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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第1話「眠らない手」


 目を覚まして、まず、手が動いた。


 枕元の樫を、握っていた。


 三本の指と親指が、握りの内側の灰の字を、もう確かめている。


 考えるより、手が早い。


 穴の底で覚えた体は、目を開けるより先に、危ないものを探す。


 耳が物音を拾い、肌が空気の重さを測り、たったひとつの手が、得物の在りかを確かめる。


 それが、二十年、私の朝の始め方だった。


 握ったまま、私は、動かなかった。


 危ないものは、なかった。


 目覚めが、いつもより遅かった。


 夜明け前に体が私を起こすのが、二十年の習いだ。


 見張りの交代を確かめ、街道の気配を探り、八人がそろっているかを数える。


 眠っていても、頭の奥の番人が、起きている。


 その番人が、その朝は、いなかった。


 初めて、眠っていた。


 体が、私を起こさなかった。


 脅かす者が、もう、いないからだ。


 四十の朝に、私は鎖切りという名を、殺した。


 討伐があったわけではない。


 勝った夜があったわけでもない。


 火の輪に七人を呼んで、もう名乗らないと決めた。


 それだけで、ひとつの名が終わった。


 名というものは、誰かが斬って終わらせるものだと、長く思っていた。


 高札に値がつき、兵が来て、首が落ちる。


 穴の底で、私はいくつもの名がそうやって消えるのを見た。


 番号で呼ばれた者が、岩のように冷えて、運び出されていくのを。


 あれが、私の知っている名の死に方だった。


 誰かに、殺される死に方だ。


 けれどあの朝、私が手にかけたのは、刃ではなかった。


 水をやるのを、やめただけだ。


 奪うのをやめれば、名は枯れる。


 鎖切りを生かしてきたのは、奪う日々だった。


 水のない名は、根から、ひとりでに乾いていく。


 だから翌朝の私には、討つべき敵も、守るべき名も、もうなかった。


 生まれて初めて、奪うべき相手のいない朝を、私は迎えた。


  ◆  ◇


 寝床から起きて、残った左の目で、塔を見上げた。


 廃砦の塒は、丘の上にある。


 北街道の東、なだらかな丘の天辺。


 崩れた壁が風を切り、欠けた塔が見張り台の代わりになる。


 岩の村だ、とトビは呼んだ。


 誰も住まない、石の村だ、と。


 その塔の縁には、いつも誰かの背中があった。


 夜は二人、昼は一人。


 雨の夜も、雪の朝も、誰かが街道を見張っていた。


 当番は、ナダの数えの中にあった。


 二十年、その輪は一度も途切れなかった。


 その朝、塔の上に、人影はなかった。


 風だけが、欠けた石の間を抜けていく。


 低い音が、鳴っている。


 背中のない塔は、急に、ただの古い廃墟に見えた。


 鎖切りはいない。


 名がなければ、追っ手も来ない。


 来ないものを見張る理由は、なかった。


 だから昨夜、私は当番を立てなかった。


 立てなくていいと言ったのではない。


 立てる理由が、消えていた。


 脅かされていない、という静けさを、私は、うまく飲み込めなかった。


 手が、まだ樫を握っている。


 番人は眠ったのに、手だけが、起きていた。


 そこへ、音が来た。


 火の方から、薪の爆ぜる音。


 ガロだ。


 あの老いた鍛冶は、誰よりも早く起きて、誰よりも先に火を熾す。


 乾いた薪を割る音、火打ち石を打つ音、それから、ぱちりと小枝の爆ぜる音。


 湯の沸く音もする。


 リンが鍋を見ているのだ。


 水の桶を運ぶ足音が、丘の斜面を、こちらへ上ってくる。


 重い、確かな足取りだ。


 ヒナだ。


 子供の足音は、軽くて速い。


 あの子の足音は、いつのまにか、大人のそれに、なっていた。


 危ないものは、何ひとつ、聞こえなかった。


 聞こえたのは、暮らしの音ばかりだった。


  ◆  ◇


 外へ出ると、朝の光が、崩れた壁を斜めに切っていた。


 夏の終わりの、薄い光だ。


 石の表面は、まだ夜の冷たさを残している。


 触れると、指の腹がひやりとした。


 丘の下には街道が一筋、灰色の帯になって伸びている。


 いつもなら、その帯の上に荷馬車の砂埃が立つ。


 けれど早い時刻で、まだ誰も通っていない。


 丘の草は、夜露に濡れて、足首を冷たく湿らせた。


 空は、東の端だけが白み、まだ星がいくつか残っている。


 脅かす者のいない朝の景色を、外から、ただ眺める。


 そんな朝は、二十年、なかった。


 いつもは、塔の上の見張りの目で、街道の砂埃だけを追っていた。


 景色を、ただの景色として見たことが、なかったのだ。


 火の輪のそばに、ガロがいた。


 しゃがんで、火の世話をしている。


 背の丸い、岩のような体だ。


 火箸で熾火を寄せ、薪の置き方を直し、風の向きを読んで、火の機嫌を整えていく。


 朝の冷えた空気の中で、その火だけが、橙の熱を放っていた。


 煙の匂いと、湯の沸く匂いが、混じって流れてくる。


 冷えた指先に、その熱が、遠くから届いた。


 鉄を見れば手が動く。


 火を見れば、消さない。


 それが、この男の、奪われなかった職だった。


 穴は名を奪い、自由を奪い、片腕や片目さえ奪う。


 けれど、手が覚えた職だけは、奪えなかった。


 ガロも、どこかで、それを知った男だった。


「来たか」


 ガロは、火を見たまま言った。


 私を見もしない。


 二十年、同じ言葉で朝が始まった。


「見張りを、立てなかったな」


 私が言うと、ガロは肩を一度だけ動かした。


「立てる名が、もう、ねえからな」


 それきり、火に薪をくべた。


 そうだ。


 立てる名が、もうない。


 縄張りもない。


 見張る境もない。


 私たちはこの朝から、ただの八人だった。


 名のない、ただの八人。


 火を囲んで、みんなが集まってきた。


 リンが湯の椀を配る。


 薬草を商う女で、人を読む目を持っている。


 配りながら、ひとりひとりの顔色を、さりげなく見ている。


 誰の眠りが浅かったか、誰が体を冷やしたか。


 それを、湯の温さで按配する。


 トビが欠伸をしながら、塔の根方から下りてくる。


 口の軽い、情報屋気質の男だ。


 ネネが、まだ眠そうな顔で、布をかぶっている。


 傷の治りの早い体を、誰にも見せまいと、いつも布で隠している。


 サイは、いつのまにか壁の上に座って、街道を見ていた。


 寡黙な斥候だ。


 当番が消えても、目で街道を舐めるのは、やめない。


 砂埃の立ち方で、近づく馬の数まで読む。


 その目だけは、消えなかった。


 そしてヒナが、水の桶を地に置いて、私の隣に立った。


 もう、見上げる子供ではなかった。


 背が私を追い越し、肩の幅も広い。


 十二の年に拾った痩せた子が、いつのまにか、私の片腕になっていた。


 腰には、数えの木札を提げている。


 ナダから受け継いだ、人数と年を刻む札だ。


 私の歳は、自分では数えていない。


 あの札の刻みが、四十あった。


 それで、私は四十だと知る。


「レン」


 ヒナが、私の名を呼んだ。


 火の輪の内側でだけ、許された名だ。


 外では誰も名乗らないし、誰も呼ばない。


 名は、しまっておくものだ。


 自分のものだから、しまう。


「今日から、どうする」


 声に、不安はなかった。


 ただ、次の段取りを訊いていた。


 私は、樫の棒を、地に立てる。


 握りの灰の字を、てのひらで一度、確かめた。


「畳む」


 短く、そう答えた。


 昨日、名を殺した。


 今日からは、その名が使っていた塒を畳む。


 石の村を、解いていく。


 宣言は、もう昨日済んだ。


 だから今日は、言葉は要らない。


 手を動かすだけだ。


 それが、畳むということだった。


 名が死んだあとに残るのは、いつも、片づける手だ。


 私は、ひとつだけの手で、椀を受け取った。


 湯気が立っている。


 指を椀に巻きつけると、夜のあいだ冷えた指の節が、じんわりと熱を吸った。


 冷えた指が、温まっていく。


 けれど手の芯では、まだ、樫の重さが残っていた。


 番人は、すぐには、眠らない。

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