第2話「石を、崩す」
朝の椀を空けて、私たちは、畳む仕事にかかった。
畳むといっても、作法があるわけではない。
盗賊は、たいてい、畳む前に散らされる。
兵が来て、討たれて、終わる。
自分の手で塒を畳んで去る盗賊など、めったにいない。
手本は、なかった。
けれど、私の中には、順序があった。
穴の底で覚えたのだ。
残していく場所は、痕跡を消してから去る。
誰が、いつ、何人いたか。
それを、後から来る者に読ませない。
その順序を、私は、考えるより先に、手が知っていた。
まず、見張りの石積みを崩した。
崩れた塔の上には、二十年かけて積んだ石があった。
風よけの低い壁だ。
冬の夜、街道を吹き上がってくる風から見張りの背を守るために、ひとつずつ、石を積んだ。
隙間には小石を噛ませ、座りやすいように均してある。
誰がいつ積んだかも、もう分からない。
みんなが、すこしずつ足していった壁だった。
ヒナと、崩れた塔の段を登った。
欠けた石に足をかけ、たったひとつの手で、体を引き上げる。
塔の上は、風が強い。
立つと、街道も、丘の下も、ひと目で見渡せた。
ヒナと二人で、その石を崩した。
私には、ひとつの手しかない。
大きな石は持てない。
重い石はヒナが抱える。
低く腰を落とし、両の腕で石を抱え、丘の縁まで運んで、放る。
私は、隙間に詰めた小石を、指先で抜いていく。
三本の指と親指で、ひとつずつ。
爪の先で小石の縁を引っかけ、ぐらつかせて、抜く。
小石が抜けると、噛み合っていた積み石が、ゆるむ。
ゆるんだところを、肩で押す。
たったひとつの肩の重さを、石の腹に当て、体ごと預ける。
すると、壁はゆっくりと傾いて、崩れた。
石が、斜面を転がり落ちていった。
低い地鳴りのような音が、丘の腹を伝って、街道の方へ消えていった。
二十年積んだものが、半日もかからずに崩れる。
積むのは長く、崩すのは早い。
ひとつ崩すごとに、私は、肩で息をした。
たったひとつの腕で石を起こすのは、両の腕がある者の、倍は骨に来る。
汗が、こめかみから顎へ伝い、岩の粉と混じって、灰色の筋になって落ちる。
それでも、手は止めなかった。
止めれば、また、考えはじめる。
崩すという仕事は、考えずに済む分だけ、ありがたい。
「もったいねえな」
石を抱えたまま、トビが言った。
塔の根方で、こちらを見上げている。
「ここまで積んだのに」
「積んだから、崩す」
私は答えた。
人の手で積まれた石は、自然の崩れ方をしない。
後から来た兵が、この壁を見れば、ここに見張りがいたと読む。
読まれれば、追われる。
名を殺しても、痕跡が残れば、その痕跡の方が、私たちを追ってくる。
だから、崩す。
人の手の痕を、自然の崩れに紛れさせて、見張りは、いなかったことにする。
◆ ◇
石積みを崩したあと、私は崖際の岩へ回った。
砦の裏手、北に面した岩肌に、私たちの符牒が刻んである。
縄張りの境を示す印だ。
盗賊には盗賊の地図があって、岩や木の幹に刻んだ細い線で、ここから先は誰の縄張りかを示す。
鎖切りの縄張りには、鎖切りの符牒があった。
その符牒を、削る。
樫の棒で岩は削れない。
私は腰の短刀を抜いた。
たったひとつの手で柄を握り、岩肌の浅い溝に刃先を当てて、こそげていく。
線をなぞるのではない。
線の周りごと、岩の表を浅く削り取る。
そうすれば、刻んだ線が、ただの傷に紛れる。
地味な仕事だった。
腕が一本しかないから、岩を押さえる手がない。
だから、体の重さで柄を岩に押しつけ、刃の角度を肩で決める。
穴の底で骨を握った頃から、片手で足りない分を、肩で、腰で、体の重さで、補ってきた。
足りないことには、もう慣れている。
刃の下で、線が、すこしずつ浅くなっていく。
同じところを、何度も、こそげる。
鉄錆のような、岩の味が、口の中にまで漂ってくる。
それでも、削る手は、止めない。
符牒がひとつ、消えた。
ただの引っかき傷になった岩肌を、私は、しばらく見ていた。
さっきまで、ここから先は鎖切りの縄張りだ、と、線が語っていた。
けれど今は、何も語らない。
意味を、削り落とした。
次の岩へ移って、もうひとつ。
さらに次の木の幹へ移って、もうひとつ。
半日かけて、私は、丘の周りの符牒を、すべて削った。
これでもう、この丘は誰の縄張りでもない。
名は水をやらなければ枯れたが、線は、刃で削るしかなかった。
削りながら、私はカラスの声を思い出していた。
痕跡を消せ、と、あの言葉のない男が口で言ったことはない。
けれど、あの二年で、私はそれを手で覚えた。
去る時は、来た時より静かに。
読まれる印は、残すな。
読めない帳面を懐に抱えたまま、あの男は誰にも自分を読ませずに死んだ。
私は今、その去り方を、岩の上でなぞっている。
◆ ◇
昼に近づいた頃、私は塔の真下の、崩れた床に立った。
床の隅に、平たい石が一枚、嵌まっている。
他の床石より、わずかに新しい。
二十年前、ここを塒にした最初の年に、私が嵌めた石だった。
短刀の先を縁に差し込んで、片手では持ち上がらないから、刃でこじって、横へずらす。
石がずれると、下に空洞が現れた。
日の差さない、二十年ぶんの闇の匂いが、立ちのぼってくる。
穴の中に、革袋が三つ、埋めてあった。
長く埋めてあった革は、しっとりと湿って、色が濃くなっている。
私はその一番上の袋に、たったひとつの手を伸ばした。
引き上げる時、肩の付け根が、ぎしりと鳴る。
思っていたより、重い。
隠し財だ。
鎖切りの二十年が、そこに溜めてあった。
襲った護送の列から取った銀、商いで得た銭、いざという時のための蓄え。
八人が散ったあと、それぞれが新しい土地で立つための、足場の金だった。
口の紐を解くと、銀の重みが、てのひらに沈んだ。
日に当たって、鈍く光る。
けれど、ただの銀ではなかった。
一枚を指でつまんで、残った左の目で、その表を読む。
刻みがあった。
役所の刻みだ。
銀の表に、小さな印が打ってある。
この銀が、どこの帳面に載っているかを示す名だった。
銀にも、名がある。
名のある銀は、そのままでは、市で使えない。
三本の指と親指で、銀の縁をなぞる。
役所の印は、てのひらの脂を吸って、黒く沈んでいる。
爪の先ほどの、浅い刻みだ。
銀は黙っているが、刻みは語る。
穴の底で、私には番号があった。
八百三十二番。
呼ばれても、私の中の何も温まらなかったが、あれは私を向こうの帳面に縛る名だった。
名は、人を所有する。
この銀も、同じだ。
刻みがあるから、誰かのものだ。
市に出せば印が読まれ、出どころを問われる。
だから、名を消さなければならない。
私は自分の名を樫の握りの内側にしまえたが、銀の名は、しまえない。
火に入れて、溶かして、なかったことにするしかない。
鎖切りは奪うのをやめれば枯れたが、役所の刻みは、放っておいても乾かない。
◆ ◇
私は、革袋の銀を、すべて床にあけた。
崩れた床石の上に、銀が散らばる。
日の光を受けて、てんでに鈍く光る。
数えれば、二十年分の重みだ。
けれどこの一枚一枚に、刻みが打ってある。
名のある銀の、山だった。
ガロが、火の方からやってきた。
散らばった銀を見て、私の隣に、しゃがみ込む。
膝が、鈍い音を立てた。
年寄りの膝だ。
一枚を拾い、刻みを、節くれだった指で確かめる。
鉄の良し悪しを見ただけで見抜く目が、銀の表を読んでいる。
「役所の銀か」
ガロが、低い声で言った。
問いではない。
確かめただけだ。
「そのままじゃ、使えない」
私が答えると、ガロは、もう一枚を拾って、刻みを指でなぞった。
「鋳潰すしか、ねえな」
一枚を放る。
銀が、乾いた音を立てて、他の銀の上に落ちた。
ちん、と高い音が、崩れた床に響いた。
鋳潰す。
火に入れて、溶かせば、役所の印も、帳面に載った名も、すべて溶けて、ただの銀の塊になる。
名のない銀なら、誰のものでもない。
誰にでも使える。
けれど、それは今日の仕事ではなかった。
鋳潰すには、坩堝と鞴がいる。
廃砦を商館に変えていく時に、ガロが手を入れる仕事だ。
今日はまだ、掘り出して、確かめるところまで。
私は散らばった銀を、もう一度、革袋に集めはじめた。
たったひとつの手で、銀を一枚ずつ拾う。
三本の指と親指で、冷たい銀をつまんで、袋の口へ運ぶ。
一枚。
また一枚。
何十枚も。
すくう手はないから、一枚ずつだ。
日が傾くまでかかってもいい。
急ぐ仕事ではなかった。
崩れた壁の隙間から差す日が、床の上を、ゆっくりと移っていく。
さっきまで銀を照らしていた光の帯が、いつのまにか、私の膝の上に来ていた。
銀が一枚、袋の口で、ちん、と他の銀に触れる。
その音だけが、がらんとした床に、ぽつり、ぽつりと落ちていく。
拾いながら、私は、考えていた。
指は動いているのに、頭は、別のところを歩いていた。
◆ ◇
奪うのは、早い。
護送の列を襲う。
月のない夜を選び、樫の棒で見張りの膝裏を打ち、銀の箱を担いで丘へ帰れば、明け方には、もう塒だ。
奪う手は、力で世界をねじ曲げる手だった。
速くて、荒い。
けれど、回す手は、遅い。
奪った銀を、回る銀に変えるには、まず名を消さなければならない。
刻みを溶かし、塊にして、目方を測り、市の相場を読み、足りない土地を探し、そこへ運んで、物に換えて、その物をまた銀の高い土地へ運んで、銀に戻す。
ひとつひとつが、地味な手間だ。
奪うのに一夜かかったものを、回すのには、何十日もかかる。
それが、商いというものらしかった。
奪う手が、回す手になる。
火の輪で言葉にした時、それは、まだ言葉だった。
商人になる、奪わずに回す、と。
けれど言葉は、言っただけでは、何も変えない。
手が動いて、初めて、変わる。
岩の符牒を削り、石積みを崩し、刻みのある銀を一枚ずつ拾う。
そういう、地味なことの積み重ねが、言葉を、本当のことにしていく。
それは、誓いのような、立派なものではなかった。
ただ、片手で銀を拾う、退屈な手の動きの中で、私は商人になっていった。
誰も見ていない、丘の上の崩れた床で。
その変わり目に、稲妻のような瞬間はない。
大きく盗む者から先に死んでいったように、盗賊で生き残ったのは、地味さだった。
商人で生き残るのも、たぶん、地味さだ。
奪う手が回す手になるのに、特別な日はなかったのだと、いまなら書ける。
あったのは、長い午後の、地味な手の動きだけだった。
私は、最後の一枚を、袋に戻した。
てのひらに、銀の冷たさが残っていた。
けれどその冷たさは、もう、奪った冷たさではない。
これから回していく銀の、最初の重さだ。
同じ銀なのに、手の中での意味が、変わっていた。
変えたのは、火でも、刃でもない。
私の、この、ひとつだけの手だった。





