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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第3話「足りない土地へ」


 昼を過ぎて、私は、三つの革袋を、全部、塔の下から引き上げた。


 二十年分の蓄えだ。


 床にあけて、ガロと二人で、刻みのある銀と、ない銀とに、選り分けていく。


 刻みのない銀もある。


 商いで得た、まっとうな銭だ。


 それはそのまま使える。


 けれど多くは、奪った銀だった。


 役所の刻み、領主の印、帳面に載った名を持つ銀。


 選り分けるのも、地味な仕事だった。


 一枚ずつ手に取り、縁を、残った左の目に近づけ、刻みの有無を確かめる。


 刻みがあれば、右の山。


 なければ、左の山。


 ガロが大きな手で何枚もまとめて見ていく横で、私は、三本の指で、一枚ずつ。


 日が、崩れた壁の影を、すこしずつ動かしていった。


 選り分けると、山は、ふたつになった。


 名のある銀の山と、名のない銀の山。


 名のある方が、ずっと高かった。


 三倍は、あっただろうか。


 二十年、私たちが奪ってきたものの、ほとんどが、誰かのものだった証だ。


 盗んだ銀には、盗まれる前の持ち主がいる。


 その持ち主の名が、刻みになって、銀に残っている。


 山の高さは、私たちが奪った夜の数でもあった。


「こっちの山は、火に入れる」


 私は、名のある銀の山を指した。


 ガロが頷く。


 刻みを溶かして、無名の塊にする。


 それからでないと、市には出せない。


「どのくらい、減る」


 私が訊くと、ガロは銀をひとつまみ、てのひらで弾ませた。


 重さを、量っている。


「溶かしゃ、目減りはする。だが、刻みつきを抱えてるよりは、いい」


 目減りはする。


 火に入れれば、いくらかは煙になり、坩堝の縁に残り、失われる。


 けれど、刻みのある銀を抱えたまま市に出るより、目減りした無名の銀の方が、ずっと安全だった。


 名のある銀は、いつか必ず読まれる。


 一度や二度は、ごまかせるかもしれない。


 だが、土地から土地へ、何年も回していれば、いつかは鋭い目に当たる。


 読まれれば、すべてを失う。


 銀も、信用も、命も。


 目減りは、名を消すための、安い代価だった。


 商いは、こういう勘定の積み重ねらしかった。


 奪う時は、ただ多く取ることだけを考えていればよかった。


 回す時は、いかに失わずに済ますかを、いつも考えていなければならない。


  ◆  ◇


 ナダが、杖をつきながら、火の輪へやってきた。


 いちばんの年寄りだ。


 元は船乗りで、数えの祖でもある。


 背は曲がり、足はもう速くないが、目だけは、まだ海を見ていた頃の鋭さを残している。


 海の値を知り、川の値を知り、どの港で何が高く、どの土地で何が安いかを、頭の中に地図のように持っている。


 その地図を、私はこの二十年で、すこしずつ写し取ってきた。


 商人になると決めた時、私の中には、もうナダの地図があった。


 だから、迷わなかった。


 ナダは、名のある銀の山を見て、目を細めた。


「無名にしてからの話だが」


 しわがれた声だ。


 けれど、値の話になると、声に張りが戻る。


「銀は、銀のままじゃ、増えねえ」


「分かってる」


「銀を、足りねえ土地へ運んで、そこで物に換える。物を、銀の高え土地へ運んで、また銀にする。その差が、商いだ」


 ナダは、節くれだった指で、空に小さな円を描いた。


 銀が、物になり、また銀に戻る。


 その円が、すこしずつ膨らんでいく。


 それが、回す手の仕事だった。


 私は頷いた。


 世界の仕組みを、ナダは、たったひと言で言う。


 物は、足りない場所と、余る場所がある。


 その差を埋めるだけで、暮らしが立つ。


 奪わずに。


 盗賊は、世界の差を、自分のために削る。


 商人は、世界の差を、埋めて回る。


「どの土地が、銀を欲しがってる」


 私が訊くと、ナダは、しゃがんで、地に杖の先で線を引いた。


 北街道の、形だ。


 乾いた地面に、杖の先が、しゃり、しゃり、と浅い溝を刻む。


 一本の長い線を引き、その横に、いくつもの点を打つ。


 宿場、関所、川の渡し、港。


 土埃が、線の縁に、白く盛り上がっていく。


 杖の先が、街道筋の点を、ひとつずつ突く。


 ここは塩が足りない。


 ここは鉄が余っている。


 ここは麦が高い。


 点を突くたびに、短い言葉が添えられる。


 老いた船乗りの頭の中で、大陸の値が、生きた地図になって動いていた。


 地に描かれた線は、ただの引っかき傷だ。


 けれどナダの目には、その線の上を、銀と物が、行ったり来たりしているのが見えているらしかった。


 私は、その地図を、残った左の目に、刻みつけた。


「だが、それも、無名の銀があってからだ」


 ナダは、また、名のある銀の山を見た。


 古い船乗りの目が、その山に、危うさを見ている。


「刻みつきを持って市に立ったら、最初の取引で、お前は捕まる」


 その言葉を、私は、胸に刻んだ。


 商いの第一歩は、儲けることではなかった。


 捕まらないことだった。


 名のある銀を、名のない銀に変える。


 それができてからでなければ、何も始まらない。


 ナダの値の地図も、足りない土地への道筋も、すべては、火に入れたあとの話だった。


 だから、最初の仕事は、決まっていた。


 銀の名を、溶かすこと。


 それが、商人としての、私の最初の一歩になる。


  ◆  ◇


 夕方、私は、名のある銀を、もう一度、ひとつの革袋にまとめた。


 火に入れる日まで、しまっておく銀だ。


 革袋を、私は、樫の棒のそばに置いた。


 握りの内側に、灰の字が刻んである。


 あれも、しまわれた名だ。


 握れば隠れて、開けばある。


 私の名は、樫の握りの中で、しまわれたまま、生きていた。


 銀の名は、消す。


 私の名は、しまう。


 消した名は、もう戻らない。


 けれど、しまった名は、いつか取り出せる。


 私はまだ、自分の名を捨ててはいない。


 今は名乗る時ではないから、握りの内側にしまってある。


 それだけだ。


 いつか、名乗る日が来る。


 その日まで、私は、名のない隻腕の女として、土地から土地へ、銀を回す。


 名を立てず、目立たず、ただの一人の商人として。


 それが、しまった名を守る、いちばんの守り方だった。


 夕日が、廃砦の崩れた壁を、赤く染めていた。


 街道はもう、夕闇に沈みかけていた。


 一日が、終わろうとしていた。


 塒を畳む、二日目の終わりだった。


 革袋の銀が、その赤を吸って、鈍く光っていた。


 名のある銀も、ない銀も、同じように赤い。


 火に入れてしまえば、どちらも区別がつかなくなる。


 明日には、もうひとつの仕事が待っていた。


 塒は畳んだ。


 次は、団そのものを、畳む仕事が。

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