第59話「名前が生える」
穴を出て、四つの冬が過ぎた。
名前のない暮らしは、思っていたより、ちゃんと形になる。
名の代わりに、私たちは仕事を名乗った。
ガロは鋳掛屋。
壊れた鍋の底を叩き直すあの手は本物だから、誰にも疑われない。
リンは薬売り。
草の根と葉の効き目を諳んじる知識も、本物だ。
ナダは川船の番人。
トビは屋根の修理屋。
ネネと私は、薬売りの連れ。
七つの嘘は、どれも半分は本当で出来ていた。
職は、奪えない。
それを、私たちは穴の底で知った。
手に焼きついた技だけは、鎖でも奪えなかった。
その奪えない職が、今度は逆に、私たちを世間の目から隠してくれる。
嘘の名のほうは、すぐに忘れていい。
土地をひとつ移れば、脱いで捨てる上着のような名だ。
けれど、捨てるたびに、私は胸の奥に手を当てて確かめる。
本当の名が、まだひとつ、そこに残っていることを。
しまった名は、いくつ上着を捨てても、減らない。
◆ ◇
獲物は、三月にひとつと決めていた。
欲をかけば、必ず足がつく。
選んで、奪って、また土地の底に潜る。
その繰り返しの、長い隙間を、名前のない暮らしが埋めていった。
数えるのは、ナダの役だ。
老人は木札の縁に、小刀で刻みを入れていく。
仕留めた獲物の数。
役人の頭数。
銀の出入り。
私たちの数えは、全部、その一枚の木札の上にあった。
夜、火の側で、ナダはその木札を、誰にでも惜しみなく見せた。
「俺が死んだら、誰かが、数えるんだ」
数えの引き継ぎ先を、老人はいつも、火を囲む顔の中に探していた。
◆ ◇
字の稽古も、その火の側で始まった。
言い出したのは、私だ。
木札の数えは、字が読めなければ、誰にも引き継げない。
地面に、棒の先で書く。
手本を私が引き、皆がその下をなぞる。
いちばん早く覚えたのは、ネネだった。
トビは、なぜか自分の偽名ばかり上手くなった。
サイは、覚えが遅く、消すのが早かった。
二十年、ものを削ることだけをしてきた指は、書く線さえ削るように引く。
だから、深くて、消えにくい字になった。
遅くても、その字だけは、地面に残る。
書いては、消す。
サイのその手つきを見るたびに、私は思い出すものがあった。
カラスが、字を教わった時のことだ。
いまの私になら、それを書ける。
教えたのは義足の女で、見せるな、と言ったそうだ。
字は、隠すものだった。
隠れて、生き延びてきたものだった。
私は、それを逆にした。
「見せ合え」
誰かの字が間違っていたら、別の誰かが直す。
七人の字は、そうやって、少しずつ揃っていった。
火の側で字が増えていく。
隠して生き延びた字が、七人に分けられて、育っていく。
ジューラという名の女のことを、私は、知らない。
顔も、声も、知らないままだ。
知らないまま、その人のしたことの、ちょうど逆を、私はやっている。
逆をやれるのは、七人だからだ。
ひとりきりの字は、隠すしかない。
けれど、七人の字なら、見せ合える。
◆ ◇
五年目の春、トビが、市から高札の写しを一枚持ち帰った。
「俺たち、名前ができたぜ」
高札の頭に、墨も濃く、三つの字が刷ってあった。
鎖切り。
護送の列を襲い、囚人の鎖を解いて回る盗賊の、呼び名だという。
名は、しまったはずだった。
口には出さず、土地ごとの仕事の名で生きてきた。
それでも名前は、こちらの望まぬうちに、向こうから勝手に生えてきた。
ネネが、私の肩越しに写しを覗き込んで、言った。
「名前って、生えるんだ」
生える。
いい言い方だと、思った。
奪われて、捨てて、胸の奥にしまい込んでも。
生きて動いてさえいれば、名は、地面の草のように勝手に生えてくる。
カラスも、そうだった。
投げつけられた侮蔑の渾名を、自分の名へと握り直した男だ。
鎖切り、という名を、私たちは、名乗らない。
名乗らないが、否みもしない。
向こうの帳面に生えた名は、向こうの荷物だ。
捨てた名の上に名が生えてきた。
◆ ◇
その夜も、火の側で、字の稽古をしていた。
ネネが、ふと、棒を持つ手を止めた。
「……誰か、見てる」
火の輪の、すぐ外。
藪の闇のいちばん濃いところに、目があった。
獣の目では、ない。
その光る点の高さが、立った人のものだった。
ガロが、音もなく、立ち上がる。
トビが、身を低くして、闇の反対側へ回り込みに消えた。
私は、足元の樫の棒を握った。
手のひらの下で、刻んだ字が、棒を握り返してくる。
目は、逃げなかった。
逃げずに、じっと、火を見ていた。
火と、地面に字を書く私たちの手元を。
欲しがる目だと、思った。
何を欲しがっているのかは、まだ、わからない。




