第61話「名のない銀」
奪った銀には、困りごとが、ひとつあった。
使えないのだ。
役所の銀には、縁に小さな刻みが打ってある。
どこの蔵から出た銀かを示す、向こうの数えの印だ。
そのまま市で出せば、銀から、出した者の手まで辿られてしまう。
ヒナが、木札の数えを覚えたての目で、その刻みを覗き込んで言った。
「銀にも、名前があるんだ」
そのとおりだった。
銀は、一枚ずつ名を打たれて、蔵に数えられている。
名のある銀は、私たちの手の中では、ただの重たい石でしかなかった。
◆ ◇
その名を消す手は、私たちの火の側にあった。
ガロが、鋳掛けの道具で、小さな坩堝を組む。
刻みのある銀貨を、その中へ落とすと、火の熱で、貨は形をなくしていった。
溶けて、流れて、ただの銀の粒に戻る。
蔵の印も、数えの刻みも、跡形なく消えた。
残るのは、目方だけだ。
名のない銀は、もう、どこの銀でもない。
どこの銀でもないものなら、誰の手からでも、出せる。
坩堝の火を見ながら、私は、毎朝、名を書いては消していた男のことを思い出していた。
名を消すことが、そのまま生き延びる道になる——それを、私は、ふたりの男から教わっている。
名のある銀を名のない銀に変える。
◆ ◇
売り先は、リンの耳が、ひと冬かけて選び抜いた。
大きすぎる相手は、どこかで役所と繋がっている。
小さすぎる相手は、口が軽い。
ちょうど間の、川向こうの古物商。
訳ありの品を、訳を訊かずに買う老人だった。
こちらも、相手の訳を、訊かない。
訊かないことが、この商いの、何よりの礼儀だった。
初めての取引には、リンとガロが行った。
薬売りと、鋳掛屋。
市に立っても、嘘にならないふたりだ。
私は、少し離れた川岸で、帰りを待った。
鎖切りの筆頭の人相書きは、もう、市には立てない。
待つこともまた頭の仕事だと、腑に落ちるまで、ずいぶん時間がかかった。
売る時の掟も、決めた。
目方を、誤魔化さない。
量を、欲張らない。
同じ相手に、続けては持ち込まない。
盗みの掟と、同じ作りだ。
長く回すつもりなら、欲は、いつでも敵になる。
◆ ◇
二年も経つと、妙なものが育っていた。
信用だ。
あの連中の銀は、目方が正しい。
あの連中は、売った先を、決して漏らさない——名のない私たちに、名の代わりの評判がついていた。
盗賊の信用という、おかしな財産だ。
財産といっても、木札には刻めない。
だが、刻めない財産ほど、あとでよく効くと、ナダは言った。
古物商の老人が、ある時、釣り銭を数える手を止めて、ふいに言った。
「あんたら、盗みより、商いの方が向いてるよ」
笑い話として、聞いた。
聞いたが、捨てずに、胸の奥にしまっておいた。
その信用と、引き換えのように、鎖切りの名も、月ごとに大きくなっていた。
リンが、市で、妙な噂をひとつ拾ってきた。
役人が、鎖切りの頭は隻腕の女らしい、と話していた、というのだ。
名が広がれば広がるほど、私の欠けた体は、人相書きの輪郭に近づいていく。
火の輪では、まだ誰も、それを口に出さなかった。
◆ ◇
火の側で、ナダが、海の話をした。
木札の数えを、ヒナに教えながら。
「いいか、ひよっこ。同じ銀が、海の向こうじゃ、倍の麦になる」
「なんで」
「麦が、あっちにはないからだ。物の値は、ない場所で、上がる」
船乗りだった老人は、値の地図を、頭の中に一枚、持っていた。
どの川を下れば、どの港に出るか。
どの港の、何が安くて、何が高いか。
それを聞きながら、私は、別のことを考えていた。
値は、土地で違う。
数えも、土地で違う。
なら、土地から土地へ物を動かしてやるだけで、暮らしは立つ。
誰からも、奪わずに、立つ。
その道の入り口が、火の灯りの先に、薄く見えていた。
まだ、入らない。
入る日が来るとしても、それは、ずっと先のことだ。
奪う手が回す手を覚えはじめた。
◆ ◇
春が来て、私たちは、また護送の列をひとつ選んだ。
鎖を解いて、銀の箱を取って、火で名を消す。
名を消した銀を、麦と、塩と、冬の布に換える。
換えた分が、そのまま、八人の暮らしになる。
ヒナの背丈が、ひと冬ごとに、目に見えて伸びていく。
伸びた分も、暮らしの数えに入れて。
奪って、それで終わり、ではない。
終わらせないことが、回すということだ。
名を消した銀を、籠に積んで、川を下る。
古物商の店先まで。
麦の値と、塩の値を、頭の中で数えながら。
換えに、行く。




