすれる音と、木札に刃を入れる音だけが、室に満ちていた。


 これが、最後の共同作業になる。


 誰も口には出さなかったが、みんな、それを知っていた。


 だから、いつもより、すこし丁寧に手を動かしていた。


 最後だから、丁寧に畳む。


 それが、言葉にしない、八人の別れの仕方だった。


  ◆  ◇


 武具を片づけたあと、私たちは、隠れ家の始末にかかった。


 鎖切りの隠れ家は、ひとつではなかった。


 廃砦が本拠だが、街道筋に、いくつもの隠れ場所を持っていた。


 雨をしのぐ洞、荷を隠す廃屋、追われた時に身を寄せる炭焼きの小屋。


 二十年で張りめぐらせた、潜るための網だった。


 その網を、解く。


 どの隠れ家も、誰かに恩を売って、見逃してもらっていた。


 隠れ場所を貸す代わりに、その者の麦を盗まれないように守る。


 あるいは、銭を渡しておく。


 盗賊の網は、そういう細い義理で、つながっていた。


 義理を、ひとつずつ、清算していった。


 トビが、街道を回って、隠れ家の主たちに別れを告げて回る。


 足の速い、口の回る男だ。


 こういう役は、トビが一番いい。


 世話になった礼を渡し、もう来ないと伝える。


 借りていた洞や廃屋を、きれいにして返す。


 後腐れを残さないためだ。


 義理を踏み倒して消えれば、それは恨みになり、いつか追っ手に変わる。


 だから、最後まで、義理は果たす。


 畳むというのは、痕跡を消すだけでなく、借りを返しきることでもあった。


「もう、来ねえのか、と訊かれた」


 夕方、街道から戻ったトビが、火の輪で言った。


 一日かけて、いくつもの隠れ家を回ってきたらしい。


 足が、埃で白くなっていた。


「なんて、答えた」


 私が訊くと、トビは、片頬で笑った。


「通りすがりだった、って」


 それは、いつか護送の列を解いた夜、鎖の男に名を訊かれて、トビが返した答えと、同じだった。


 あの夜、私たちは通りすがりとして、鎖を解いて消えた。


 今度は、通りすがりとして、隠れ家に別れを告げて去る。


 私たちは、いつも、通りすがりだった。


 名乗らず、現れ、奪い、そして消える。


 隠れ家の主たちにとっても、私たちは名前のない通りすがりのままで、いてよかった。


 名を知らなければ、役人に問い詰められても、答えようがない。


 知らない、というのが、いちばん、互いを守る。


 それも、カラスから手で覚えた、去り方のひとつだった。


 あの言葉のない男も、誰にも名を残さずに、去った。


  ◆  ◇


 縄張りの覚えを、最後に、火にくべた。


 ナダの数えとは別に、私たちには、覚え書きがあった。


 どの道に罠があるか、どの村が味方か、どの役人が買えるか。


 長い年月で溜まった、潜るための知恵だ。


 革に焼き付けたものもあれば、木札に刻んだものもある。


 それを、火に入れた。


 潜るための知恵は、もう要らない。


 それどころか、残しておけば危ない。


 誰が味方で、誰を脅していたか。


 どの役人が酒で買えて、どの村が見て見ぬふりをしてくれたか。


 それが他人の手に渡れば、私たちでなく、世話になった者たちが、巻き添えを食う。


 義理で守ってきた者を、最後に、焼いて守る。


 残すより、消すことが、守ることになる場合もあった。


 火が、革を舐めて、縮れさせた。


 革は、端から黒く反り返り、ぶすぶすと低い音を立てて燃える。


 焼ける革の、髪を焦がすような嫌な匂いが、火の輪いっぱいに立ちこめた。


 木札は、炎の中で炭になり、刻んだ字が、ひとつ、またひとつと、読めなくなっていく。


 白い煙が、ひとすじ、まっすぐ夜空へ昇っていった。


 八人で、火を囲んで、それを見ていた。


 二十年の潜りが、煙になって、丘の上の空へ昇っていく。


 月のない夜の襲撃、買った役人の名、貸し借りの覚え。


 全部が、灰になっていく。


 誰も、何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は、重くなかった。


 失う沈黙ではない。


 畳む沈黙だった。


 一緒に積んできたものを、一緒に、片づける。


 別れの前の、最後の共同作業だった。


 火が、覚え書きを、すっかり灰にした。


 灰が、夜風に、すこしずつ運ばれていく。


 明日には、この八人の手が、それぞれの方角へ動きはじめる。


 けれど今夜は、まだ、八人だった。


 同じ火を、八人で囲む、最後の夜だった。


  ◆  ◇


 畳む仕事は、その夜で、おおかた終わった。


 見張りの石積みも、岩の符牒も、武具も、隠れ家の網も、潜りの覚えも、ぜんぶ片づいた。


 残っているのは、これから商館に変えていく廃砦の、がらんとした石組みと、火に入れる日を待つ銀と、八人の、ただの人だけだった。


 鎖切りは、もう、どこにもいない。


 名を殺したのは一昨日の朝で、塒を畳んだのは昨日と今日だ。


 名が死んで、その名の住んでいた場所が、片づいた。


 そうやって、解散は、成立した。


 討伐されたわけでも、誰かに散らされたわけでもない。


 私たちが、自分の手で、自分の団を畳んだ。


 解散というと、何か大きな出来事を思うかもしれない。


 けれど、実際にやったのは、地味なことばかりだった。


 石を崩し、岩の符牒を削り、銀を掘り出し、剣を選り分け、義理を返し、覚え書きを焼く。


 その小さな手仕事を、いくつも積み重ねた先に、解散があった。


 鎖切りという団は、稲妻に打たれて終わったのではない。


 地味な手仕事の中で、すこしずつ、畳まれて、消えた。


 穴の底で、私は、いっぺんに失うことを覚えた。


 十二人が、ひと冬で岩になった。


 飢えと寒さで、ひとり、またひとりと冷えていき、抗うこともできずに、いっぺんに。


 最後には、私ひとりが残った。


 あれが、私の知っている、群れの終わり方だった。


 終わりは、いつも、もぎ取られるものだ。


 自分の意志など、関係なかった。


 だから私は、八人を得てからも、ずっと恐れていた。


 この八人を、いつかまた、いっぺんに失うのではないかと。


 穴の底のあの冬を、もう一度やるのではないかと。


 その恐れがあったから、私は五編の朝に、散り方を選んだ。


 別れの日をひとつに決めて、いっぺんに泣くような散り方は、しない、と。


 慣れたやり方は、もう、したくなかった。


 けれど、これは、そうではなかった。


 私たちは、自分で決めて、自分の手で、ひとつずつ畳んだ。


 失ったのではない。


 畳んだのだ。


 いっぺんに散らされたのではなく、片づけて、次へ進むために、解いた。


 穴の底で覚えた終わり方とは、違う終わり方を、私は、四十になって、初めて選べた。


  ◆  ◇


 最後の夜、火の輪に、八人が揃った。


 ガロが火を熾し、リンが湯を沸かし、ヒナが水を汲んできた。


 いつもの夜と、同じ手順だ。


 同じ顔ぶれが、同じ火を囲む。


 けれど、もう鎖切りではない。


 盗賊団の火ではない。


 ただの八人が、同じ火を囲んでいる。


 名のない八人が。


 火だけは、二十年、変わらずに燃えていた。


 ガロが守り続けた火だ。


 火を消さないことを覚えたのは、穴の底だった。


 その手が、いまはこの丘で、二十年、火を絶やさずにきた。


 火は、消さなければ、続く。


 名は、水をやらなければ、枯れる。


 守るものと、手放すものが、同じ火の輪の中に、あった。


 誰も、別れの話はしなかった。


 明日、それぞれが、それぞれの方角へ発つ。


 けれど、その話は、しなかった。


 涙の出る話を、夜にすると、火が湿る。


 ナダが、昔、そう言ったことがある。


 別れは、明るいうちに、笑ってするものだ、と。


 だから、その夜は、いつもの夜のように過ぎた。


 トビが軽口を叩き、誰かが小さく笑う。


 ネネが、膝の上で繕い物の手を動かしている。


 サイは、いつものように黙って、火を見ていた。


 リンが、湯をもう一杯、配って回る。


 ガロは、火に薪を足す。


 ナダは、目を閉じて、火に当たっている。


 眠っているのか、昔の海を思い出しているのか、分からない。


 火が、ぱちりと爆ぜて、火の粉を、いくつか、闇へ放った。


 誰かの笑い声が、丘の上の夜に、すぐ吸われて消える。


 遠くで、夜鳥が一度だけ鳴いた。


 それきり、また、火の音だけになる。


 いつもの夜だ。


 けれど、いつもの夜が、こんなに長く感じられたことは、なかった。


 ヒナが、数えの木札を、てのひらで撫でている。


 ナダから受け継いだ札だ。


 指の腹で、刻みの溝を、なぞっている。


 明日からは、この子が、八人の散った先を、その札に刻んでいく。


 誰が、どこへ行ったか。


 何人が、まだ、つながっているか。


 札は、いっぺんに失わないための道具でもあった。


 散っても、数えてさえいれば、つながりは消えない。


 どこにいるかが分かっていれば、いつか、また会える。


 ナダが二十年かけて作った数えの掟は、別れの夜に、初めて、その本当の意味を見せた気がした。


 私は、樫の棒を、膝の上に置いた。


 握りの内側の、灰の字を、てのひらで確かめる。


 あると知っている重さが、すこしだけ、重い。


 穴の底で骨を握った手が、今は樫を握っている。


 骨は、丘に埋めた。


 あの男の骨は、もう棒ではない。


 土の中で、ただの骨に戻った。


 穴に縦線、丘に骨。


 手放すべきものは、手放した。


 布も、外套も、骨も、ひとつずつ、別れてきた。


 けれど、懐には、読めない帳面が、まだある。


 カラスの遺品だ。


 薄い、読めない帳面。


 骨は納めたが、これだけは、納めなかった。


 なぜ持っているのか、自分でもうまく言えない。


 読めもしないのに、捨てられない。


 胸の内側で、それは、ずっと、温い。


 手放さなかった、ただひとつのものだった。


 明日、八人は、散る。


 けれど、それは、いっぺんに失う散り方では、ない。


 ひとりずつ、笑って、見送る散り方だ。


 いつか、また、どこかの火の輪の下で。


 そう言って送り出せる、別れだ。


 私は、それを、選んだ。


 火が、ゆっくりと、燃えていた。


 明日、サイが、いちばん先に発つだろう。


 あの斥候は、振り返らない。


 新しい土地に、誰よりも早く馴染む男だ。


 預けるまでもなく、自分の道を、もう見ている。


 次に、リンか、トビか。


 それぞれの潮で、それぞれが、出ていく。


 ひとりずつ、丘を下りていく。


 残るのは、ガロと、ナダと、ネネと、ヒナと、私。


 核に残った五人で、この廃砦を、商館に変えていく。


 散る三人と、残る五人。


 けれど、散ると言っても、消えるのではない。


 ヒナの数えの木札の上で、みんなは、つながったまま、ある。


 散る者と、残る者。


 どちらも、もう、奪う手ではなかった。


 これから、回す手になる。


 土地から土地へ、物を運び、銀を回し、土地と土地をつなぐ手に。


 奪われた者が、解いて回る盗賊から、物を回して世界をつなぐ商人へ。


 奪う手を、回す手へ。


 明日が、その、最初の日だった。


 私は、火に背を向けて、塒の方へ歩いた。


 最後の一夜を、眠る。


 明日からは、もう、見張りのいらない朝が続く。


 脅かされない朝に、私は、まだ慣れていない。


 目を覚ますたびに、頭の奥の番人が、危ないものを探すだろう。


 けれど、探しても、もう、危ないものはない。


 鎖切りはいないのだから。


 慣れていくのだろう。


 私も、すこしずつ、脅かされない朝に、商人の朝に、慣れていく。


 慣れるには、たぶん、長くかかる。


 穴の底で覚えたものは、なかなか、抜けない。


 樫の棒を背に負って、私は、振り返った。


 火を囲む、七つの顔があった。


 ガロ。


 ナダ。


 リン。


 トビ。


 ネネ。


 サイ。


 ヒナ。


 火明かりに照らされて、それぞれの顔が、橙に揺れている。


 明日には、その何人かが、丘を下りていく。


 今夜が、八つの顔がひとつの火を囲む、最後の夜だった。


 私は、その顔を、ひとつずつ、残った左の目に、しっかりと焼きつけた。


 いつか、また会う時のために。


 火の輪の下で、笑って再び会うための、覚えとして。


 名を殺し、塒を畳み、団を解いた。


 失うためではない別れが、明日から始まる。


 穴の底のあの冬とは、違う別れが。


 私は、四十になって、ようやく、笑って手放すことを、覚えようとしていた。


 残ったのは、ただの八人と、回しはじめる銀と、懐の読めない帳面と、明日への、静かな予感だけだった。


 脅かす者のいない、初めての夜が、更けていく。


 石の村を、畳みに、行く。

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