第50話「草を噛む女」
穴の底に、降りてくるものがふたつある。
配給の籠と、綱だ。
籠には、固いパンと、塩の塊。
籠が上がると、次に綱だけが降りてくる。
降りる時の綱は、軽い。
上がる時の綱は、軽くない。
動かなくなった者を上げるための綱だからだ。
何日おきに降りるのかを、私は数えはじめていた。
数えた数は、いつか道具になる。
「次の籠の日に、上げられる」
サイが言った。
カラスのことだった。
「掟だ。……長くは、置けない」
わかっていた。
第一の穴でも、動かない者は上へ消えた。
ここでは、それが弔いの形だ。
弔いという言葉から、いちばん遠い形の。
◆ ◇
籠の日の朝、私はカラスの外套の襟を直した。
最後の身支度の、つもりだった。
胸のあたりで、指が固いものに触れた。
懐から出てきたのは、薄い帳面だった。
革の紐で綴じた、古いものだ。
角がすり切れて、丸い。
長く持ち歩かれたものの、丸さだ。
開いた。
知らない字が、並んでいた。
カラスが板に書いていた字とも、私の習った字とも、違う。
読めない。
古い染みが、頁を渡っていた。
私はしばらく、それを見ていた。
それから、閉じて、自分の懐に入れた。
カラスが、最後まで捨てなかったものだ。
拾うと決めたものが、ひとつ、増えただけだ。
◆ ◇
綱が、降りてきた。
動かない者は、ほかにもいた。
男たちが、慣れた手つきで綱に掛けていく。
カラスの体には、誰にも触らせなかった。
サイが、黙って足の側を持つ。
ふたりで、綱の輪に横たえた。
外套ごと。
顔が隠れているのを確かめてから、手を離した。
綱が張って、カラスの体が穴の底を離れた。
ゆっくり、上がっていく。
薄い光の口へ。
男たちは、もう見ていなかった。
死人が上がるのは、ここではただの掟だからだ。
私は、最後まで見ていた。
外套が光の四角を抜けて、見えなくなるまで。
カラスが先に穴を出た。
岩の縦線は、二本のまま、残っている。
体は、行った。
ある、は、残った。
◆ ◇
その晩、水場の方で、呻き声がした。
声の主は、あの男だった。
水の前に座っていた、大きな男。
私が、膝を利かなくした男だ。
近づくと、匂いでわかった。
甘い、嫌な匂い。
知っている匂いだった。
カラスの腹から、していた匂いだ。
膝裏の傷が、膿んでいた。
骨の先が、皮膚を破った傷——私がつけた傷だった。
男は、私を見ると、壁の方へずり下がった。
とどめだと、思ったのだろう。
私は、骨を岩に立てかけた。
何も持たない手を、開いて見せる。
それから、傷を見た。
見れば、手が動く。
教わった順に、勝手に動く。
洗う。
膿を、押し出す。
夜のあいだに溜めた、裂け目の水で、もう一度洗う。
男は、呻いて、暴れかけた。
その肩を、サイが押さえた。
「膿は、出すだけじゃ足りないよ」
女の声がした。
痩せた女が、立っている。
年の読めない女だ。
目だけが、若い。
女は屈んで、私の手元を覗いた。
「……筋がいいね。誰に、習った」
「医者に」
「ふうん。いい客に、当たったんだね」
女は、懐から、乾いた草の束を出した。
「リンだ。貸しに、しとくよ」
言って、草を自分の口に入れた。
噛んで、吐き出して、傷の上に置く。
布で、縛る。
迷いのない手だった。
「どこで、覚えた」
訊いたのは、サイだった。
「前の、商売で。寝床じゃ、男の傷も病気もぜんぶ見えるのさ」
リンは、それだけ言った。
草をどこから出したのかは、誰も訊かなかった。
手当てのあいだ、遠くから、目がいくつも見ていた。
奪い合いではないことが、穴で起きている。
それを、確かめる目だった。
◆ ◇
三日、通った。
朝と晩に、洗って、草を替えた。
二日目の晩、リンが、男の額に手を当てた。
「峠だね。今夜下がらなきゃ、終わり」
下がった。
四日目の朝、熱が引いた。
男は、何も言わなかった。
言わない代わりに、差し出した水を、黙って飲んだ。
カラスを、私は救えなかった。
救えなかった手が、この男を救った。
手は、覚えている。
教えた者が、いなくなっても。
医者は死んだ。
医者の手は死ななかった。
四日という数を、私は考えていた。
四日待って、カラスは立たなかった。
四日洗って、この男は生きた。
同じ数の先に、別のものがあった。
穴の底は、変わらない。
配給は、足りない。
強い者が、取る。
弱い者から、消えていく。
それでも、水は分けられた。
傷は、洗われた。
切れかけた命が、ひとつ、繋がった。
カラスから、私へ。
私から、この穴へ。
渡されたものを、切らさずに。
繋ぎに、行く。





