第52話「骨が手を覚える」
朝の振りは、カラスがいた頃からの日課だ。
骨を振る。
百回。
体が冷えて固まれば、穴ではそれきり動けなくなる。
動ける体を、毎朝、確かめる。
近頃は、ネネが離れた岩からそれを見ている。
治りきった腕で、私の振りをなぞる仕草をする。
体が勝手に覚えていくのは、あの娘も同じだ。
振るたびに、すこしだけ引っかかるものがあった。
握りだ。
拾った骨は、武器のためにはできていない。
強く振り込むと、手の中ですこし回る。
人差し指のない手は、回りはじめた棒に弱い。
縦穴を登った夜、血で滑る骨を、歯で噛んで止めた。
あの止め方は、二度はできない。
だから、ひと振りごとに、私は握り直していた。
◆ ◇
その振りを、見ている目があった。
数日前から、気づいていた。
殺気ではない。
値踏みとも違う。
手元だけを、じっと見る目だ。
目の主は、穴でいちばん大きな男だった。
隅の岩場に、いつもひとりで座っている。
誰とも話さない。
膝の上で、錆びた金物を石で研いでいる。
研いで何に使うのかは、誰も知らない。
「ガロ。元は、鍛冶屋さ」
リンが言った。
「手は、確かだよ。口より、ずっと」
◆ ◇
ある朝、振り終えた私の前に、男が立った。
近くで見ると、岩のような男だった。
手が、目に入った。
古い火傷の痕が、甲まで覆っている。
火を、何年もそばに置いた者の手だ。
「貸せ」
それだけ言った。
骨を、だ。
穴の底で武器を手放すのは、命を手放すことに近い。
私は、男の足を見た。
立っている場所が、サイと同じだった。
詰めてこない、間合いの外だ。
私は、骨を渡した。
男は、重さを確かめるように、ひとつ振った。
それから、私の右手を見た。
「……指がない方か」
「ない方」
男は頷いて、岩場へ戻っていった。
「朝までに返す」
◆ ◇
眠れない夜だった。
あの骨は、カラスの声の、入れ物だ。
岩場の方から、夜通し、音がしていた。
こり、こり、と。
石が、骨を削る音だ。
雨垂れのように、規則正しい。
サイの、格子の話を思い出した。
ひと晩で削れるのは、粉ほど。
それでも、削る者だけが、何かを変える。
音は、夜のあいだ、上にも昇っていく。
私は、何度か光の口を見上げた。
覗く影は、なかった。
ないことを確かめる癖が、その夜についた。
◆ ◇
朝、骨は戻ってきた。
握りの場所が、変わっていた。
三本の指の幅に、浅い溝が三つ。
親指の当たる場所に、受けがひとつ。
人差し指のぶんは、削って落としてある。
握った。
吸いついた。
手のひらの形に、骨が彫られている。
私の手を、見ただけで。
「振れ」
男が言った。
振った。
風の音が、変わった。
強く振り込んでも、手の中で回らない。
止めたいところで、止まる。
骨が手を覚えた。
「……いい」
男は、それだけ言った。
職人の目が、振りではなく、握りを見ていた。
見れば、手が動く者が、ここにもいた。
カラスの目は、傷を診た。
リンの手は、薬を知っていた。
この男の目は、道具と手の噛み合わせを見る。
穴は、名前を奪う。
腕を、目を、指を、奪う。
それでも、手が覚えた職は、奪えない。
奪えないものを持つ者が、穴の底に、集まりはじめている。
◆ ◇
「名は」
男が訊いた。
名乗らない掟の穴で、名を訊く者は、もう掟の外にいる。
私は、すこしだけ考えた。
ギルドの台帳に書いた名前ではなく、カラスがくれた方の名前を、出した。
「……灰」
男の目が、止まった。
長いあいだ、私の顔を見ていた。
何かを言いかけて、やめた。
「……そうか」
それだけだった。
だが、その目は、私を見ていなかった。
私の向こうの、ずっと遠くを見ていた。
灰、という名前が、この男のどこかを叩いた。
どこを叩いたのかは、まだ、わからない。
灰という名が男の遠くを叩いた。
◆ ◇
水を分ける者が、ひとり。
草の手が、ひとり。
ひと晩で傷の閉じる娘が、ひとり。
鍛冶の手が、ひとり。
それから、私。
穴の底で、五人になった。
集めたつもりは、ない。
水と、傷と、骨の握りが、勝手に繋いだ。
夜、私は、新しい握りを確かめる。
三本の指が、溝に落ちる。
親指が、受けに乗る。
手と骨の、境い目が消える。
カラスの声が、手の中にある。
骨は、棒だ。
その声ごと、この手に馴染ませる。
離れない、ひとつのものになるまで。
鍛えに、行く。




