第48話「置きに来た男」
穴の底の水は、ひとつしかなかった。
岩の裂け目から滴りが落ちて、小さなたまりを作っている。
第一の穴と、同じだ。
水の場所は、力の場所だ。
強い者がまず飲み、弱い者は残りを舐める。
五年、私はそれを見て育った。
ここでも、同じことが起きていた。
水のそばに、大きな男が座っている。
座って、近づく者から何かを取っていた。
布。
金物。
骨の一本まで。
払えない者は、飲めない。
飲めない者から、順に岩になっていく。
順番を作っているのは、渇きではない。
あの座り方だ。
◆ ◇
二日のあいだ、私は男の癖を見ていた。
立ち上がる時に、どちらの足から立つか。
取り立ての時に、目がどこを離れるか。
測り終えた朝に、私は水場へ歩いた。
男が立つ。
値踏みの目だった。
女がひとり。
腕がひとつ。
奪える、とその目が言った。
男の手が、骨に伸びた。
伸びた手の、肘の継ぎ目を、私は見ていた。
見て、待って、外す。
外した体は、半歩、前に泳ぐ。
泳いだ足の膝の裏へ、骨の先を入れた。
固い音が鳴って、男が崩れる。
崩れた喉の上で、骨の先を止めた。
突かない。
倒すことと、しのぐことは、別だ。
倒すこととしのぐことは別だ。
男は、利かなくなった膝を引きずって、後ろへ這った。
這う男を、囲んだ目が見ている。
次の水番が決まる瞬間を、待つ目だ。
強い者が、水を取る。
それが、穴の掟だから。
私は、水を飲んだ。
飲んで、骨を下ろし、水の前から離れた。
誰の目にもわかるように。
水は、取らない。
番は、置かない。
ざわめきが、起きた。
掟の外の動き方を、誰も見たことがないのだ。
◆ ◇
その夜、足音が来た。
眠りの外側で、耳がそれを数える。
ひとつ。
軽い。
武器の音が、ない。
岩陰の手前で、足音は止まった。
痩せた男が、立っている。
立って、両手を開いて見せた。
何も持っていない、というかたちだ。
「……あんた、第一の穴にいたな」
男は言った。
低い、嗄れた声だった。
私は、答えなかった。
答えない私の背中を、男は見ていた。
布のない、背中を。
二重の輪は、もう隠れていない。
「その焼き印。二重の輪は、あっちの穴の、鏝の形だ」
知っている者の、言い方だった。
訊き返したいことが、喉まで来た。
来たが、出さなかった。
知りたがる者は、足元を見られる。
それも、穴の覚え方のひとつだ。
男は、それだけ言って、間合いの外に座った。
奪いに来る者は、間合いを詰める。
この男は、詰めない。
詰めない者を、私はこの穴で初めて見た。
「サイ、と呼ばれてる」
名乗る者も、初めてだった。
穴の底で、名乗る者はいない。
名は、奪われるものだから。
奪われても、まだ名乗るこの男は、何かを手放していない。
「水場の奥の裂け目はな。夜のあいだだけ、倍、滴る」
男はそう言って、立ち上がった。
「あんたが水番をやらないなら、覚えとくといい」
知っていることを置いて、男は戻っていった。
奪いに来たのではなかった。
置きに来たのだった。
奪いに来たのではない。
置きに来たのだ。
◆ ◇
次の朝、私は水場の奥の裂け目を確かめた。
サイの言葉の、とおりだった。
夜の水を、欠けた器に受ける。
受けた水を持って、私はサイの岩陰へ歩いた。
男が、顔を上げる。
値踏みの目が、私を測る。
測る目の前に、私は器を置いた。
水は、ふたり分あった。
カラスといた日々が、そうだったように——ひとりの水は、命をつなぐ。
ふたりの水は、別のものをつなぐ。
私は、それを知っている。
知っている者から、始めるしかない。
奪い合うことしか知らない、穴の底へ。
カラスが私にくれたものの、最初のひとつを。
水を。
分けに、行く。




