第49話「緩めた格子」
水を分けた朝から、サイは、ぽつりぽつりと話すようになった。
どの岩陰が夜風を躱せるか。
上から何かが降りてくるのは、どの刻か。
穴で生きる知恵を、男はすこしずつ置いていった。
私は聞いた。
聞きながら、別のことも聞いていた。
言葉の、音だ。
サイの言葉は、海のこちら側の音ではなかった。
この穴の男たちの言葉とも違う。
カラスと十年歩いた土地の音——ハルメンの言葉だ。
海の向こうの言葉が、海の果ての穴の底で話されている。
つまり、この男も渡されてきたのだ。
私と同じ、水の上を。
◆ ◇
ある夜、サイが訊いた。
「あんた、第一の穴に、いたんだろう」
「……いた」
「どうやって、ここへ」
「裁かれた」
短く答えた。
長く話す癖は、まだない。
サイは頷いて、しばらく黙った。
黙ってから、別のことを訊いた。
訊く声が、すこし変わっていた。
「……あの穴は、どうやって、出た」
順番が、おかしい。
ここへ来た道よりも、あの穴を出た道を、知りたがっている。
私は、男の目を見た。
値踏みの目ではなかった。
何かにすがる目だった。
「縦穴を、登った」
私は言った。
「天井の、いちばん高いところの」
サイの息が、止まった。
「……口に、格子が、あったはずだ」
「なかった」
「上の格子とは、別の。縦穴の口の、鉄の格子だ」
「なかった」
繰り返すと、男は両手で顔を覆った。
覆ったまま、長いあいだ、動かなかった。
◆ ◇
サイの話を、ここに書く。
二十年あまり前、この男は第一の穴にいた。
いまの私と、同じくらいの歳で。
誰もが、上の格子を見上げていた。
軋んで開いて、骨が落ちてくる、あの口を。
だが、あそこは駄目だ。
開く時には、必ず係がいる。
サイは、別の口を見つけた。
天井の隅の、細い縦穴。
光の落ちる、小さな四角だ。
その口には、鉄の格子が嵌まっていた。
登れたとしても、出られない。
みんなそう言って、見上げるのをやめた。
サイは、やめなかった。
夜ごと、眠りの薄い夜明け前にだけ、登った。
登って、骨の先で、格子の根元を擦る。
石と錆の境い目を。
ひと晩で削れるのは、粉ほどだ。
それでも毎晩削った。
水の滴りが、岩をうがつように。
何年かかったかは、本人も数えていない。
数える代わりに、削った。
格子が、手で揺れるようになった夜。
サイは決めた。
次の、月のない夜に出る、と。
だが、その晩のうちに、係に引き立てられた。
咎は、別のことだった。
配給の列の、諍いだ。
手のつけられない者として、サイは売られた。
海の向こうの、いちばん遠い穴へ。
緩めた格子に、触れないままに。
◆ ◇
「揺れるところまでは、やった」
サイは言った。
「外したのは、俺じゃない。誰かが、外したんだ。……緩んでなきゃ、外せない」
誰が外したのかは、わからない。
わからないまま二十年、海の底のような穴で、この男はひとつのことだけを考えてきた。
「あの格子を、誰かが、使ったか」
「俺の削った夜は、ただの夜だったのか」
二十年、それだけを。
「あんたが、通ったのか」
「……通った」
私は言った。
「八つの時に。矢を、受けながら」
「生きて、出たのか」
「出た」
サイは、また顔を覆った。
覆った指のあいだから、息が漏れる。
笑っているのか泣いているのか、わからない音だった。
「……無駄じゃ、なかった」
それだけを、何度も言った。
開けた者は、出られなかった。
出た者は、知らなかった。
知らないまま、生きて、海を越えて——いま、穴の底で、向かい合っている。
開けた者は出られなかった。
出た者は知らなかった。
私は、自分の脱出の夜を思い返していた。
覚えていない、半分の夜を。
あの縦穴に、私は立てた。
立てたのは、道が開いていたからだ。
開けたのは、この男の、二十年前の夜だ。
外したのは、名前のない誰かの手。
倒れた私を見つけて、矢を抜いたのも、誰か。
名前は、ひとつも残っていない。
仕事だけが残って、私を生かした。
カラスの教えのように。
縦線のように。
◆ ◇
次の朝、私は穴の天井を見上げた。
第二の穴の天井は、高い。
第一の穴より、ずっと。
光の口は、針の先ほどに遠い。
縦穴があるのかどうかも、ここからは見えない。
それでも、どこかに、ある。
緩む場所のない穴は、ない。
サイの削った夜々が、それを証した。
道は、見つけるものじゃない。
作るものだ。
作りかけの道が、この穴のどこかで、待っているかもしれない。
道は見つけるものじゃない。
作るものだ。
私は、骨を握り直した。
この穴の、壁を。
天井を。
水の道と、風の道を。
ひとつずつ——
確かめに、行く。




