第58話「選んで、奪う」
刻み上がった棒を、最初に使ったのは、岩場の蛇にだった。
手のひらの下に、字がある。
握れば隠れる。
開けば、ある。
あると知っている重さは、ただの樫より少しだけ重かった。
その重さを、何に使うか。
それを決める時が来ていた。
◆◇
盗みでしのぐ日々は、長く保たない。
干し物。
畑の端。
置き忘れた籠。
小さく盗めば追われないが、痩せていく。
大きく盗めば腹は満ちるが、獣になる。
穴を出たのに、穴と同じものになってしまう。
それだけは、避けたかった。
火の輪で、私はそれを言葉にした。
「掟を作る」
六人が、私を見た。
「奪う相手を選ぶ」
火の向こうで、トビが片眉を上げる。
リンは黙って草を選っている。
ガロは棒の先を見ている。
ナダだけが、面白そうに目を細めた。
「誰からだ」
「人を売る者」
私は言った。
「人を穴へ送る者」
「人から名を取り上げて、数えから外す側の者」
そこからだけ奪う。
食うや食わずの村からは取らない。
小さな行商の荷も見送る。
子供と老人のものには触らない。
「私たちを作った側から取る」
理屈ではなかった。
帳尻だ。
奪われた分を、奪った側から取り返していく。
それなら、獣ではない。
ナダが首をひねった。
「実入りは悪くなるぜ」
「悪くていい」
私は答えた。
「長く潜るなら、憎まれない盗賊の方が保つ」
村に憎まれた盗賊は、村に売られる。
貧しい商人から奪えば、次の村で顔を覚えられる。
泣く子の飯を奪えば、母親は命を削ってでも役人へ走る。
だが、人を売る者から奪えば。
人を穴へ送る者から奪えば。
黙って見逃す者が、少しだけ増える。
掟は情けではない。
生き残りの算盤でもあった。
選んで奪う。
獣にはならない。
穴には戻らない。
◆◇
最初の獲物は、ナダの数えが見つけてきた。
街道筋を十日、物見した数えだ。
月の頭に、南へ下る護送の列がある。
鎖で繋がれた者が十人ほど。
役人がふたり。
雇われの槍が四人。
行き先は、海側の、穴のある町。
穴送りの列だった。
リンは、町の市で耳を仕込んできた。
役人はふたりとも、酒で買える質だと。
買わずに、覚えておくだけにした。
弱みは、使う夜まで寝かせる。
二十年前の私が、あの鎖の中にいた。
四年前の私たちが、あの列の先にいた。
選ぶまでもなかった。
◆◇
月のない夜。
列は谷あいの道で野営した。
火がふたつ。
見張りがふたり。
水袋は役人の側。
鍵は、年若い方の腰。
ナダの数えどおりだった。
トビが風下から、繋ぎ馬の綱を切った。
馬が騒ぐ。
見張りの目が馬へ向く。
向いた背中の膝裏を、私の樫が打った。
骨でしていた仕事を、樫は半分の手間でやった。
ガロが、もうひとりを岩のように抱え込む。
声が出る前に、リンが布を噛ませた。
残りの槍は、寝込みで得物ごと取り上げた。
ネネは、鎖の者たちの前に立っていた。
怖がらせないために、棒を持たずに。
役人が、剣を抜いた。
抜いた腕を打つ。
乾いた音がして、剣が落ちる。
殺さなかった。
優しさではない。
死人が出れば、追っ手は倍になる。
縛って、転がして、口に布を噛ませる。
それで終わりだった。
手のひらの下で、灰の字が汗を吸っていた。
骨よりよく鳴る棒は、骨より静かに済ませた。
◆◇
奪ったのは、銀の入った箱と、兵糧と、鍵。
それだけだ。
鎖の十人が、火明かりの中で私たちを見ていた。
怯えた目。
値踏みの目。
すがる目。
穴の底で、見慣れた目ばかりだった。
私は、鍵をいちばん年かさの男へ渡した。
「解け」
「……あんたらは」
「通りすがり」
答えたのは、トビだった。
名は、誰も言わない。
鎖がひとつずつ落ちていく音を、私たちは背中で聞いた。
ついて来ようとする者が、ひとりいた。
私は首を振った。
「入れない」
七人は、七人で回る数だ。
それに、解いた者の行き先を私たちが決めるなら、それは鎖の持ち主が替わっただけになる。
行き先は、その者が選ぶ。
選ばせるところまでが、解くということだ。
解いた鎖の数を、私たちは数えなかった。
恩は、数えると重くなる。
重くなれば、また鎖になる。
数えるのは、奪った側の帳尻だけでいい。
解いた鎖は、数えない。
◆◇
ひと月後、トビが新しい高札を剥がしてきた。
値段が上がっていた。
罪状の行が増えていた。
護送襲撃。
囚人逃亡の幇助。
役人への暴行。
書かれていないことが、ひとつだけあった。
殺し、の字がどこにもない。
向こうの帳面ですら、私たちの掟を写しはじめている。
ナダがそれを見て笑った。
「悪党にも作法があるって、役人が証明してくれたわけだ」
リンが肩をすくめた。
「作法のある悪党は、作法のない役人よりましさ」
誰も、笑わなかった。
けれど火は、小さく揺れた。
奪う相手は、世界に選ばせない。
私たちが選ぶ。
次の列も。
その次の列も。
帳尻が合うまで。
私は、握りの内側の灰を確かめた。
手を開けば、そこにある。
握れば、隠れる。
見せない名で。
選んで、奪いに行く。




