第1話「眠らない手」
目を覚まして、まず、手が動いた。
枕元の樫を、握っていた。
三本の指と親指が、握りの内側の灰の字を、もう確かめている。
考えるより、手が早い。
穴の底で覚えた体は、目を開けるより先に、危ないものを探す。
耳が物音を拾い、肌が空気の重さを測り、たったひとつの手が、得物の在りかを確かめる。
それが、二十年、私の朝の始め方だった。
握ったまま、私は、動かなかった。
危ないものは、なかった。
目覚めが、いつもより遅かった。
夜明け前に体が私を起こすのが、二十年の習いだ。
見張りの交代を確かめ、街道の気配を探り、八人がそろっているかを数える。
眠っていても、頭の奥の番人が、起きている。
その番人が、その朝は、いなかった。
初めて、眠っていた。
体が、私を起こさなかった。
脅かす者が、もう、いないからだ。
四十の朝に、私は鎖切りという名を、殺した。
討伐があったわけではない。
勝った夜があったわけでもない。
火の輪に七人を呼んで、もう名乗らないと決めた。
それだけで、ひとつの名が終わった。
名というものは、誰かが斬って終わらせるものだと、長く思っていた。
高札に値がつき、兵が来て、首が落ちる。
穴の底で、私はいくつもの名がそうやって消えるのを見た。
番号で呼ばれた者が、岩のように冷えて、運び出されていくのを。
あれが、私の知っている名の死に方だった。
誰かに、殺される死に方だ。
けれどあの朝、私が手にかけたのは、刃ではなかった。
水をやるのを、やめただけだ。
奪うのをやめれば、名は枯れる。
鎖切りを生かしてきたのは、奪う日々だった。
水のない名は、根から、ひとりでに乾いていく。
だから翌朝の私には、討つべき敵も、守るべき名も、もうなかった。
生まれて初めて、奪うべき相手のいない朝を、私は迎えた。
◆ ◇
寝床から起きて、残った左の目で、塔を見上げた。
廃砦の塒は、丘の上にある。
北街道の東、なだらかな丘の天辺。
崩れた壁が風を切り、欠けた塔が見張り台の代わりになる。
岩の村だ、とトビは呼んだ。
誰も住まない、石の村だ、と。
その塔の縁には、いつも誰かの背中があった。
夜は二人、昼は一人。
雨の夜も、雪の朝も、誰かが街道を見張っていた。
当番は、ナダの数えの中にあった。
二十年、その輪は一度も途切れなかった。
その朝、塔の上に、人影はなかった。
風だけが、欠けた石の間を抜けていく。
低い音が、鳴っている。
背中のない塔は、急に、ただの古い廃墟に見えた。
鎖切りはいない。
名がなければ、追っ手も来ない。
来ないものを見張る理由は、なかった。
だから昨夜、私は当番を立てなかった。
立てなくていいと言ったのではない。
立てる理由が、消えていた。
脅かされていない、という静けさを、私は、うまく飲み込めなかった。
手が、まだ樫を握っている。
番人は眠ったのに、手だけが、起きていた。
そこへ、音が来た。
火の方から、薪の爆ぜる音。
ガロだ。
あの老いた鍛冶は、誰よりも早く起きて、誰よりも先に火を熾す。
乾いた薪を割る音、火打ち石を打つ音、それから、ぱちりと小枝の爆ぜる音。
湯の沸く音もする。
リンが鍋を見ているのだ。
水の桶を運ぶ足音が、丘の斜面を、こちらへ上ってくる。
重い、確かな足取りだ。
ヒナだ。
子供の足音は、軽くて速い。
あの子の足音は、いつのまにか、大人のそれに、なっていた。
危ないものは、何ひとつ、聞こえなかった。
聞こえたのは、暮らしの音ばかりだった。
◆ ◇
外へ出ると、朝の光が、崩れた壁を斜めに切っていた。
夏の終わりの、薄い光だ。
石の表面は、まだ夜の冷たさを残している。
触れると、指の腹がひやりとした。
丘の下には街道が一筋、灰色の帯になって伸びている。
いつもなら、その帯の上に荷馬車の砂埃が立つ。
けれど早い時刻で、まだ誰も通っていない。
丘の草は、夜露に濡れて、足首を冷たく湿らせた。
空は、東の端だけが白み、まだ星がいくつか残っている。
脅かす者のいない朝の景色を、外から、ただ眺める。
そんな朝は、二十年、なかった。
いつもは、塔の上の見張りの目で、街道の砂埃だけを追っていた。
景色を、ただの景色として見たことが、なかったのだ。
火の輪のそばに、ガロがいた。
しゃがんで、火の世話をしている。
背の丸い、岩のような体だ。
火箸で熾火を寄せ、薪の置き方を直し、風の向きを読んで、火の機嫌を整えていく。
朝の冷えた空気の中で、その火だけが、橙の熱を放っていた。
煙の匂いと、湯の沸く匂いが、混じって流れてくる。
冷えた指先に、その熱が、遠くから届いた。
鉄を見れば手が動く。
火を見れば、消さない。
それが、この男の、奪われなかった職だった。
穴は名を奪い、自由を奪い、片腕や片目さえ奪う。
けれど、手が覚えた職だけは、奪えなかった。
ガロも、どこかで、それを知った男だった。
「来たか」
ガロは、火を見たまま言った。
私を見もしない。
二十年、同じ言葉で朝が始まった。
「見張りを、立てなかったな」
私が言うと、ガロは肩を一度だけ動かした。
「立てる名が、もう、ねえからな」
それきり、火に薪をくべた。
そうだ。
立てる名が、もうない。
縄張りもない。
見張る境もない。
私たちはこの朝から、ただの八人だった。
名のない、ただの八人。
火を囲んで、みんなが集まってきた。
リンが湯の椀を配る。
薬草を商う女で、人を読む目を持っている。
配りながら、ひとりひとりの顔色を、さりげなく見ている。
誰の眠りが浅かったか、誰が体を冷やしたか。
それを、湯の温さで按配する。
トビが欠伸をしながら、塔の根方から下りてくる。
口の軽い、情報屋気質の男だ。
ネネが、まだ眠そうな顔で、布をかぶっている。
傷の治りの早い体を、誰にも見せまいと、いつも布で隠している。
サイは、いつのまにか壁の上に座って、街道を見ていた。
寡黙な斥候だ。
当番が消えても、目で街道を舐めるのは、やめない。
砂埃の立ち方で、近づく馬の数まで読む。
その目だけは、消えなかった。
そしてヒナが、水の桶を地に置いて、私の隣に立った。
もう、見上げる子供ではなかった。
背が私を追い越し、肩の幅も広い。
十二の年に拾った痩せた子が、いつのまにか、私の片腕になっていた。
腰には、数えの木札を提げている。
ナダから受け継いだ、人数と年を刻む札だ。
私の歳は、自分では数えていない。
あの札の刻みが、四十あった。
それで、私は四十だと知る。
「レン」
ヒナが、私の名を呼んだ。
火の輪の内側でだけ、許された名だ。
外では誰も名乗らないし、誰も呼ばない。
名は、しまっておくものだ。
自分のものだから、しまう。
「今日から、どうする」
声に、不安はなかった。
ただ、次の段取りを訊いていた。
私は、樫の棒を、地に立てる。
握りの灰の字を、てのひらで一度、確かめた。
「畳む」
短く、そう答えた。
昨日、名を殺した。
今日からは、その名が使っていた塒を畳む。
石の村を、解いていく。
宣言は、もう昨日済んだ。
だから今日は、言葉は要らない。
手を動かすだけだ。
それが、畳むということだった。
名が死んだあとに残るのは、いつも、片づける手だ。
私は、ひとつだけの手で、椀を受け取った。
湯気が立っている。
指を椀に巻きつけると、夜のあいだ冷えた指の節が、じんわりと熱を吸った。
冷えた指が、温まっていく。
けれど手の芯では、まだ、樫の重さが残っていた。
番人は、すぐには、眠らない。




