第4話「奪う手を、回す手へ」
次の朝、私たちは、団そのものを畳みにかかった。
その朝も、見張りはいなかった。
塔の上は、空のままだ。
けれど、もう、その空っぽに、私は驚かなかった。
一晩で、すこし慣れたらしい。
脅かされない朝に、人は、思ったより早く慣れるものかもしれない。
塒の痕跡は、おおかた消した。
見張りの石積みも、岩の符牒も、もうない。
丘の上は、ただの古い廃墟に戻りつつあった。
残っているのは、塒の痕跡ではなく、鎖切りという団そのものが、二十年かけて溜めてきたものだった。
武具、隠れ家の手当て、縄張りの覚え。
場所を畳むのと、団を畳むのは、違う。
場所は、石と土だ。
団は、人と、人のつながりだ。
それを、ひとつずつ、解いていく。
場所より、ずっと、手のかかる仕事だった。
まず、武具だった。
砦の地下の、乾いた室に、得物がしまってある。
崩れた床の隅に、地下へ下りる狭い石段がある。
その先の、ひんやりした室だ。
襲った列から取り上げた剣、槍、弓。
錆びないように油を引いて、布で巻いて、壁際に並べてある。
二十年で、ずいぶん溜まった。
けれどもう、襲う相手はいない。
守る縄張りもない。
要らない武具を、抱えていく道理はなかった。
八人で、室に下りた。
ひとり、またひとりと、狭い石段を下りていく。
足音が、石壁に反響して、いくつにも重なった。
下りるほどに、空気が冷たく、湿ってくる。
土と、鉄錆と、古い油の匂い。
二十年、奪ったものを溜めてきた、穴蔵の匂いだ。
穴の底を、ふいに思い出す。
けれどここは、私たちが、自分で掘って、自分で塞ぐ穴だった。
狭い石の室に、八人が肩を寄せて立つ。
松明の火が、湿った壁を舐めて、橙の光を投げている。
八人ぶんの息で、室の空気が、すこしずつ温まっていく。
久しぶりに、全員がひとつの場所に集まっていた。
この何年か、八人がそろって同じ仕事をすることは、めったになかった。
サイは斥候で出ていることが多く、トビは噂を集めに各地を回り、リンは市の町に薬草を売りに行く。
畳むという仕事だけは、どうしても、八人の手が要った。
「これは、売る」
ガロが、剣を一本、手に取った。
鍛冶の目で、刃を確かめる。
錆びていない、まともな剣だ。
鋳潰せば鉄になるし、そのまま売れば、それなりの値がつく。
商いの元手の、一部になる。
「これは、屑だ」
次の一本は、放った。
刃こぼれの激しい、使い物にならない剣だ。
屑鉄として、まとめておく。
ガロが、剣を、売る物と屑とに選り分ける。
ヒナが、それを数えて、木札に刻む。
リンが、布をほどいて、刃の油を拭き取る。
サイが、売る物を、新しい布で巻いて束ねる。
トビが、束を担いで、石段を上へ運び出す。
ネネが、空いた室の隅を片づけ、散らばった古い布を集める。
ナダが、壁際に座って、何がどこから来た得物かを、しわがれた声で覚えている。
あれは南の護送の列、あれは東の関所の兵から。
私は、たったひとつの手で、できることをやった。
軽い槍を運び、布の端を押さえ、ヒナの数えの相手をする。
八人の手が、それぞれに動いていた。
松明の炎が揺れるたび、その手のひとつひとつが、橙に照らされては、影に沈む。
ガロの節くれだった手、ヒナの大きくなった手、リンの細い指、サイの傷だらけの手。
八人ぶんの息で、地下の室は、いつのまにか、汗ばむほど温まっていた。
誰かが指図したわけではない。
二十年、一緒にやってきた者たちだ。
誰が何を得意とするか、互いに分かっている。
言葉は、ほとんど要らなかった。
松明の火と、布のこすれる音と、木札に刃を入れる音だけが、室に満ちていた。
これが、最後の共同作業になる。
誰も口には出さなかったが、みんな、それを知っていた。
だから、いつもより、すこし丁寧に手を動かしていた。
最後だから、丁寧に畳む。
それが、言葉にしない、八人の別れの仕方だった。
◆ ◇
武具を片づけたあと、私たちは、隠れ家の始末にかかった。
鎖切りの隠れ家は、ひとつではなかった。
廃砦が本拠だが、街道筋に、いくつもの隠れ場所を持っていた。
雨をしのぐ洞、荷を隠す廃屋、追われた時に身を寄せる炭焼きの小屋。
二十年で張りめぐらせた、潜るための網だった。
その網を、解く。
どの隠れ家も、誰かに恩を売って、見逃してもらっていた。
隠れ場所を貸す代わりに、その者の麦を盗まれないように守る。
あるいは、銭を渡しておく。
盗賊の網は、そういう細い義理で、つながっていた。
義理を、ひとつずつ、清算していった。
トビが、街道を回って、隠れ家の主たちに別れを告げて回る。
足の速い、口の回る男だ。
こういう役は、トビが一番いい。
世話になった礼を渡し、もう来ないと伝える。
借りていた洞や廃屋を、きれいにして返す。
後腐れを残さないためだ。
義理を踏み倒して消えれば、それは恨みになり、いつか追っ手に変わる。
だから、最後まで、義理は果たす。
畳むというのは、痕跡を消すだけでなく、借りを返しきることでもあった。
「もう、来ねえのか、と訊かれた」
夕方、街道から戻ったトビが、火の輪で言った。
一日かけて、いくつもの隠れ家を回ってきたらしい。
足が、埃で白くなっていた。
「なんて、答えた」
私が訊くと、トビは、片頬で笑った。
「通りすがりだった、って」
それは、いつか護送の列を解いた夜、鎖の男に名を訊かれて、トビが返した答えと、同じだった。
あの夜、私たちは通りすがりとして、鎖を解いて消えた。
今度は、通りすがりとして、隠れ家に別れを告げて去る。
私たちは、いつも、通りすがりだった。
名乗らず、現れ、奪い、そして消える。
隠れ家の主たちにとっても、私たちは名前のない通りすがりのままで、いてよかった。
名を知らなければ、役人に問い詰められても、答えようがない。
知らない、というのが、いちばん、互いを守る。
それも、カラスから手で覚えた、去り方のひとつだった。
あの言葉のない男も、誰にも名を残さずに、去った。
◆ ◇
縄張りの覚えを、最後に、火にくべた。
ナダの数えとは別に、私たちには、覚え書きがあった。
どの道に罠があるか、どの村が味方か、どの役人が買えるか。
長い年月で溜まった、潜るための知恵だ。
革に焼き付けたものもあれば、木札に刻んだものもある。
それを、火に入れた。
潜るための知恵は、もう要らない。
それどころか、残しておけば危ない。
誰が味方で、誰を脅していたか。
どの役人が酒で買えて、どの村が見て見ぬふりをしてくれたか。
それが他人の手に渡れば、私たちでなく、世話になった者たちが、巻き添えを食う。
義理で守ってきた者を、最後に、焼いて守る。
残すより、消すことが、守ることになる場合もあった。
火が、革を舐めて、縮れさせた。
革は、端から黒く反り返り、ぶすぶすと低い音を立てて燃える。
焼ける革の、髪を焦がすような嫌な匂いが、火の輪いっぱいに立ちこめた。
木札は、炎の中で炭になり、刻んだ字が、ひとつ、またひとつと、読めなくなっていく。
白い煙が、ひとすじ、まっすぐ夜空へ昇っていった。
八人で、火を囲んで、それを見ていた。
二十年の潜りが、煙になって、丘の上の空へ昇っていく。
月のない夜の襲撃、買った役人の名、貸し借りの覚え。
全部が、灰になっていく。
誰も、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、重くなかった。
失う沈黙ではない。
畳む沈黙だった。
一緒に積んできたものを、一緒に、片づける。
別れの前の、最後の共同作業だった。
火が、覚え書きを、すっかり灰にした。
灰が、夜風に、すこしずつ運ばれていく。
明日には、この八人の手が、それぞれの方角へ動きはじめる。
けれど今夜は、まだ、八人だった。
同じ火を、八人で囲む、最後の夜だった。
◆ ◇
畳む仕事は、その夜で、おおかた終わった。
見張りの石積みも、岩の符牒も、武具も、隠れ家の網も、潜りの覚えも、ぜんぶ片づいた。
残っているのは、これから商館に変えていく廃砦の、がらんとした石組みと、火に入れる日を待つ銀と、八人の、ただの人だけだった。
鎖切りは、もう、どこにもいない。
名を殺したのは一昨日の朝で、塒を畳んだのは昨日と今日だ。
名が死んで、その名の住んでいた場所が、片づいた。
そうやって、解散は、成立した。
討伐されたわけでも、誰かに散らされたわけでもない。
私たちが、自分の手で、自分の団を畳んだ。
解散というと、何か大きな出来事を思うかもしれない。
けれど、実際にやったのは、地味なことばかりだった。
石を崩し、岩の符牒を削り、銀を掘り出し、剣を選り分け、義理を返し、覚え書きを焼く。
その小さな手仕事を、いくつも積み重ねた先に、解散があった。
鎖切りという団は、稲妻に打たれて終わったのではない。
地味な手仕事の中で、すこしずつ、畳まれて、消えた。
穴の底で、私は、いっぺんに失うことを覚えた。
十二人が、ひと冬で岩になった。
飢えと寒さで、ひとり、またひとりと冷えていき、抗うこともできずに、いっぺんに。
最後には、私ひとりが残った。
あれが、私の知っている、群れの終わり方だった。
終わりは、いつも、もぎ取られるものだ。
自分の意志など、関係なかった。
だから私は、八人を得てからも、ずっと恐れていた。
この八人を、いつかまた、いっぺんに失うのではないかと。
穴の底のあの冬を、もう一度やるのではないかと。
その恐れがあったから、私は五編の朝に、散り方を選んだ。
別れの日をひとつに決めて、いっぺんに泣くような散り方は、しない、と。
慣れたやり方は、もう、したくなかった。
けれど、これは、そうではなかった。
私たちは、自分で決めて、自分の手で、ひとつずつ畳んだ。
失ったのではない。
畳んだのだ。
いっぺんに散らされたのではなく、片づけて、次へ進むために、解いた。
穴の底で覚えた終わり方とは、違う終わり方を、私は、四十になって、初めて選べた。
◆ ◇
最後の夜、火の輪に、八人が揃った。
ガロが火を熾し、リンが湯を沸かし、ヒナが水を汲んできた。
いつもの夜と、同じ手順だ。
同じ顔ぶれが、同じ火を囲む。
けれど、もう鎖切りではない。
盗賊団の火ではない。
ただの八人が、同じ火を囲んでいる。
名のない八人が。
火だけは、二十年、変わらずに燃えていた。
ガロが守り続けた火だ。
火を消さないことを覚えたのは、穴の底だった。
その手が、いまはこの丘で、二十年、火を絶やさずにきた。
火は、消さなければ、続く。
名は、水をやらなければ、枯れる。
守るものと、手放すものが、同じ火の輪の中に、あった。
誰も、別れの話はしなかった。
明日、それぞれが、それぞれの方角へ発つ。
けれど、その話は、しなかった。
涙の出る話を、夜にすると、火が湿る。
ナダが、昔、そう言ったことがある。
別れは、明るいうちに、笑ってするものだ、と。
だから、その夜は、いつもの夜のように過ぎた。
トビが軽口を叩き、誰かが小さく笑う。
ネネが、膝の上で繕い物の手を動かしている。
サイは、いつものように黙って、火を見ていた。
リンが、湯をもう一杯、配って回る。
ガロは、火に薪を足す。
ナダは、目を閉じて、火に当たっている。
眠っているのか、昔の海を思い出しているのか、分からない。
火が、ぱちりと爆ぜて、火の粉を、いくつか、闇へ放った。
誰かの笑い声が、丘の上の夜に、すぐ吸われて消える。
遠くで、夜鳥が一度だけ鳴いた。
それきり、また、火の音だけになる。
いつもの夜だ。
けれど、いつもの夜が、こんなに長く感じられたことは、なかった。
ヒナが、数えの木札を、てのひらで撫でている。
ナダから受け継いだ札だ。
指の腹で、刻みの溝を、なぞっている。
明日からは、この子が、八人の散った先を、その札に刻んでいく。
誰が、どこへ行ったか。
何人が、まだ、つながっているか。
札は、いっぺんに失わないための道具でもあった。
散っても、数えてさえいれば、つながりは消えない。
どこにいるかが分かっていれば、いつか、また会える。
ナダが二十年かけて作った数えの掟は、別れの夜に、初めて、その本当の意味を見せた気がした。
私は、樫の棒を、膝の上に置いた。
握りの内側の、灰の字を、てのひらで確かめる。
あると知っている重さが、すこしだけ、重い。
穴の底で骨を握った手が、今は樫を握っている。
骨は、丘に埋めた。
あの男の骨は、もう棒ではない。
土の中で、ただの骨に戻った。
穴に縦線、丘に骨。
手放すべきものは、手放した。
布も、外套も、骨も、ひとつずつ、別れてきた。
けれど、懐には、読めない帳面が、まだある。
カラスの遺品だ。
薄い、読めない帳面。
骨は納めたが、これだけは、納めなかった。
なぜ持っているのか、自分でもうまく言えない。
読めもしないのに、捨てられない。
胸の内側で、それは、ずっと、温い。
手放さなかった、ただひとつのものだった。
明日、八人は、散る。
けれど、それは、いっぺんに失う散り方では、ない。
ひとりずつ、笑って、見送る散り方だ。
いつか、また、どこかの火の輪の下で。
そう言って送り出せる、別れだ。
私は、それを、選んだ。
火が、ゆっくりと、燃えていた。
明日、サイが、いちばん先に発つだろう。
あの斥候は、振り返らない。
新しい土地に、誰よりも早く馴染む男だ。
預けるまでもなく、自分の道を、もう見ている。
次に、リンか、トビか。
それぞれの潮で、それぞれが、出ていく。
ひとりずつ、丘を下りていく。
残るのは、ガロと、ナダと、ネネと、ヒナと、私。
核に残った五人で、この廃砦を、商館に変えていく。
散る三人と、残る五人。
けれど、散ると言っても、消えるのではない。
ヒナの数えの木札の上で、みんなは、つながったまま、ある。
散る者と、残る者。
どちらも、もう、奪う手ではなかった。
これから、回す手になる。
土地から土地へ、物を運び、銀を回し、土地と土地をつなぐ手に。
奪われた者が、解いて回る盗賊から、物を回して世界をつなぐ商人へ。
奪う手を、回す手へ。
明日が、その、最初の日だった。
私は、火に背を向けて、塒の方へ歩いた。
最後の一夜を、眠る。
明日からは、もう、見張りのいらない朝が続く。
脅かされない朝に、私は、まだ慣れていない。
目を覚ますたびに、頭の奥の番人が、危ないものを探すだろう。
けれど、探しても、もう、危ないものはない。
鎖切りはいないのだから。
慣れていくのだろう。
私も、すこしずつ、脅かされない朝に、商人の朝に、慣れていく。
慣れるには、たぶん、長くかかる。
穴の底で覚えたものは、なかなか、抜けない。
樫の棒を背に負って、私は、振り返った。
火を囲む、七つの顔があった。
ガロ。
ナダ。
リン。
トビ。
ネネ。
サイ。
ヒナ。
火明かりに照らされて、それぞれの顔が、橙に揺れている。
明日には、その何人かが、丘を下りていく。
今夜が、八つの顔がひとつの火を囲む、最後の夜だった。
私は、その顔を、ひとつずつ、残った左の目に、しっかりと焼きつけた。
いつか、また会う時のために。
火の輪の下で、笑って再び会うための、覚えとして。
名を殺し、塒を畳み、団を解いた。
失うためではない別れが、明日から始まる。
穴の底のあの冬とは、違う別れが。
私は、四十になって、ようやく、笑って手放すことを、覚えようとしていた。
残ったのは、ただの八人と、回しはじめる銀と、懐の読めない帳面と、明日への、静かな予感だけだった。
脅かす者のいない、初めての夜が、更けていく。
石の村を、畳みに、行く。





