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灰のレン  作者: K3/KASANE
カラス編

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第64話「思い出さない男」


 その町は、川と街道の交わる、大きな市の立つ町だった。


 名のない私たちには、人の多い町ほど、かえって潜りやすい。


 顔は、人波にまぎれて、ただの一つになる。


 欠けた体さえ、混み合う市では、誰も気に留めない。


 私は、薬売りの連れとして、リンの半歩後ろに立っていた。


 売り物は、川下から運んだ塩と、乾いた薬草。


 奪った銀を、火で名のない銀に換えて、それで仕入れた品だ。


 商いは、もう、盗みと同じだけ、私たち八人を食わせていた。


 その日も、ただの仕入れの日に、なるはずだった。


  ◆  ◇


 広場が、ふいに、ざわついた。


 人波が、左右へ割れていく。


 道を空けさせる、蹄の音。


 馬上の、貴族の一行だった。


 毛皮の襟。


 磨き上げた具足。


 退屈そうな目。


 プリズマの、それなりの家の紋だ。


 私は、やり過ごすために、顔を伏せた。


 伏せた目の端に、先頭の男の横顔が、入った。


 入った瞬間、考えるより先に、体が、止まった。


 脇腹の、古い傷が、疼いた。


 十二年、忘れていたはずの、疼きだった。


  ◆  ◇


 クライス・ファルディン。


 その名を、声には、出していない。


 出さなくても、体の方が、覚えていた。


 カラスの腹に、細身の刃を入れた男。


「奴隷の、犬が」


 と言った男。


「生きたまま、穴へ、落とせ」


 と言った男。


 その一言が、カラスを、穴の底へ運んだ。


 運ばれた先で、カラスは、死んだ。


 十二年が、男の顔に、たっぷり肉をつけていた。


 こめかみには、白いものが混じっている。


 位が、上がったのだろう。


 昔より、ずっといい馬に、乗っていた。


 変わらないのは、目だけだった。


 退屈そうで、欲しいものだけが映る、あの目。


 殺せる距離に、殺したい男がいた。


  ◆  ◇


 気づくと、手が、勝手に樫を握っていた。


 握りの内側の字が、手のひらに、深く食い込む。


 灰。


 カラスがくれて、ガロが刻んだ、ひと文字。


 その字が、いま、手のひらの下で、熱かった。


 距離を、目が、測っていた。


 馬まで、七歩。


 間の人波。


 護衛の槍は、四。


 馬を、騒がせれば。


 膝裏を、突けば。


 落ちた首へ、ひと振り。


 できる。


 穴を出てから覚えた測りが、冷たく、その答えを出していた。


 できる、と。


  ◆  ◇


 やがて、馬が、私の真ん前を、通った。


 近かった。


 手を伸ばせば、鐙に届くほどの、近さで。


 クライスの目が、ふと、こちらへ流れた。


 人波を、退屈そうになでていく目だ。


 その目が、私の上で、止まった。


 一瞬。


 たしかに、止まった。


 心臓が、鳴った。


 ——気づいたか。


 ちがった。


 男の目は、私を、見てなどいなかった。


 そこにいる、隻腕の、痩せた女商人を。


 市にいくらでもいる、欠けた者のひとりを。


 見て、何ひとつ思い出さずに、目は、すぐにまた流れていった。


 次の、退屈へ。


 彼は私を見た。


 何も思い出さなかった。


  ◆  ◇


 当然だった。


 あの男にとって、灰は、穴の底でとっくに死んだ奴隷だ。


 名も、顔も、わざわざ覚えるほどのものではない。


 欲しがって、取り損ねて、捨てた。


 ただ、それだけの、子供だった。


 覚えているのは、私の方だけだ。


 奪われた側だけが、奪った者の顔を、いつまでも覚えている。


 穴の底で、嫌というほど、知ったことだった。


  ◆  ◇


 広場の隅で、男の一行が、止まった。


 鎖に繋がれた者が、数人、引き出されている。


 売り物の、奴隷だった。


 クライスが、馬を下りた。


 歩いて、列の前に立つ。


 いちばん若い娘の顎を、鞭の先で、つと上げた。


 値踏みの、目で。


 それから、手を、伸ばした。


 欲しいものを、取る手で。


 十二年前、私の腕へ伸びたのと、同じ手だった。


 あの時、その手に割って入ったのが、カラスだ。


 樫を握る手に、力が、入った。


 いまなら。


 いまなら、あの手を、止められる。


 カラスが、できなかった止め方で。


  ◆  ◇


 その時、リンの手が、私の袖を、引いた。


 強くは、ない。


 ただ、そっと置かれただけの手だ。


 その手の重さで、私は、詰めていた息を、長く吐いた。


 吐いて、握りを、ゆるめた。


 いま、ここで、あの男を殺せば。


 市は、血の海になる。


 八人は、たちまち囲まれる。


 鎖切りの名に、初めて、殺しの字が載る。


 そうなれば——あの男の望む通りの形に、私たちが、はまることになる。


 世界の、選んだ場所で、世界の、選んだやり方で。


 ……それは、私の選びでは、ない。


 今日は、殺さない。


 理由は、ひとつでは、ない。


 そして、そのひとつでない理由を、私は、まだ自分でも、数えきれずにいた。


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