第65話「あとへ回す」
クライスの一行は、その日のうちに、町を出た。
南へ。
いい馬の、いい速さで。
私は、追わなかった。
追う代わりに、ナダに、行き先だけを数えさせた。
どの街道を、どの紋の馬車が、いつ通ったか。
集めた数は、いつか、道具になる。
その夜、火の輪で、私は、何も言わなかった。
あの男のことは、八人の荷物には、しない。
これは、私ひとりの、古い傷だ。
だが、その夜は、眠れなかった。
眠れないまま、私は、自分に問うた。
なぜ、殺さなかったのか、と。
◆ ◇
市では、殺せなかった。
殺せば、血の海になる。
八人が、囲まれる。
——それは、ゆうべ、自分に言い聞かせた理由だ。
言い聞かせて、それでも、足りなかった。
暗がりで、私は、樫の握りを、もう一度にぎった。
手のひらの下の字が、まだ、すこし熱い。
灰。
カラスがくれて、ガロが刻んだ、ひと文字。
その字が、私に、もうひとつの理由を、思い出させた。
謝らずに、生きろ。
俺と、同じ、過ちを、するな。
穴の底で、カラスが、最後に残した声だ。
あの男を、市で斬って。
返り血の中で、八人を死なせて。
そうやって、カラスの死を、私が獣になるための理由にしてしまうこと。
それこそが、カラスの言った、過ちだと思った。
カラスは、殺せ、とは言わなかった。
生きろ、と言った。
奪われても、まだ手の中にあるものを握って、生きろ、と。
あの人は殺せと言わなかった。
生きろと言った。
◆ ◇
もうひとつ、思い出したことがある。
市で、クライスが、馬を下りた時のことだ。
奴隷の娘へ手を伸ばす、その前に。
黒い衣の男が、ひとり、馬の脇にそっと寄った。
商人でも、兵でもない、衣だった。
その男が、クライスの耳に、何か短く囁いた。
囁かれて、クライスの背が、ほんのすこし、伸びた。
欲しいものだけを映す、あの退屈な目が、その一瞬だけ、別のものを気にしていた。
頭を下げる、とまでは、いかない。
だが、自分の上に、誰かがいる目だった。
カラスを殺したあの男にも、上から差配する手が、ある。
奪う側の、いちばん上に見えたあの男すら、誰かの、駒だった。
奪った男も、誰かの駒だった。
◆ ◇
なら、と、私は思った。
駒を、ひとつ、盤から弾いたところで。
盤は、ただ、次の駒を、置くだけだ。
奴隷を穴へ送る列は、止まらない。
名を取り上げて、人を数から外す掟も、変わらない。
クライスひとりを殺すことは、奪われた帳尻の、ほんの一行を消すだけだ。
私が断ちたいのは、その一行では、ない。
この列を、この掟を、この盤を、上から置いている、手の方だ。
まだ、その手がどこにあるのかは、見えない。
見えないものは、断てない。
だから、断つ前に、まず、見つけなければならない。
あの黒い衣の囁きが、その糸口の、いちばん最初のひと縒りだった。
いまはまだ、その縒りの、端を握っただけだ。
◆ ◇
ひとつ、ずっと覚えていることがある。
市で、鞭の先で顎を上げられた、あの娘のことだ。
クライスが手を伸ばした、奴隷の娘。
私は、あの娘を、助けなかった。
八人を、守るために。
助けた者の顔は、やがて忘れる。
助けられなかった顔は、忘れない。
あの娘も、いまも、私の数えの中にいる。
数えても、決して減らない側の、数だ。
◆ ◇
あれから、九十年あまりが、経った。
あの男との決着が、いつ、どこで、どうついたのかを、いまの私は、書ける。
書けるが、まだ、書かない。
あの市の夜の私は、それを、まだ知らなかったからだ。
知らないまま、ただひとつだけ、決めたことがある。
あの男の命は、市の雑踏が決めるものではない。
世界の掟が決めるものでも、ない。
いつか、私が、私の選んだ場所で。
私の数えた、その時に。
私の、この手で。
それまでは、預けておく。
殺さないことは、許すことでは、ない。
あとへ、回すことだ。
◆ ◇
明け方、私は、樫を、布で拭いた。
握りの内側の字を、念入りに。
熱は、もう、すっかり引いていた。
脇腹の、古い傷の疼きを、私は、数えに加えた。
クライス・ファルディン。
通った街道。
馬車の紋。
供の数。
黒い衣の影。
そのぜんぶを、覚えた。
覚えて、いまは、南へ去っていく背中を。
追わずに。
見送りに、行く。




