第47話「線は、二本」
四日目の朝に、私は立つと決めた。
立つ前に、することがふたつあった。
◆ ◇
ひとつめは、外套だった。
私の肩には、カラスの外套があった。
船の底で、カラスがかけてくれたものだ。
血の汚れの残る外套を、私は脱いで、カラスの体にかけた。
顔まで隠れるように。
思えば、私はかけられてばかりだった。
穴の外で拾われた日から——頭には布、背中には合わせた襟、寒い夜にはこの外套。
隠してくれる手は、いつもカラスの側にあった。
その手は、もう動かない。
動かない分を、今度は私がやる。
かけられる側は、今日で終わりだ。
かけられる側からかける側へ。
外套の下で、カラスは眠っているように見えた。
見えるだけだと、知っていた。
それでも、そう見えることが、すこしだけ私を助けた。
◆ ◇
ふたつめは、棒だった。
私の棒は、ない。
審問の日に、取り上げられた。
棒のない手は、ただの、奪われる手だ。
それを、五年の穴が私に教えた。
穴の底を、私は歩いた。
歩いて、隅の暗がりを探す。
捨てられたものの積もる場所は、どこの穴にもある。
骨、ぼろ布、錆びた金物、名前をなくした誰かの遺品。
その中から、私は長い骨を選んだ。
太くて、乾いて、まっすぐな骨だ。
誰の骨だったのかは、考えない。
考えない覚え方も、穴で覚えた。
三本の指と親指で握ると、手に馴染んだ。
重さも長さも、樫の棒とは違う。
違うのに、覚えのある場所に収まった。
三本の指は、もう棒の形を知っている。
骨は、棒だ。
棒は、骨だ。
ひとつめの声が、手の中で鳴った。
私は骨をひとつ振った。
毎朝、カラスの前で振っていた、あの振り方で。
風を切る音が、穴の底に薄く立つ。
その音を聞いて、ようやく、手が手に戻った。
骨は棒だ。
それがお前を生かす。
◆ ◇
それから、私はカラスの隣の岩に、骨の先で線を引いた。
縦の線を、一本。
カラスが毎朝、板に引いていた線だ。
線があれば、ある。
消えれば、ない。
カラスは、もういない。
いないはずなのに、私の中では、まだ、ある。
教わった手が、ある。
もらった名が、ある。
振り方も、看方も、火の起こし方も、ある。
だから、線は二本だ。
カラスの分を、隣に引いた。
引いて、しばらく、二本を見ていた。
穴の薄い光の中で、線はただの傷に見える。
そのただの傷が、私には、ふたり分の「ある」だった。
岩の上に、縦の線が二本並んだ。
消す者は、いない。
雨も、ここまでは届かない。
◆ ◇
名のことも、書いておく。
私の名は、レンだ。
誰にも書かせない。
誰にも消させない。
ふたつめの声の、とおりに。
穴の底で、私はその名を、初めて自分の荷物だと思った。
奪われない、荷物だ。
左の腕とも、右の目とも違う。
奪いようのない場所に、ある。
穴は、ぜんぶを取る。
腕も、目も、指も、声も、取られた。
それでも、名は残った。
残ったのは、内側に置いたからだ。
誰にも言わない名前は、誰にも取れない。
あの日のわたしは、それを知っていて、隠した。
今日の私は、もう、隠すために持つのではない。
名を取り上げた者たちは、それを知らない。
知らないことが、いつか、あの者たちの負けになる。
◆ ◇
最後に、私は外套の上から、カラスの胸に手を置いた。
置いて、言った。
「……行ってくる」
行くぞ、と言う声は、もうない。
ないから、私が言う。
言って、私は立った。
膝は、震えなかった。
震えるだけの涙は、三日で使い果たしていた。
残ったのは、乾いた体と、よっつの声だ。
穴の底に、骨がひとつ。
縦の線が、二本。
外套の下に、ひとり。
ぜんぶを覚えて、私は歩き出した。
カラスが遺したものを——名を。
骨を。
生きろを。
ひとつ残らず。
拾いに、行く。





