第3話「足りない土地へ」
昼を過ぎて、私は、三つの革袋を、全部、塔の下から引き上げた。
二十年分の蓄えだ。
床にあけて、ガロと二人で、刻みのある銀と、ない銀とに、選り分けていく。
刻みのない銀もある。
商いで得た、まっとうな銭だ。
それはそのまま使える。
けれど多くは、奪った銀だった。
役所の刻み、領主の印、帳面に載った名を持つ銀。
選り分けるのも、地味な仕事だった。
一枚ずつ手に取り、縁を、残った左の目に近づけ、刻みの有無を確かめる。
刻みがあれば、右の山。
なければ、左の山。
ガロが大きな手で何枚もまとめて見ていく横で、私は、三本の指で、一枚ずつ。
日が、崩れた壁の影を、すこしずつ動かしていった。
選り分けると、山は、ふたつになった。
名のある銀の山と、名のない銀の山。
名のある方が、ずっと高かった。
三倍は、あっただろうか。
二十年、私たちが奪ってきたものの、ほとんどが、誰かのものだった証だ。
盗んだ銀には、盗まれる前の持ち主がいる。
その持ち主の名が、刻みになって、銀に残っている。
山の高さは、私たちが奪った夜の数でもあった。
「こっちの山は、火に入れる」
私は、名のある銀の山を指した。
ガロが頷く。
刻みを溶かして、無名の塊にする。
それからでないと、市には出せない。
「どのくらい、減る」
私が訊くと、ガロは銀をひとつまみ、てのひらで弾ませた。
重さを、量っている。
「溶かしゃ、目減りはする。だが、刻みつきを抱えてるよりは、いい」
目減りはする。
火に入れれば、いくらかは煙になり、坩堝の縁に残り、失われる。
けれど、刻みのある銀を抱えたまま市に出るより、目減りした無名の銀の方が、ずっと安全だった。
名のある銀は、いつか必ず読まれる。
一度や二度は、ごまかせるかもしれない。
だが、土地から土地へ、何年も回していれば、いつかは鋭い目に当たる。
読まれれば、すべてを失う。
銀も、信用も、命も。
目減りは、名を消すための、安い代価だった。
商いは、こういう勘定の積み重ねらしかった。
奪う時は、ただ多く取ることだけを考えていればよかった。
回す時は、いかに失わずに済ますかを、いつも考えていなければならない。
◆ ◇
ナダが、杖をつきながら、火の輪へやってきた。
いちばんの年寄りだ。
元は船乗りで、数えの祖でもある。
背は曲がり、足はもう速くないが、目だけは、まだ海を見ていた頃の鋭さを残している。
海の値を知り、川の値を知り、どの港で何が高く、どの土地で何が安いかを、頭の中に地図のように持っている。
その地図を、私はこの二十年で、すこしずつ写し取ってきた。
商人になると決めた時、私の中には、もうナダの地図があった。
だから、迷わなかった。
ナダは、名のある銀の山を見て、目を細めた。
「無名にしてからの話だが」
しわがれた声だ。
けれど、値の話になると、声に張りが戻る。
「銀は、銀のままじゃ、増えねえ」
「分かってる」
「銀を、足りねえ土地へ運んで、そこで物に換える。物を、銀の高え土地へ運んで、また銀にする。その差が、商いだ」
ナダは、節くれだった指で、空に小さな円を描いた。
銀が、物になり、また銀に戻る。
その円が、すこしずつ膨らんでいく。
それが、回す手の仕事だった。
私は頷いた。
世界の仕組みを、ナダは、たったひと言で言う。
物は、足りない場所と、余る場所がある。
その差を埋めるだけで、暮らしが立つ。
奪わずに。
盗賊は、世界の差を、自分のために削る。
商人は、世界の差を、埋めて回る。
「どの土地が、銀を欲しがってる」
私が訊くと、ナダは、しゃがんで、地に杖の先で線を引いた。
北街道の、形だ。
乾いた地面に、杖の先が、しゃり、しゃり、と浅い溝を刻む。
一本の長い線を引き、その横に、いくつもの点を打つ。
宿場、関所、川の渡し、港。
土埃が、線の縁に、白く盛り上がっていく。
杖の先が、街道筋の点を、ひとつずつ突く。
ここは塩が足りない。
ここは鉄が余っている。
ここは麦が高い。
点を突くたびに、短い言葉が添えられる。
老いた船乗りの頭の中で、大陸の値が、生きた地図になって動いていた。
地に描かれた線は、ただの引っかき傷だ。
けれどナダの目には、その線の上を、銀と物が、行ったり来たりしているのが見えているらしかった。
私は、その地図を、残った左の目に、刻みつけた。
「だが、それも、無名の銀があってからだ」
ナダは、また、名のある銀の山を見た。
古い船乗りの目が、その山に、危うさを見ている。
「刻みつきを持って市に立ったら、最初の取引で、お前は捕まる」
その言葉を、私は、胸に刻んだ。
商いの第一歩は、儲けることではなかった。
捕まらないことだった。
名のある銀を、名のない銀に変える。
それができてからでなければ、何も始まらない。
ナダの値の地図も、足りない土地への道筋も、すべては、火に入れたあとの話だった。
だから、最初の仕事は、決まっていた。
銀の名を、溶かすこと。
それが、商人としての、私の最初の一歩になる。
◆ ◇
夕方、私は、名のある銀を、もう一度、ひとつの革袋にまとめた。
火に入れる日まで、しまっておく銀だ。
革袋を、私は、樫の棒のそばに置いた。
握りの内側に、灰の字が刻んである。
あれも、しまわれた名だ。
握れば隠れて、開けばある。
私の名は、樫の握りの中で、しまわれたまま、生きていた。
銀の名は、消す。
私の名は、しまう。
消した名は、もう戻らない。
けれど、しまった名は、いつか取り出せる。
私はまだ、自分の名を捨ててはいない。
今は名乗る時ではないから、握りの内側にしまってある。
それだけだ。
いつか、名乗る日が来る。
その日まで、私は、名のない隻腕の女として、土地から土地へ、銀を回す。
名を立てず、目立たず、ただの一人の商人として。
それが、しまった名を守る、いちばんの守り方だった。
夕日が、廃砦の崩れた壁を、赤く染めていた。
街道はもう、夕闇に沈みかけていた。
一日が、終わろうとしていた。
塒を畳む、二日目の終わりだった。
革袋の銀が、その赤を吸って、鈍く光っていた。
名のある銀も、ない銀も、同じように赤い。
火に入れてしまえば、どちらも区別がつかなくなる。
明日には、もうひとつの仕事が待っていた。
塒は畳んだ。
次は、団そのものを、畳む仕事が。





