第56話「名をしまう」
ここからの二十年を、私は、名前なしで生きた。
名乗らなかった、というだけだ。
名は、ある。
あるものを、どこに置くかの話から、書く。
◆ ◇
崖を離れたのは、最初の朝のうちだった。
海沿いの道は、使えない。
穴と、港と、役人の目が、海の側に並んでいる。
だから、内陸へ入った。
歩くのは、夜。
ナダの足に合わせて、ゆっくりと。
昼は、藪と岩陰で眠った。
先頭をトビが歩き、しんがりはガロ。
道を選ぶのは、ナダの古い記憶と、サイの用心深さだ。
穴の中で決まった並びが、外でも、そのまま生きていた。
七人の見た目は、どこから見ても、穴の者だった。
ぼろを着て、痩せて、目だけが慣れている。
三日目の夜、トビが、村はずれから服を取ってきた。
干したままの、七人ぶんを。
「借りた。返す当てはないけど」
盗みだった。
生きるための、最初の盗みだ。
私は、それを着た。
着て、何も言わなかった。
言わない代わりに、覚えておいた。
いつか、奪い方に、掟を作る。
でなければ、私たちは、ただの飢えた獣になる。
◆ ◇
手配書を見たのは、七日目だった。
街道の辻の、高札場だ。
夜のうちに、トビが一枚剥がしてきた。
囚人七名、穴抜け。
生死を、問わず。
大男が、ひとり。
老いた男が、ひとり。
女がふたりに、娘がひとり。
小柄な男と、痩せた男。
向こうの紙の上で、七人は、体の特徴で出来ていた。
名前は、ひとつもなかった。
名簿から消した名を、いまさら、向こうは持っていない。
筆頭の行に、私がいた。
名前では、ない。
名前は、向こうも知らない。
「片腕の、女」
それが、私の呼ばれ方だった。
左腕。
右目。
三本の指。
背中の焼き印。
体の欠けたところが、そのまま、人相書きになっていた。
穴が削った形で、世界は、私を数える。
値段まで、ついていた。
数えの外の七人に世界が値段をつけた。
ナダが、高札の写しを見て、鼻を鳴らした。
「俺の値段より、塩の方が高い」
リンが、笑った。
笑いごとではなかったが、笑えることが武器になる夜もある。
◆ ◇
その夜、火を小さく囲んで、決めごとをした。
名前の、話だ。
「今日から、名は、使わない」
私は言った。
「呼び名は、土地ごとに変える。前の名は、口に出さない」
穴の名簿にない名でも、名は、足がつく。
呼ばれ続けた名は、いつか、高札に並ぶ。
頷く者の中で、ネネだけが、頷かなかった。
「……名前は、言えば、自分のものになるんでしょ」
穴の底で、私が教えたことだ。
自分の口で言った名が、娘の手の中に落ちた夜を、私は覚えている。
教えたことと、いま決めることは、逆向きに見える。
逆では、なかった。
「自分のものに、なった」
私は言った。
「自分のものだから、しまう」
「人に見せる物は、奪われる。穴で、覚えた」
布も、骨も、水の場所も。
見られたものから、順に、消えていった。
名は、いちばん軽くて、いちばん、取り返しがつかない。
だから、胸の奥に、しまう。
奪わせないために。
ネネは、長いあいだ、黙っていた。
黙って、それから、小さく頷いた。
「……しまっておく」
娘の手の中の名前が、内側へ移っていくのが、見えた気がした。
名はしまう。
奪わせないために。
◆ ◇
次の朝、ガロが、私の左の袖に木の芯を入れた。
削って軽くした、腕の形の木だ。
袖の先を、懐に留める。
遠目には、両の腕に見える。
「片腕の女」は、これで、道を歩ける。
欠けたところを、隠す。
名前を、しまう。
顔を、伏せる。
それは、消えることではなかった。
数えの外で、生き延びるための形だ。
世界が、私たちを、値段で数えるなら。
数えられない場所まで、降りる。
深く。
静かに。
七人で。
潜りに、行く。




