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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第2話「石を、崩す」


 朝の椀を空けて、私たちは、畳む仕事にかかった。


 畳むといっても、作法があるわけではない。


 盗賊は、たいてい、畳む前に散らされる。


 兵が来て、討たれて、終わる。


 自分の手で塒を畳んで去る盗賊など、めったにいない。


 手本は、なかった。


 けれど、私の中には、順序があった。


 穴の底で覚えたのだ。


 残していく場所は、痕跡を消してから去る。


 誰が、いつ、何人いたか。


 それを、後から来る者に読ませない。


 その順序を、私は、考えるより先に、手が知っていた。


 まず、見張りの石積みを崩した。


 崩れた塔の上には、二十年かけて積んだ石があった。


 風よけの低い壁だ。


 冬の夜、街道を吹き上がってくる風から見張りの背を守るために、ひとつずつ、石を積んだ。


 隙間には小石を噛ませ、座りやすいように均してある。


 誰がいつ積んだかも、もう分からない。


 みんなが、すこしずつ足していった壁だった。


 ヒナと、崩れた塔の段を登った。


 欠けた石に足をかけ、たったひとつの手で、体を引き上げる。


 塔の上は、風が強い。


 立つと、街道も、丘の下も、ひと目で見渡せた。


 ヒナと二人で、その石を崩した。


 私には、ひとつの手しかない。


 大きな石は持てない。


 重い石はヒナが抱える。


 低く腰を落とし、両の腕で石を抱え、丘の縁まで運んで、放る。


 私は、隙間に詰めた小石を、指先で抜いていく。


 三本の指と親指で、ひとつずつ。


 爪の先で小石の縁を引っかけ、ぐらつかせて、抜く。


 小石が抜けると、噛み合っていた積み石が、ゆるむ。


 ゆるんだところを、肩で押す。


 たったひとつの肩の重さを、石の腹に当て、体ごと預ける。


 すると、壁はゆっくりと傾いて、崩れた。


 石が、斜面を転がり落ちていった。


 低い地鳴りのような音が、丘の腹を伝って、街道の方へ消えていった。


 二十年積んだものが、半日もかからずに崩れる。


 積むのは長く、崩すのは早い。


 ひとつ崩すごとに、私は、肩で息をした。


 たったひとつの腕で石を起こすのは、両の腕がある者の、倍は骨に来る。


 汗が、こめかみから顎へ伝い、岩の粉と混じって、灰色の筋になって落ちる。


 それでも、手は止めなかった。


 止めれば、また、考えはじめる。


 崩すという仕事は、考えずに済む分だけ、ありがたい。


「もったいねえな」


 石を抱えたまま、トビが言った。


 塔の根方で、こちらを見上げている。


「ここまで積んだのに」


「積んだから、崩す」


 私は答えた。


 人の手で積まれた石は、自然の崩れ方をしない。


 後から来た兵が、この壁を見れば、ここに見張りがいたと読む。


 読まれれば、追われる。


 名を殺しても、痕跡が残れば、その痕跡の方が、私たちを追ってくる。


 だから、崩す。


 人の手の痕を、自然の崩れに紛れさせて、見張りは、いなかったことにする。


  ◆  ◇


 石積みを崩したあと、私は崖際の岩へ回った。


 砦の裏手、北に面した岩肌に、私たちの符牒が刻んである。


 縄張りの境を示す印だ。


 盗賊には盗賊の地図があって、岩や木の幹に刻んだ細い線で、ここから先は誰の縄張りかを示す。


 鎖切りの縄張りには、鎖切りの符牒があった。


 その符牒を、削る。


 樫の棒で岩は削れない。


 私は腰の短刀を抜いた。


 たったひとつの手で柄を握り、岩肌の浅い溝に刃先を当てて、こそげていく。


 線をなぞるのではない。


 線の周りごと、岩の表を浅く削り取る。


 そうすれば、刻んだ線が、ただの傷に紛れる。


 地味な仕事だった。


 腕が一本しかないから、岩を押さえる手がない。


 だから、体の重さで柄を岩に押しつけ、刃の角度を肩で決める。


 穴の底で骨を握った頃から、片手で足りない分を、肩で、腰で、体の重さで、補ってきた。


 足りないことには、もう慣れている。


 刃の下で、線が、すこしずつ浅くなっていく。


 同じところを、何度も、こそげる。


 鉄錆のような、岩の味が、口の中にまで漂ってくる。


 それでも、削る手は、止めない。


 符牒がひとつ、消えた。


 ただの引っかき傷になった岩肌を、私は、しばらく見ていた。


 さっきまで、ここから先は鎖切りの縄張りだ、と、線が語っていた。


 けれど今は、何も語らない。


 意味を、削り落とした。


 次の岩へ移って、もうひとつ。


 さらに次の木の幹へ移って、もうひとつ。


 半日かけて、私は、丘の周りの符牒を、すべて削った。


 これでもう、この丘は誰の縄張りでもない。


 名は水をやらなければ枯れたが、線は、刃で削るしかなかった。


 削りながら、私はカラスの声を思い出していた。


 痕跡を消せ、と、あの言葉のない男が口で言ったことはない。


 けれど、あの二年で、私はそれを手で覚えた。


 去る時は、来た時より静かに。


 読まれる印は、残すな。


 読めない帳面を懐に抱えたまま、あの男は誰にも自分を読ませずに死んだ。


 私は今、その去り方を、岩の上でなぞっている。


  ◆  ◇


 昼に近づいた頃、私は塔の真下の、崩れた床に立った。


 床の隅に、平たい石が一枚、嵌まっている。


 他の床石より、わずかに新しい。


 二十年前、ここを塒にした最初の年に、私が嵌めた石だった。


 短刀の先を縁に差し込んで、片手では持ち上がらないから、刃でこじって、横へずらす。


 石がずれると、下に空洞が現れた。


 日の差さない、二十年ぶんの闇の匂いが、立ちのぼってくる。


 穴の中に、革袋が三つ、埋めてあった。


 長く埋めてあった革は、しっとりと湿って、色が濃くなっている。


 私はその一番上の袋に、たったひとつの手を伸ばした。


 引き上げる時、肩の付け根が、ぎしりと鳴る。


 思っていたより、重い。


 隠し財だ。


 鎖切りの二十年が、そこに溜めてあった。


 襲った護送の列から取った銀、商いで得た銭、いざという時のための蓄え。


 八人が散ったあと、それぞれが新しい土地で立つための、足場の金だった。


 口の紐を解くと、銀の重みが、てのひらに沈んだ。


 日に当たって、鈍く光る。


 けれど、ただの銀ではなかった。


 一枚を指でつまんで、残った左の目で、その表を読む。


 刻みがあった。


 役所の刻みだ。


 銀の表に、小さな印が打ってある。


 この銀が、どこの帳面に載っているかを示す名だった。


 銀にも、名がある。


 名のある銀は、そのままでは、市で使えない。


 三本の指と親指で、銀の縁をなぞる。


 役所の印は、てのひらの脂を吸って、黒く沈んでいる。


 爪の先ほどの、浅い刻みだ。


 銀は黙っているが、刻みは語る。


 穴の底で、私には番号があった。


 八百三十二番。


 呼ばれても、私の中の何も温まらなかったが、あれは私を向こうの帳面に縛る名だった。


 名は、人を所有する。


 この銀も、同じだ。


 刻みがあるから、誰かのものだ。


 市に出せば印が読まれ、出どころを問われる。


 だから、名を消さなければならない。


 私は自分の名を樫の握りの内側にしまえたが、銀の名は、しまえない。


 火に入れて、溶かして、なかったことにするしかない。


 鎖切りは奪うのをやめれば枯れたが、役所の刻みは、放っておいても乾かない。


  ◆  ◇


 私は、革袋の銀を、すべて床にあけた。


 崩れた床石の上に、銀が散らばる。


 日の光を受けて、てんでに鈍く光る。


 数えれば、二十年分の重みだ。


 けれどこの一枚一枚に、刻みが打ってある。


 名のある銀の、山だった。


 ガロが、火の方からやってきた。


 散らばった銀を見て、私の隣に、しゃがみ込む。


 膝が、鈍い音を立てた。


 年寄りの膝だ。


 一枚を拾い、刻みを、節くれだった指で確かめる。


 鉄の良し悪しを見ただけで見抜く目が、銀の表を読んでいる。


「役所の銀か」


 ガロが、低い声で言った。


 問いではない。


 確かめただけだ。


「そのままじゃ、使えない」


 私が答えると、ガロは、もう一枚を拾って、刻みを指でなぞった。


「鋳潰すしか、ねえな」


 一枚を放る。


 銀が、乾いた音を立てて、他の銀の上に落ちた。


 ちん、と高い音が、崩れた床に響いた。


 鋳潰す。


 火に入れて、溶かせば、役所の印も、帳面に載った名も、すべて溶けて、ただの銀の塊になる。


 名のない銀なら、誰のものでもない。


 誰にでも使える。


 けれど、それは今日の仕事ではなかった。


 鋳潰すには、坩堝と鞴がいる。


 廃砦を商館に変えていく時に、ガロが手を入れる仕事だ。


 今日はまだ、掘り出して、確かめるところまで。


 私は散らばった銀を、もう一度、革袋に集めはじめた。


 たったひとつの手で、銀を一枚ずつ拾う。


 三本の指と親指で、冷たい銀をつまんで、袋の口へ運ぶ。


 一枚。


 また一枚。


 何十枚も。


 すくう手はないから、一枚ずつだ。


 日が傾くまでかかってもいい。


 急ぐ仕事ではなかった。


 崩れた壁の隙間から差す日が、床の上を、ゆっくりと移っていく。


 さっきまで銀を照らしていた光の帯が、いつのまにか、私の膝の上に来ていた。


 銀が一枚、袋の口で、ちん、と他の銀に触れる。


 その音だけが、がらんとした床に、ぽつり、ぽつりと落ちていく。


 拾いながら、私は、考えていた。


 指は動いているのに、頭は、別のところを歩いていた。


  ◆  ◇


 奪うのは、早い。


 護送の列を襲う。


 月のない夜を選び、樫の棒で見張りの膝裏を打ち、銀の箱を担いで丘へ帰れば、明け方には、もう塒だ。


 奪う手は、力で世界をねじ曲げる手だった。


 速くて、荒い。


 けれど、回す手は、遅い。


 奪った銀を、回る銀に変えるには、まず名を消さなければならない。


 刻みを溶かし、塊にして、目方を測り、市の相場を読み、足りない土地を探し、そこへ運んで、物に換えて、その物をまた銀の高い土地へ運んで、銀に戻す。


 ひとつひとつが、地味な手間だ。


 奪うのに一夜かかったものを、回すのには、何十日もかかる。


 それが、商いというものらしかった。


 奪う手が、回す手になる。


 火の輪で言葉にした時、それは、まだ言葉だった。


 商人になる、奪わずに回す、と。


 けれど言葉は、言っただけでは、何も変えない。


 手が動いて、初めて、変わる。


 岩の符牒を削り、石積みを崩し、刻みのある銀を一枚ずつ拾う。


 そういう、地味なことの積み重ねが、言葉を、本当のことにしていく。


 それは、誓いのような、立派なものではなかった。


 ただ、片手で銀を拾う、退屈な手の動きの中で、私は商人になっていった。


 誰も見ていない、丘の上の崩れた床で。


 その変わり目に、稲妻のような瞬間はない。


 大きく盗む者から先に死んでいったように、盗賊で生き残ったのは、地味さだった。


 商人で生き残るのも、たぶん、地味さだ。


 奪う手が回す手になるのに、特別な日はなかったのだと、いまなら書ける。


 あったのは、長い午後の、地味な手の動きだけだった。


 私は、最後の一枚を、袋に戻した。


 てのひらに、銀の冷たさが残っていた。


 けれどその冷たさは、もう、奪った冷たさではない。


 これから回していく銀の、最初の重さだ。


 同じ銀なのに、手の中での意味が、変わっていた。


 変えたのは、火でも、刃でもない。


 私の、この、ひとつだけの手だった。

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