第57話「握れば隠れる」
骨の棒に、ひびが入った。
誰かを打った時ではない。
夜の山道で、崩れた足場を支えた時だ。
月のない晩だった。
濡れた土が崩れ、とっさに私は骨を岩へ突いた。
体重が乗った。
骨は私を支えた。
その代わりに、小さく鳴った。
乾いた音だった。
火のそばで、私はそのひびを見ていた。
握りの下に、細い白い筋が走っている。
骨は、二年、私を生かした。
第二の穴の底から、崖の上まで。
水の穴で、私の手になった。
カラスの声を入れたまま。
けれど、骨は減るものだ。
命だったものだから。
ガロが、それを見て言った。
「もう、振るな」
短い声だった。
「減らせないものを、武器にするな」
意味は、すぐにわかった。
カラスの声の入れ物を、これ以上減らすな。
骨は、棒だ。
でも、もう戦う棒ではない。
残す骨だ。
私は骨を布で巻いた。
荷の奥にしまう。
名前と同じ場所に。
見せずに。
捨てずに。
持っていく場所へ。
◆◇
樫を探したのは、ガロだ。
生木は駄目だと言った。
「乾いてないと狂う」
倒れて年を経た樫を、山の斜面で見つけてきた。
太い枝の、まっすぐな一本。
石の上で、刃が鳴った。
削るのは、夜の火の側。
木っ端が火に入って、ぱち、と爆ぜる。
ガロは何日も削った。
樫は、骨より刃に逆らう。
「逆らう材ほど、保つ」
逆らって。
削られて。
それでも形になったものだけが、長く保つ。
誰の話をしているのか、わからない言い方だった。
長さは、私の肩まで。
太さは、三本の指が回りきる細さ。
片手の女の棒は、両手の男の棒とは別の道具だ。
軽く。
硬く。
手の内で回らないように。
骨で覚えた握りの形が、そのまま樫に移っていく。
三本の指の幅に、浅い溝。
親指の受けがひとつ。
人差し指のない場所には、余計な丸みを残さない。
何度も、握らされた。
握っては返し。
削っては握り。
十度目の夜に、手と棒の境い目が消えた。
骨で覚えた形が、樫に移った。
振った。
樫は、骨よりよく鳴る。
風の音が、まっすぐ立つ。
岩を打っても、ひびの心配をしなくていい。
遠慮しなくていい棒は、初めてだった。
六人が、その振りを見ていた。
「いい音だ」
ナダが言った。
「船の材なら上物だ」
トビが手を挙げた。
「次、俺の短いやつ」
「順番だ」
ガロの返事は、それだけだった。
火の側に、小さな笑いが落ちた。
◆◇
仕上げの夜に、ガロが訊いた。
「字は」
短い問いだった。
意味は、すぐにわかった。
鍛冶屋は、打った物に銘を入れる。
作った者は、名を残す。
使う者は、名をしまう。
どちらも、同じ棒の上の話だった。
「銘のない仕事はしない」
ガロは、そう言った。
この棒の銘を何にするか、と訊いている。
名は、しまうと決めた。
土地ごとの呼び名で生きると決めた。
けれど、しまうことと、無いことは違う。
しまわれた名も、どこかに書かれていていい。
岩の縦線が、そうだったように。
誰にも見えない場所で。
私は、火の側の地面に字を書いた。
カラスが黒い板で教えてくれた字を。
骨の先ではなく、樫の先で。
灰。
ひと文字。
「これを」
私は言った。
「握りの内側に」
ガロは、地面の字を長く見た。
第二の穴で、私がこの名を出した夜と同じ目だった。
それから頷く。
「見えなくなるぞ」
「いい」
握っているあいだ、字は手のひらの下にある。
誰にも見えない。
手を開けば、そこにある。
握れば隠れる。
開けば、ある。
それでいい。
◆◇
名は、捨てたのではなかった。
しまう場所を決めただけだ。
胸の奥に、レン。
握りの内側に、灰。
ひとつは、誰にも渡さないために。
ひとつは、いつでも手の中にあるために。
カラスがくれた名前が、カラスの教えた字で、棒に住む。
ガロの刃が、火の灯りの中で研ぎ直される。
地面の手本を、私はもう一度なぞった。
灰。
火の明かりの下では、ただの字だった。
けれど、私には、二本の縦線と同じものに見えた。
ある。
ここに、ある。
ガロは、握りの内側へ刃を入れた。
浅く。
深くなりすぎないように。
手に触れるけれど、皮を裂かない深さで。
彫られた字に、煤を擦り込む。
余分を拭う。
字は、握りの内側に沈んだ。
私は、棒を握った。
手のひらの下で、灰の字が隠れる。
誰にも見えない。
それでも、手にはわかる。
字のかすかな凹みが、皮膚に触れる。
カラスがくれた名。
ガロが刻んだ名。
私がしまった名。
その全部が、手の中にあった。
私は、棒を振った。
風の音が立つ。
骨ではない。
でも、骨から来た棒だ。
カラスそのものではない。
でも、カラスの声を持っている。
これでいい。
これで、遠慮なく戦える。
これで、しまったものを減らさずに生きられる。




