第51話「ひと晩で閉じる傷」
リンは、傷を見に来る者を、客と呼んだ。
「客が、増えたね」
水番だった男が治ってから、夜になると誰かが来た。
膿んだ指。
折れて、曲がってついた腕。
治せないものの方が、多かった。
それでも、来る。
見てもらえるということが、ここでは薬より珍しいのだ。
◆ ◇
配給の籠が降りる日は、穴が揺れる。
パンの数は、いつも人の数より少ない。
強い者が取り、速い者が拾い、遅い者はその日を水で済ませる。
その朝、籠の下で、短い悲鳴が上がった。
悲鳴の主は、小さかった。
女というより、まだ娘だ。
パンを拾った手を、金物で裂かれていた。
裂いた男は、パンごと消えている。
娘は、血の落ちる腕を抱えて座っていた。
誰も、見なかった。
見ない振りでは、ない。
本当に、見えていなかった。
弱い者の血は、ここでは景色だからだ。
リンが、娘を連れてきた。
「客だよ」
肘から手首にかけて、長い裂け傷だった。
深い。
骨が、見えかけている。
私は洗った。
リンが、噛んだ草を当てて、布で縛る。
娘は、声を出さなかった。
痛みに慣れた者の、黙り方だった。
その黙り方を、私は知っている。
昔の、わたしの黙り方だ。
「名前は」
リンが訊いた。
「……ネネ」
「誰がつけた」
娘は、首を傾げた。
「知らない。気がついたら、そう呼ばれてた」
◆ ◇
次の朝、布を替えようとして、リンの手が止まった。
傷が、閉じはじめていた。
ひと晩で。
裂けた縁が引き合って、薄い皮膚が張っている。
リンが、私を見た。
「……あたしの草は、ここまで効かない」
ネネは、自分の腕を見て、困った顔をした。
「……いつも、こうなの」
いつも。
その短い言葉が、ぜんぶを言っていた。
ひと晩で閉じる傷があった。
治りの早さは、穴の底では、良いことではない。
不気味がられて、遠ざけられる。
でなければ、面白がられて、試される。
ネネの体には、薄い傷痕が、いくつもあった。
薄いのに、数だけは読めた。
試された数だと、思った。
思って、私はそれ以上、考えるのをやめた。
「ここに、いろ」
私は言った。
ネネは、頷いた。
頷いて、初めて、すこし泣いた。
切られた時には、出なかった涙だった。
◆ ◇
夜、ネネは、すこしずつ話した。
国の名前を、知らない。
親の顔を、知らない。
気がついた時には、人の手から人の手へ、渡されていた。
持ち物は、ない。
体に残った昔のものも、ない。
名前だけが、ある。
誰がつけたかも知らない名前が、ひとつ。
私は、自分の名前のことを考えていた。
穴の底で、誰にも言わずに持っていた名前。
夢の声に繋がる名前。
カラスに、もらった名前。
名前は、つけた者と繋がっている。
ネネの名前は、宙に浮いている。
繋がる先の、ない名前だ。
「……名前は」
私は言った。
言葉は、いつも、遅れて来る。
「自分で言えば、自分のものになる」
名は、奪われるもの。
だから、穴では、誰も名乗らない。
でも、逆があることを、私は知っている。
ギルドの台帳の前で、自分の声で言った日に知ったことだ。
ネネは、しばらく黙っていた。
黙ってから、小さな声で言った。
「……ネネ」
誰に訊かれたのでもなく。
自分の口で、自分の名を。
宙に浮いていた名が手の中に落ちた。
◆ ◇
治る傷と、治らない傷が、ある。
腕の傷は、ひと晩で閉じた。
知らない、という傷は、閉じないまま娘の中にある。
名前は、その傷に当てた最初の布だ。
ほどいた布の下で、新しい皮膚が、生まれたての色をしていた。
穴の底で、その色だけが、場違いだった。
ネネは、何も知らない。
国も、親も、名づけた者も。
それでも、この体は、何かを知っている。
私の体が、骨の使い方を知っていたように、ネネの体は、傷の閉じ方を知っている。
知らないのは、ネネだけだ。




